第七話
煤で汚れたレンガ作りの建物の中にためらいもなく入っていくハンナ様。その部屋の中は熱気と、土の焼ける匂いに満ちていた。
中で作業をしていた恰幅の良い男性がハンナ様へと近づく。
「親方、修繕した窯の様子はどう?その後問題は起きていないかしら。……そう、順調そうで何よりです。ティーカップの試作品が出来たと聞いて、見に参りました」
隣接する部屋へ入ると、白い陶器がいくつも並んでいる。光の加減か、陶器の質感に違いがあるように見えた。
「先日倉庫で見せていただいたティーカップですね。商会の人気商品の」
「ええ、覚えていてくれたのね。これは試作品なの」
ハンナ様は一つ一つ手にとって、光に透かしたり、じっくりと見比べながら説明してくれる。
「より透明感を出して、丈夫なカップにしたくて……材料の配合を少しずつ変えて作っていただいたのがこれなの。親方、お忙しい合間にたくさん作っていただいて感謝いたしますわ。厨房にお酒を届けていますから、後で皆様でどうぞ」
「お気遣いありがとうございます!」
親方が深々と頭を下げる。
「ノア様に譲っていただいた、あの『工芸風土記』からヒントを得たんですの。あの時は本当にありがとう」
「私はなにも……。私も今読んでいるところです。あちらの国はガラスのカップで有名ですが…陶器の種類の豊富さも、大変興味深いですね」
「ノア様、この二つのカップ、どちらの質感が良いと思われますか」
「あ、はい…失礼します」
僕は左右のカップを一つずつ手に取り、じっくりと光に透かし、指先でその滑らかな質感を確かめる。
(…自分の感覚を、信じていいのだろうか。でも、ハンナ様のお役に立ちたい)
意を決して答えようとしたその時、ハンナ様がふわりと隣に寄り添い、僕の手の中にあるカップへ指を伸ばした。
「っ……!」
ふいに届いた甘い香りと、僕の手のすぐ隣にあるハンナ様の細く美しい指先。
胸がドクンと跳ねた。
「右のものは少ししっとりとした手触り……左はさらりと滑らか、ですわね。ノア様はどう思われて?」
ほんの少し動かせば触れてしまいそうな距離に、胸の鼓動が一気に早くなる。
(……落ち着け。今は仕事の最中だ……!)
深呼吸をして、己の指先に神経を集中させる。
「……左のカップの透明感がより美しいですが、こうして透かすと光の通り方に僅かながらばらつきがあります。…少し強度が心配かもしれません。ですので、実用性と均一さを兼ね備えた、右のものがよろしいかと」
ハンナ様はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに頷いた。
「私も全く同じ考えよ。ノア様の指先は、私が思っていた以上に繊細で確かですのね」
先程の胸の高鳴りに、不意打ちの褒め言葉が重なる。…こみ上げる動揺を隠すように僕は慌てて深く礼をとった。
ハンナ様は満足そうに親方へ振り返り、告げる。
「親方、この配合30%のものでいきましょう。……あら、絵付けの方、新しい方が入ったの?」
隣の工房に、三つ編みの若い女性が熱心に、陶器に色を塗っているのが見えた。
「ええ、専属の絵付け師が利き腕を怪我してしまいまして…その娘が『父の代わりに』と手伝いを申し出てくれたんですが、これがなかなか器用でしてね。そのまま働いてもらうことになりました。エラ、お嬢様にご挨拶を。……エラ?」
「はっ…!すみません…!集中してしまって。エラと申します」
がばっとお辞儀をする様子に、ハンナ様が目を細める。
「手を止めてしまってごめんなさいね。見事な蔦バラね、以前から絵付けをしていたの?」
「いえ…絵付けはここで教えてもらったのですが、もともと絵を描くのが好きなのです」
「そうなのね。これからも活躍を期待しているわ……あら、あのカップは貴女が絵付けしたの?」
ハンナ様の視線の先には、琥珀色の花が描かれたティーカップが棚に置かれていた。
「はい。あの……すみません。親方の試作品のティーカップの残りを使って、私が試しに描いたものです」
叱られると思ったのか、エラが下を向いてシュンとしている。
「これはマーガレットの花かしら?野の花をこんなに愛らしく描いて…琥珀色なんて、すごく素敵なティーカップね!」
エラが目を丸くして、それからパッと顔をほころばせる。
「…ありがとうございます。窯の温度変化で偶然生まれた、珍しい琥珀色の絵の具なんです。少し素朴ですが……」
「これ、二つともいただけないかしら。もちろんお代はきちんと支払いますわ」
ハンナ様の言葉に、エラは表情を輝かせた。
包んでもらった木箱を受け取ると、ハンナ様はくるりと僕の方を振り返り、悪戯っぽく微笑む。
「ノア様、こちらを一つ、貴方にお贈りしてもよろしくて?」
「えっ……!私に、ですか?ですが、このような素晴らしいものをいただくわけには……」
「初仕事の記念に。それから、日頃の感謝ですわ。それに……ふふ、この温もりある琥珀色が、なんだかノア様にとてもお似合いになると思ったの」
「僕に…ですか……?」
自分なんかに、と恐縮しながらも、僕は渡された木箱を宝物のように抱きしめた。——一生、大切にしよう。
「では親方、今日のお話はここまでにしましょう。また連絡いたしますね」
「かしこまりました。お気をつけてお帰りください、お嬢様、エイカー様」
丁寧に見送られ、工房の出口へ向かって歩き出した——その時だった。
重い音とともに近くの窯の扉が開かれ、突如として激しい熱風と煤の混じった灰が吹き出し、ハンナ様の頭上を襲う。
「……!失礼します!」
考えるより早く体が動いていた。
ハンナ様の肩を引き寄せ、夢中で僕の胸の中へと抱きかかえ込む。
ジュッと背中を襲う激しい熱気と、服の上からチリチリと刺すような痛みに、思わず歯を食い縛った。腕の中のハンナ様を絶対に離すまいと、ただひたすら強く抱きしめ続ける。
やがて熱風が過ぎ去り、灰の雨が止む。
腕の中のハンナ様が無事であることを確かめようと、少し腕の力を緩め、顔を覗き込んだ。
「怪我はございませんか、ハンナ様。……ハンナ様?」
「……っ、ええ、大丈夫、ですわ……!」
見上げ返してきたハンナ様の顔が、驚くほど赤く染まっている。
瞳も心なしかうるうると潤んでいて、いつも凛とした彼女とは思えない表情だった。
(……窯の熱に、少し当てられてしまったのだろうか)
◇
煤けたジャケットを脱いで工房の外に出ると、夕方のひんやりとした風が肌を刺した。
「そのままではお寒いでしょう…これを」
ジャケットのかわりにと、ハンナ様が、ご自身の首からふわりと大判のストールを外し、僕の首元に優しく巻きつけてくれた。
その瞬間、ふんわりと鼻腔をくすぐった甘い香りに、息が止まる。
(あ、これ……っ!!)
一気に鮮明な記憶が脳裏を駆け巡る。
あの夜、馬車の中で僕を包んだ、甘く優しい香り。柔らかく温かな膝の感触。僕の頭を優しく撫でてくれた手。あの上品で、どこか艶やかな微笑み——。
顔が一気に熱くなり、叫び出したいような衝動に駆られる。
声にならない悲鳴を必死に飲み込んだ。
「……ノア様?参りましょうか」
「は、はいっ……!」
首元に残る彼女の香りと温もりに打ちのめされながら、僕は真っ赤になった顔を隠すように俯き、笑顔のハンナ様をまともに見られないまま、必死でその後に続いた。




