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第四話

「よかった。いくらか顔色がよくなったわ」

彼女がほっとして笑みを浮かべる。

食後に手ずから淹れてくれたハーブティーを差し出しながら、


「何から話しましょうか。まずははじめまして、かしら。ノア様、とお呼びしても?」


「え……っ、僕の名前を……?」

カップを受け取ろうとしていた手が止まる。

驚いて顔を上げると、ハンナ様は悪戯っぽく微笑んだ。


「ええ。王立図書室の奥、外国語の資料棚のあたりでよくお見かけしていたわね。

同じ棚の資料を取ろうとして譲り合ったり、軽く会釈を交わしたりしていたでしょう?……覚えていないかしら」


「い、いえ!覚えています!ただ……ハンナ様のような伯爵家のお方が、僕のような者を覚えていてくださったなんて思わなくて……」


慌てる僕の様子に、彼女はフッと柔らかく目を細めた。そして、温かなハーブティーのカップを僕の手に持たせてくれる。


勧められるまま一口含むと、爽やかなカモミールと柑橘の優しい香りが鼻腔を抜け、強張っていた体がじんわりと解けていく。


「覚えているわよ。いつも熱心に、隣国の古い文献を読み込んでいらしたでしょう?とても真面目で、素敵な方だなって、陰ながら拝見していたの」


(——隣国の、文献……)

差し出されたカップの温もりを感じながら、胸の奥がキュッと痛む。


僕が必死に隣国の文献を読んでいたのは、半分は、男爵家の次男として、領に何か貢献できることを探すため。


そして、もう半分は…王太子の冷遇に耐えながら隣国について学ぼうとしていた、公爵令嬢のアリシア様のためだった。


ことあるごとにあの男爵令嬢に因縁をつけられていた彼女の力になりたくて。形見の品を一緒に探したあの日から、彼女を守りたくて、必死で食らいついていた勉強だったのだ。


だけど——結局、彼女を救ったのは隣国の王子様で。 僕はただ、舞踏会の隅でそれを見送ることしかできなかった。


瞬時に僕の表情が曇ったのを、ハンナ様は見逃さなかった。


「……昨夜のパーティー、……悲しい思いをされたわね」

図書室でのアリシア様とのやり取りも、惨めな失恋も、ハンナ様は察しているのだろう。


ただ静かに傷に寄り添うような声に、視界がじんわりと滲みそうになる。


「実はね、従兄弟のコリンからも、ノア様のことは伺っていたのよ。たしか、同級よね」

「コリンから……ですか?」


「ええ。『ノアは語学に長けていて、真面目で、誰よりも優しい』と。それでその……昨夜パーティーでお見かけした時に話しかけようとしていたら、あんな事が起こってしまって。……その後は、貴方も知っての通り」


ハンナ様は少し表情を曇らせると、慈しむような瞳で僕を見つめた。

「ご迷惑かとも思ったのだけど、どうしても一人にしておけなかったのよ。……それにね」


ハンナ様は少し困ったように笑うと、そっと僕の目元に指先を寄せた。


「……ここに来てからも、うなされながら、ぽろぽろと涙をこぼしていらしたから。放っておけなくて、温かいタオルで涙を拭っていたのよ」


「——っ!?」

朝起きた時の、あの温かいタオルの記憶。 あれはただの目覚ましではなく、僕の情けない泣き顔を彼女が優しく拭ってくれていた時間だったのだと知り、一気に顔が沸騰するように熱くなった。


「すみませんっ!……僕、そんな情けない姿を……」

恥ずかしさで縮こまる僕を見て、ハンナ様は優しく微笑んだ。


「誰かを真っ直ぐに想って傷ついた涙を、情けないなんて思わないわ。……本当はね、図書室で何度も資料を譲っていただいたお礼を、昨夜のパーティーでちゃんとお伝えしたかったの。でも、あんなに悲しい夜になってしまったから……」


語りかける彼女の瞳には、ただ温かな愛おしさが満ちていた。


誰も自分を見てくれていないと思っていた。自分を卑下して、身の程知らずの恋に失恋して。


なのに、彼女はずっと僕の努力を見ていてくれて、傷ついた夜にこうして温もりをくれたのだ。


押し寄せる情けなさと、胸がいっぱいになるほどの感謝に、視界が急激に歪んでいく。我慢しようとすればするほど、ポロポロと大きな粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。


「あ……っ、すみま……っ」

慌てて袖で顔を覆おうとした僕より早く、ふわりと甘い香りが近づいた。 ハンナ様がポケットから薄桃色のハンカチを取り出し、小さな子供をあやすように、そっと僕の頬と目元を拭ってくれる。


「ふふ、これで二度目ね。……本当に、放っておけない可愛いワンちゃんみたい」

柔らかい手巾越しに伝わる彼女の体温。 涙で濡れた目元を拭われながら、僕はただ、彼女の優しい掌に包み込まれていた。

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