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第十六話(後編)

「そういえば、商会の名前はもう決まっておりますの?」


僕はごくりと息を飲み込んだ。

「はい。……エイカー・ヘーゼル商会で登録を済ませました」


「ヘーゼル……ですか……それって……」


ハンナ様が何かを口にしかけたその時、風がふっと吹き抜け、彼女のサイドを編み込んだ輝く髪が揺れた。


そこに結ばれていたのは、僕が贈ったシャンパンゴールドのリボン。それをつけてくれていることだけでも心が高揚するのに、ふと、そのリボンに丁寧な刺繍が施されていることに気づく。


──縁を彩る、深みのあるボルドーの刺繍。

(あの日、僕が選んだクラバットと同じ色……?)


僕は息を呑み、どうにか冷静さを保ちながら声を絞り出した。

「リボンに、刺繍……なさったんですね」


ハンナ様はこっくりと頷くと、照れたように頬を朱に染め、膝の上でぎゅっと小さな手を握りしめた。


「ノア様のクラバットに色が似ていたから……差し色にボルドーを入れてみたの。は、端っこだけですけれど……ちょっとだけ、おそろいにしてみ……っ」


最後まで言い終わるより早く、僕は勢いよく立ち上がっていた。そのままテーブルを回り込んでハンナ様へと近づき、膝の上の小さな手を夢中で包み込む。


(可愛い……あまりにも、可愛すぎる……!)


「……ノ、ノア様……!?」


間近に迫る僕の顔と握られた手に、驚きで目を丸くするハンナ様。


「……ヘーゼルです、ハンナ様。身勝手をお許しください。ですが、どうしてもこの名にしたかったのです。あなたの美しい髪と瞳……(はしばみ)のように温かくきらめくその色を、商会の冠にしたくて」


僕は解くどころか、触れ合う手をさらに強く握りしめる。


「あなたの瞳を、ずっとそばで見つめていたいのです。アイデアが湧いて絵を描いていらっしゃるときも、テオドール様とお話しなさっているときも、僕に優しく微笑みかけてくださるときも。あなたの榛色のその輝きは、いつも僕に生きる勇気をくれる」


ハンナ様を見つめる視線に、抑えきれない愛おしさが募る。


「ハンナ様。お慕いしています。……どうか、僕と歩む未来を考えてはくれませんか。あなたとともに歩む『資格』が、僕はほしいのです」


顔を真っ赤にして、僕を見つめるハンナ様。

僕は必死に言葉を続けた。


「形式だけの婚約でも構いません。形式でも何でも、あなたを王家の手から守れるのなら……!もちろん、ハンナ様が望まないならいつでも解消していただたいて──」


「……い、嫌です!」

ハンナ様が慌てて僕の手をぎゅっと両手で掴んだ。

「ハンナ様……!?」


「仮初めの婚約なんて、嫌です……!いつでも解消してなんて、そんな悲しいこと言わないでください……っ!」


「あ……」

僕の軽率な言葉でハンナ様を悲しませてしまった。


目の前で震えるハンナ様の小さな手を、自身の両手で強く握り返す。──伝わってくる、あたたかな体温。


(あの冷たい夜のテラスで、崩れそうだった僕を繋ぎ止めてくれた……あの優しくて温かい手だ)

あの時、僕はわずかな温もりの余韻を握りしめたまま、逃げるように彼女の前から立ち去ってしまった。けれど、もう二度とこの手を離すものか。


そう固く誓った直後、ハンナ様が涙声で言葉を紡いだ。


「ノア様のお心には、今もアリシア様がいらっしゃるのでしょう……!?だからそんなことを平気で……!でも、私は……私はっ」


ハンナ様の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。


「ア、アリシア様……!?いいえ、違います!!……いや、確かに昔はお慕いしていましたが……今の今まで、あの方の存在を本気で失念しておりました……!!」


僕は慌てて彼女の涙を拭おうと片手を伸ばしかけ──けれど躊躇して、再びその手を固く握り直した。解くのが怖くて、片手すら離したくなかった。


「え……?忘れて……?」

驚きに目を見開いたハンナ様が、僕をまっすぐに見つめ返した。


「はい!……今、僕の心にはハンナ様しかいません!『形式だけ』と言ったのは、僕のような男がハンナ様を縛ってしまうのが申し訳なかったからで……っ」


重ねた手から伝わる体温が、僕たちの鼓動をひとつにしていく。僕は涙で濡れるハンナ様の榛色の瞳を、まっすぐに見つめ直した。


「僕の本心は、形式でも何でもなく……一生あなたと添い遂げたい。ハンナ様、あなたを愛しています」


「ノア様……っ!」

ハンナ様が耐えきれなくなったように、僕の胸へと飛び込んできた。


衝撃とともに、腕の中に全身で収まる柔らかく温かな体温。 一瞬目を見開いた僕は、涙を拭うように彼女を強く抱きかえした。

あの夜、分け合った切ない温もりは、いまや僕の全てを包み込む確かな愛へと変わっていた。


「……もう、絶対に離しませんから」

抱きしめた腕に力を込めると、僕の胸の中でハンナ様が嬉しそうに、ぎゅっとしがみついてくれた。


テーブルの花瓶に生けられたマーガレットの花を一輪手に取り、ハンナ様の髪にそっと挿す。


「……勇者アレックスが乙女に贈ったのはアンズの花でしたが。僕が送るのは、このマーガレットです。僕の乙女は、ハンナ様、あなたですから」


「……お慕いしています、ノア様」

この日、涙を浮かべながら幸せそうに微笑んだハンナ様の顔を、僕は一生忘れないだろう。

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