第三話
温かいタオルで顔を拭われた心地よさに微睡みながら、ふと気がつく。目の前にはくすくす笑う彼女の姿があった。
「——!?」
一気に覚醒したものの、理解が追いつかない。
見覚えのない落ち着いた部屋、見慣れない窓の向こうの景色。側のチェストの上には昨日着ていた服が畳まれており、慌てて視線を落とすと、自分自身も肌触りのいいゆったりとした部屋着に着替えさせられていた。
「ようやく夢から目が覚めたみたいね。おはよう。体調はどう?」
「だ、大丈夫です……っ」
重い頭をフル回転させて、必死に状況を整理する。
(昨日は、失恋の苦しさを紛らわせたくてお酒を何杯か煽って……それから彼女と庭へ出た。そこから先の記憶がない。まさか僕、彼女に何か大変なご無礼を……!?)
想像しただけで、さーっと血の気が引いて顔が青ざめていく。
「着替えさせたのは私ではないから、安心してね。……私はマーサではないわよ?」
彼女がいたずらっぽく微笑む。寝ぼけてばあやと間違えてしまったのか。ということは、さっき優しく顔を拭ってくれたのは彼女自身……?想定外の事実に、今度は一気に顔が火照っていく。
「少し風を入れましょうか」
彼女が軽やかな足取りで窓を開けると、爽やかな朝風とともに、遠くから商人たちの賑やかなやり取りが聞こえてきた。
その時、扉がパタンと開き、モフモフとした大きな犬が飛び込んできた。疾走してきた勢いのまま僕の膝に前足をドスンと乗せ、千切れんばかりに元気よく尻尾を振っている。あまりの迫力にどうしていいか戸惑っていると、
「ああ、入ってきてしまったのね。驚かせてしまってごめんなさい。この子はアレックス。うちで飼っているの」
彼女は困ったように笑いながら、アレックスの首元を白く綺麗な手で撫でてやった。
「改めまして、私はハンナ。ハンナ=カルディナ。ここはカルディナ商会の控室よ。……昨日のことはどこまで覚えているかしら?」
「貴女と庭へ出たことまで覚えているのですが……何かご無礼を……?」
「無礼なことなんて何もなかったわ。ただ……あまりに気持ちよさそうに眠ってしまわれたから、起こすのが忍びなくて。そのままうちの商会へお連れしたのよ」
記憶を飛ばすほど飲んでしまったということか。情けなさと申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「それは大変なご迷惑を……!私はノア—— 」
焦って名乗りかけたその時、コンコン、と扉を叩く静かな音が響いた。
「ハンナ様。朝食をお持ちいたしました」
入ってきた従業員が、手際よくテーブルへ温かな湯気の立つトレイを並べていく。香ばしい焼き立てパンと、ハーブと野菜の甘いスープの香りが部屋いっぱいに広がり、僕のお腹が思わず小さく鳴りそうになった。 従業員が恭しく一礼して下がると、彼女はふふっと柔らかく目を細めた。
「さあ、まずは冷めないうちに召し上がれ」
「……いただきます」
勧められるまま、パンを一口ちぎって口に入れる。ふんわりと柔らかく、ほのかな小麦の甘みが広がる。
「近所に美味しいパン屋さんがあるの。ご夫婦で営んでいらして、私のお気に入りでね。ときどき夫婦喧嘩をするとパンが焼けていなくて、困ってしまうのだけれど。ふふ。さあスープも召し上がれ」
「はい……」
掬い上げた温かいスープが、強張っていた胃とお腹をゆっくりと満たしていく。
「飲みすぎた日の翌日に、おすすめのスープなの。胃がすっきりするでしょう?」
やけに実感のこもる言葉だ。
「あ、はい……すごく美味しいです。カルディナ様も飲みすぎたことが…?」
「お察しの通り。…ハンナと呼んでちょうだい。ここではカルディナ様だと、私なのか親族なのか分からなくなってしまうから」
一瞬言葉を置いて、彼女はちょっと困ったような、可愛らしい笑顔を見せた。
「実はね、私もつい最近飲みすぎたばかりなの。隣国から入ってきたばかりのリンゴのお酒を試飲したら、美味しくて止まらなくて…!あとで飲んでみます……?」
「い、いえ……しばらくお酒は止めておきます」
真面目にそう返した僕を見て、ハンナ様は一瞬の間を置いて、楽しそうに声を上げて笑った。
(昨夜一体どんな醜態を晒してしまったのだろう)
彼女はどこか慈しむような、優しい眼差しを僕に向けると、おねだりするように擦り寄ってきたアレックスの頭をぎゅっと抱きしめ、モフモフの毛並みを愛おしそうに撫で回した。
(……なんだか、すごく可愛がられている気がする)
足元の犬を可愛がっているだけのはずなのに、僕が妙にそわそわしてしまう。
「ふふ、そうね。無理をなさらないで」
アレックスを可愛がりながらも、その温かな視線はしっかりと僕に注がれている。
胸をくすぐるような視線の温もりに戸惑うけれど……まずは目の前のことに集中だと、スープの匙を握り直す。気取らないハンナ様の笑顔と、あたたかな朝食。心がすっと軽く感じられ、どこか居心地が良い——。




