第二話
「……素敵なダンスを、ありがとうございました」
一瞬だけ触れ合っていた温もりが消え、代わりにひんやりとした夜風が肌を撫でる。
彼はそっと手を離し、しばらくその離れた手を見つめる。ぎゅっと手を握りしめ、やがて綺麗にお辞儀をすると、ホールへと視線を向けた。
「少し、喉が渇いてしまって。……失礼しますね」
そう言って立ち去る彼の背中は凛としていて、ぎゅっと握り込まれた手に気付かなければ、先ほどの表情も幻であったかのように思っただろう。先程までの僅かなぬくもりを閉じ込めるように包んだ手から、私は目を逸らせなかった。
ホールに戻った彼は、感情を殺したような顔でグラスを取り、強いお酒を煽るように飲み始めている。
(飲まなければやっていられない……気持ちは、痛いほどわかるけれど)
独りで飲みたい気分だろうか。
私は先程彼と繋いでいた手のひらを、そっと包んでみた。
横目で見やったホールの中心では、王太子殿下と可憐な男爵令嬢が、まるで世界の中心にでもいるかのようにスポットライトを浴びている。
……けれど、見せかけの華やかさの裏で、目の肥えた識者たちは笑顔の下で「あのおめでたいお頭の王太子はもう切り捨てるべきだ」と算段をつけ始めているのだろう。すでに第二王子の周囲へと静かに人が集まり始めているのが見えた。
──誠実さを捨ててまで手に入れたその恋が、政治の波にどれほど耐えられるかしらね。
冷ややかな思考を振り払い、私は目の前の健気な背中に意識を戻す。
彼を放ってはおけない。家路に着くまでは見守ろうと決心する。
私はグラスを置くと、迷わず彼のもとへと歩き出した。
「だ、大丈夫……?」
少し、いや、かなり酔いが回っているみたいだ。
喉が渇いたからとお酒に手を伸ばしたまではよかったものの、一杯、二杯と、彼がグラスを空けるペースは留まることを知らなかった。
さすがに心配になるペースだった。
「ここの庭園はバラが有名だと聞くわ」
とお酒から気を逸らすようにして、夜の庭へと連れ出した。
「そうですね。少し庭でも歩いて、酔いを醒ましましょうか」
そう言って二人でゆっくりと辿り着いたベンチに、彼は吸い寄せられるように座り込む。
「夜風が気持ちいいですね……」
息苦しそうに首元のクラバットの結び目をゆるめると、彼は脱いだ上着をベンチにそっと敷き、「どうぞ」と隣を勧めてくれた。こんな状態のときですら紳士的な気遣いを忘れないところに、彼の誠実さが滲み出ている。
感謝して腰を下ろすと、彼はそのままゆっくりと顔を上げ、夜空を見上げた。
吸い込まれそうなほど深い夜空に、星々が瞬いている。彼はただ静かに、その光を瞳に映していた。やがて、小さく息を吐き出す。
「……お慕いしています」
——あの女性を、ね。
「お慕いして、いたんです」
「ええ」
か細く漏れ出た彼の言葉を、私は静かに受け止める。
うるうると揺れる彼の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっていた。けれど、彼は決してそれを流そうとはしなかった。
「……格好悪いですね、僕。……どうか、彼女が幸せになれますように」
ぎこちなく唇の端を上げて自嘲気味に笑うと、彼を繋ぎ止めていた緊張の糸がぷつりと切れたようだった。
長いまつ毛がゆっくりと伏せられ、そのままぐにゃりと身体の力が抜けていく。
「……ちょっと!?」
慌てて受け止めると、彼の頭が私の肩へとトン、と預けられた。耳元で聴こえ始める、規則正しい小さな寝息。
届かなかった恋の傷も、男としてのプライドも、お酒の酔いも。すべてを抱えたまま、彼は私の隣で完全に落ちてしまった。
「……泣けばいいのに」
そっと彼の額に触れてみる。夜風に晒された私の手はひんやりと冷たかったけれど、火照ったおでこには心地よかったのだろう。ん……と小さく鼻を鳴らして、私の手にすり寄ってきた。
(……あ、かわいい)
心臓の奥が、ぎゅっと跳ねる。
見上げれば、テラスの向こうではギラギラとした視線を走らせる肉食系の令嬢たちが、次の獲物を探してうろついているのが見えた。
社交界の男狐や女狐たちがうごめくこの狩場に、こんな無防備で健気で愛おしいワンちゃんを放置していけるわけがない。
「……覚悟しなさいね。今夜は帰しませんから」
私は小さく溜息をつくと、彼の上着を羽織り直させ、自分の肩にしっかりと彼の腕を回した。




