第十六話(前編)
「お姉さまー!げんてい品のお花がたクッキーを食べたいので、ぼくもていえんに行きた……わあ、お姉さまとってもきれい!」
部屋に入ってきたテオドールが、私のまわりをくるくると回りながら瞳を輝かせる。
「ふふ、ありがとう、テオくん。テオくんも一緒に行って良いか、あとでノア様がいらっしゃったら聞いてみましょうね」
私の後ろ姿を見たテオドールが、パッと顔を明るくした。
「あ、乙女のリボンだ!アレックス、大変だよ!ぼくのお姉さまが、まるで勇者の乙女みたい……!そうだ、ぼく、乙女の絵をかいてきます!」
足元にいたアレックスに嬉しそうに語りかけると、テオドールは慌ただしく部屋を飛び出していった。それを見送ったクリスタが、「では私は、別の化粧筆を取ってまいりますね」と爽やかな笑みを浮かべて部屋を後にする。
◇
部屋を出た瞬間、クリスタはスカートを翻して走り出した。
(テオドール様の同行を阻止できるのは誰?旦那様は坊ちゃまに甘いからダメね。何か別の楽しみに誘導しなくては……そう、お絵描きよ!コリンさんを呼んで工房へ誘わせましょう!)
すれ違う使用人たちが二度見するのも構わず、普段のしとやかさが嘘のような爆走で、クリスタは廊下を駆け抜けていく。
◇
ひとり部屋に残された私は少し首を傾げ、鏡に映る自分の髪と、そこに結ばれたシャンパンゴールドのリボンを見つめた。
(すっかり緊張していたから、テオくんがついてきてくれたら安心……。でも……ふたりきりになれないのは、少しだけ残念な気もしてしまうなんて……)
自分の欲張りな思考に顔が熱くなり、そっと頬に手を当てる。
やがて戻ってきたクリスタは少しだけ肩を上下させて息を整えると、「お待たせいたしました」と優雅に微笑んだ。
それから彼女は、いつも以上に丁寧な手つきでお化粧を仕上げていく。
──ノア様が私に心を向けてくださるように、可愛くなりたい。
その一途な願いに真剣に応えてくれる彼女の仕事ぶりに、全てを委ねる。
すみずみまで完璧に美しく整えてもらい階下に降りると、玄関には息を切らしたコリンが立っていた。
「まったく、人遣いが荒いな……クリスタさん……ああ、ハンナ。テオドールに用があって来たんだ」
「お姉さま、はい!これあげる!」
アレックスを従えて階段を駆け降りて来たテオドールが、元気よく差し出したのは、一枚のスケッチだった。
「素敵な絵ね!勇者の乙女を描いてくれたの?」
「はい!リボンをつけて、かみには勇者がくれたアンズの花をさしているんです!」
「ありがとう、テオくん。今日のお守りにするわね」
弟の愛らしいプレゼントを大切にバッグに仕舞うと、その横でコリンがテオドールにそっと耳打ちをした。それを聞いたテオドールの目が一瞬で丸くなる。
「え!?行く!行きます!……お姉さま、ぼくは今日エラさんの工房でカップに絵をかいてきます!すてきなカップを作ってきますから、楽しみにしていてくださいね!」
「あら、そうなの…….?気をつけて行ってらっしゃいね。コリン、テオドールをお願いね」
コリンが私に『お任せください』と頼もしく目配せをしたのと同時に、エントランスの扉が開き、ノア様が姿を現した。
◇
視界いっぱいに広がるマーガレットを見つめるハンナ様の美しさに見惚れる。
「ノア様、今日は素敵な庭園に連れてきてくださりありがとうございます。コリンとエラがここのマーガレットの話していたから、気になっていたの」
ハンナ様のとびきり嬉しそうなお顔が見られて、ほっと胸を撫で下ろす。
今日のハンナ様はいつにも増して美しい。サイドを綺麗に編み込んだ煌めく髪、うっすらと赤みがさす頬。それに愛らしい唇……不躾に見てはいけないと思いつつ、見惚れてしまう。
限定品の花型のクッキーを購入したいというハンナ様のため、休憩がてら庭園のカフェに移動した。
「これはデザインが凝ってますね……確かにテオドール様が欲しがるはずですね」
「ええ、購入できてよかったですわ。良いお返しになりそう」
「お返し……ですか?」
ハンナ様が頷いて、バッグから一枚の紙を取り出した。
「テオドールが勇者の乙女の絵を描いてくれたの。とっても嬉しくて……」
ハンナ様の柔らかい笑顔に、僕も嬉しくなって、二人でテオドール様の絵を覗き込む。
「乙女が髪に挿しているのはアンズの花なのですって。そういえばあの地域はアンズが名産なのかしら。キャンディーもアンズでしたし、ノア様にいただいたジャムもアンズでしたわね」
「ああ、あのマーサの手作りジャムですね。領地でよく食べられている果物の一つなんです」
「マーサ様……お顔を拭いてくださるマーサ様?」
ハンナ様が思い出してクスクスと笑った。
「忘れてください……お恥ずかしい」
僕は顔が熱くなるのが分かった。あの細く白い手で、僕の顔を拭ってくれたなんて。
「お花の真ん中をジャムにしたら、もっと見た目が可愛くなりそうだわ」
僕が困っていると、ハンナ様がさりげなく話題を変えてくださった。
「あのアンズジャムは、甘くて少し酸味があって……少し苦めのチョコレートと合いそうだと思ったんですの。チョコレートを使った何かに挟んだらおいしくなるんじゃないかしら」
「ケーキに挟んでみるのはどうですか?帰ったら試してみましょう」
ハンナ様のきらきらした瞳に、僕の胸が高まる。こうしてアイデアを出し合う時間は、心から楽しい。
ふとハンナ様の表情が曇った。
「仕事の話ばかりでごめんなさい……私、ノア様と何かを作ったり考えたりするのが、あまりに楽しくて……つい」
「謝らないでください。僕も、ハンナ様とアイデアを出し合っている時間が、一番楽しくて幸せなんです」
僕がまっすぐ見つめて伝えると、ハンナ様は驚いたように目を見開き、それから胸に手を当てて小さく息を吐いた。
◇
(……ああ、ジュリアン様は違ったわ)
ハンナの脳裏に、苦い過去の記憶がふとよぎる。
『ハンナ、そうした細かい仕事は下の者に任せておけばいいんだ。君がやるべきなのは、カルディナ伯爵家の名に恥じぬよう社交に励むことだろう?くだらない手仕事に時間を費やされては、私の婚約者として困るのだがね』
ジュリアン様にとって、私が描く絵も、思い浮かべるアイデアも、何一つ価値なんてなかった。
けれど、ノア様は違う。私の言葉に目を輝かせるばかりか、一緒に面白がり、心から楽しんでくれる。
ひとりの人間として、尊重されている。大切に、されている。ノア様と過ごす時間は、私という存在をそのまま丸ごと肯定してくれる、温かい奇跡のような時間なのだ。
(……だから私は、ノア様の隣にいたいのね)
胸の奥にあった漠然とした不安が消え去り、ハンナはとびきり晴れやかな笑顔を浮かべた。
長いため、区切りました。




