第六話
「お前、あの夜のこと覚えてるか?」
学園の昼休み。賑やかなカフェテリアの席で、僕はコリンに食後のプリンを押し付けるように差し出した。あの夜、泥酔した自分を運んでくれたお礼のつもりだったのだが、どうにも決まりが悪い。
「……ごめん、後半の記憶がほとんどなくて。コリンにも迷惑をかけてしまったよね」
申し訳なさそうに身を小さくする僕に、コリンは「おっ、名物のプリン!いただき〜」と嬉しそうにスプーンを取りつつ、「やっぱり覚えてないかぁ」とニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「お前さ、馬車の中でずーっとハンナの手を握りしめて離さなかったんだぞ」
「えっ……!?」
「しかも『あったかい……行かないで……』って呟きながら、ハンナの膝に頭乗っけて寝ちゃってさ。俺とハンナで馬車に運び込むのも一苦労だったんだからな!」
「ひ、膝枕……っ僕が……!?」
瞬間、頭が真っ白になって顔から火が出そうになる。 あの優しくて上品な人の膝を枕代わりにして、手を握りしめて甘えていただなんて……!
「で、週末から働くことになったのか」
「う、うん……その、ハンナ様にお声をかけていただいて……」
「まあ当然そうなるよな。出会いの順番は前後したけど、どのみちお前をいずれ引き合わせるつもりでいたから。うちは隣国との取引きも多いし、ノアは適任なんじゃないかと思ってたんだ……アリシア様のことがあったから、今まで声をかけづらかったけどな」
コリンは入学当初から親戚の商会を手伝っていると言っていたけれど……それがカルディナ商会だったとは。コリンはハンナ様の従兄弟にあたる。そういえば以前、学園内で『コリンには将来、カルディナ家へ婿入りする話がある』なんて噂を聞いたことがあった。
(コリンは男爵家の長男だ。けれど、カルディナ伯爵家は王国でも屈指の大商会を持つ名門。コリンに弟がいるとはいえ、もしハンナ様と結ばれるなら、実家を弟に譲ってでも婿入りする話が出るのは当然なのかもしれない……)
(コリンとハンナ様……親戚同士で昔から知っていて、容姿も家柄もお似合いだ……)
そう思うと、なんだか胸の奥がチクチクと疼くような、おかしな感覚に襲われた。
◇
どんな顔をしてハンナ様にお会いすればいいだろう。お詫び……いや、泥酔して膝枕してもらったなんて話題、自分から出すのもあまりに恥ずかしすぎる。
カルディナ商会の一室の前で、僕のノックする手がピタリと止まってしまっていた、その時だった。ドアの前にちょこんと座っていたアレックスが、僕を見上げて「ワン!」と高く吠える。
『どうしたの?アレックス』
中からハンナ様の優しく鈴を転がすような声が聞こえ、僕は慌てて身を正すと、勢い任せにドアを叩いて「ノアです!」と告げて入室した。
「どうぞ。ああ、ノア様!よく来てくれたわ」
出迎えてくれたハンナ様を目にした瞬間、僕は息をのんだ。王立図書室やパーティーで見かけるいつもの優美なドレス姿でなく、しなやかな身体のラインを際立たせる、スマートな乗馬服。
そして何より、彼女の艶やかな髪が、今日は後ろで高く一つに括られていたのだ。ハンナ様が動くたびに、しなやかに揺れる髪。そこから覗く華奢で白いうなじに、思わず目が釘付けになってしまう。
いつもの優美な姿と違い、凛々しいお姿があまりにも眩しくて、僕は顔が熱くなるのを必死に耐えた。
「今日はこれから職人街や窯元へ視察に行くの。ノア様、一緒についてきてくださる?」
首を傾げて微笑むハンナ様に、僕は声が裏返りそうになるのを抑えながら、こくこくと何度も頷くことしかできなかった。
その時──。
「お姉さま〜!アレックスをおむかえにきました!!」
パタパタという元気な足音とともにドアが開いて、愛らしい少年の声と、それに応えるアレックスの「ワン!」という低い鳴き声が部屋に響き渡った。
「『どうぞ』というまで入るのを待ちましょうね。ふふ…テオくん、今日も元気いっぱいね」
ハンナ様は膝を折り、目線をテオくんの高さまで下げると、優しくその頬を撫でた。
「お客さまがいらっしゃったのですね。私はテオドール=カルディナともうします。この子は犬のアレックスです!」
ハンナ様が「テオくん…!ご挨拶ができて立派だわ」と瞳を潤ませて感動している。
「はじめまして、ノア=エイカーと申します。アレックスにはさっき会ったね」
僕はアレックスの頭を撫でる。アレックスも喉を鳴らして、気持ちよさそうに目を細めた。
「アレックスはちゃんとお部屋の前で、おみはりをしていました!アレックスはお姉さまを助けた、大英雄なんですから」
えっへん、と胸を張るテオくん。
「大英雄…?」
首をかしげる僕に、ハンナ様がどこか誇らしげで、けれど少し照れくさそうに微笑んだ。
「大英雄だなんて。……でも、そうね。大袈裟かもしれないけど、私にとっては英雄かも。私が昔、商会の馬車で事故に遭いそうになった時、幼かったアレックスが身を挺して助けてくれたの。それ以来、この子は私の立派な護衛であり、家族なの」
「そうだったのですね……」
「はい! だから今度は、ノアさまにも『ゆうしゃアレックス』のご本を持ってきてさしあげます!アレックスは、ゆうしゃさまと同じおなまえなんですよ」
「素敵な名前をつけてもらってよかったな」
アレックスを撫でると、得意そうに鼻をフン、と鳴らす。
「お姉さまはノア様とご一緒してこれからお仕事がありますから、テオくん、アレックスをよろしくね」
「はい!おまかせください!アレックス、いくよ!」
テオくんがビシッと小さな胸を張ると、アレックスは「……くぅん」と情けない声を漏らした。
ハンナ様と一緒にお出かけできないと察したのか、大きな耳をパタリと下げて、心底がっかりしたようにハンナ様の足元に擦り寄っていく。
「ふふ、アレックスたら。いい子で待っていたら、たくさん撫でてあげるわね。テオくんも、アレックスのお世話をお願いね」
ハンナ様は優しく目尻を下げると、アレックスの大きな頭を抱きしめるように撫で、テオくんの頭も優しく撫でまわした。愛おしそうで、無防備で、とびきり甘い『お姉ちゃん』の顔。
(……あ。)
その光景に既視感を抱く。
僕の手を優しく握ってくれたことも。語りかけてくれる時の、あの柔らかく、包み込むような眼差しも。
(ハンナ様のあの優しさは……『弟』や『ワンコ』に向けられるものと、同じだったんだ……)
その事実に、なぜか、すごくがっかりしている自分がいる。
(……え?なんで僕は、がっかりなんてしてるんだ……?)
助手として雇ってもらった身で、親切にしてもらえてるだけで十分すぎるはずなのに。弟やペットと同じ「可愛い枠」に入れられていることに、どうしてこんなにもショックを受けているのだろう。
同時に、昼休みにコリンとハンナ様の関係について考えた時のことが思い出される。胸を締め付けるチクチクとした痛み。その正体もわからないまま、僕は自分の動揺を持て余してしまう。
「ノア様? どうかされました?」
テオくんたちを見送ったハンナ様が、首を傾げて僕の顔を覗き込んできた。その瞳はどこまでも清らかで、一点の濁りもない。
「い、いえ……! なんでもありません。……それでは、参りましょうか」
僕は自分の気持ちを切り替え、ハンナ様に微笑み返した。




