第十五話
「では、正式な契約は現地の視察後、エイカー男爵と交わそう。ノア・エイカー君、今後ともよろしく頼む」
「どうぞよろしくお願いします」
カルディナ卿との会合を無事に終え、小さく息を吐く。
ノックの音がして、入ってきたのはハンナ様だった。
「お呼びでしょうか、お父様」
「二人に話がある。単刀直入に言おう。ハンナ、そしてノア君。形式だけでもいい、二人で婚約をしてはくれないだろうか」
「えっ……私とノア様が……!?」
ハンナ様が驚いている。当の僕も驚きすぎて、一瞬声が出なかった。
「……事情をお聞かせくださいませんか」
努めて冷静な声で答えた……つもりだ。
カルディナ卿は、試作品のソーサーをそっと掴み、光にかざした。
「ノア君、君の目は確かだ。君の言う通り、うちの工房なら間違いなくこれ以上の、それこそ最高級の食器が出来上がることだろう。そして遠からず、王家に献上することになる」
ハンナ様も、僕も頷いた。
「君たちは卒業パーティーに参加していたのだから、あの婚約破棄騒動を見たのだろう?……あの一件で王家は多額の慰謝料を払うことになり、今、王太子殿下は修道院で謹慎中だ」
「第二王子殿下には隣国の姫の輿入れの噂もある。件の男爵令嬢とでは到底釣り合わん。そこで王妃をはじめ王太子に継がせたい連中が、水面下で新たな妃候補を探しはじめたようだ。ハンナ、この食器を献上すれば間違いなく王家はお前に目をつける。『金のなる木』である、年頃の娘にな」
ハンナ様が一瞬見せた悲しそうな顔に、僕は膝の上の手をきつく握りしめる。
「うちは、代々中立のカルディナだ。王位継承権の派閥争いに関わるつもりはない。そこで……先ほどの婚約の提案というわけだ。業務提携を理由とした婚約を済ませてしまえば、王家とて手は出せない。どうだろうか?」
僕は王太子殿下と、マールブローネ修道院の前で叫んでいた男爵令嬢のことを思い返す。
真実の愛とやらは一体どこへ行ったのか。
ハンナ様を利権や都合の犠牲になどさせない。一度傷ついた彼女を、これ以上薄っぺらい思惑に巻き込ませてたまるか。
「お父様、ノア様にもご都合がありますわ……ご迷惑をおかけするわけには……」
困惑し、僕に申し訳なさそうな視線を向けるハンナ様。僕はまずカルディナ卿へと向き直し、深く頭を下げてから静かに口を開いた。
「カルディナ卿、その話……大変光栄ですが、今ここで、私の都合やお返事だけで決めることはできません」
そこで一瞬言葉を切り、僕は隣に立つハンナ様をまっすぐに見つめた。
「これは、ハンナ様のお気持ちと人生が関わる重大なことです。私は、ハンナ様が望まない形での婚約で、彼女を縛りたくはありませんから」
驚きに揺れるハンナ様の可憐な瞳。
(……ハンナ様)
すぐに駆け寄り、その手を取ってさらってしまいたい衝動に駆られる。
『婚約』という名目にかこつけて、その華奢な肩を今すぐに抱き寄せられる正当な資格を手にしてしまいたい。
誰にも渡したくない。彼女の傷を癒やし、笑顔を取り戻させるのは、他の誰でもなく僕でありたい──。
──だが、ダメだ。今ここで焦ってしまっては、僕も彼女を利用しようとした奴らと同じになってしまう。順序を踏み、彼女の心を何よりも尊重しなければ。
彼女に、僕との未来を考えてもらえる時間を。
溢れ出しそうな想いをぐっと押し殺して踏みとどまり、僕はカルディナ卿へと視線を戻した。
「カルディナ卿。明日一日、ハンナ様をお借りする許可をいただけないでしょうか。……僕たちの未来について、ハンナ様と二人でしっかり話し合いたいのです」
カルディナ卿は一瞬目を見張り、それから我が子を見守るような温かい眼差しで、嬉しそうに目を細めた。
「……分かった。二人でよく話してきなさい」
◇
「……さま、ハンナお嬢様っ」
ハッと気がつくと、自室のソファでお茶を一口も飲まないままティーカップを手に持っていた。クリスタが声をかけてくれなかったら、手元を滑らせて零してしまうところだった。
「……何か、込み入ったお話だったのでしょうか」
クリスタが遠慮がちに尋ねる。
「……そうね……」
ハンナは先ほど言われたノアの言葉を思い出し、一気に顔を熱くさせた。
──僕たちの未来について、ハンナ様と二人しっかり話し合いたいのです。
……僕たちの、未来。
私たちの、未来を望んでも……いいのだろうか。
「……クリスタ、刺繍箱をくださる?」
こういう時は何かに集中するのが一番だ。そう思って深く息を吐き出し、ノア様からいただいた大切なリボンを取り出してじっと見つめる。
ハンカチのお礼に、ただくださっただけだもの。明日のことだって、ノア様は私に気を遣っているのかもしれない。だってノア様は、アリシア様のことが……。
ひと針ひと針、丁寧に糸を通していく。シャンパンゴールドのリボンに、ゆっくりと琥珀色のマーガレットが描かれていく。
「あら、クリスタ。この糸は色味が少し違うんじゃないかしら」
「縁取りに入れてみたら差し色になって素敵かと思いまして」
「そうね。赤みのある糸も確かに素敵だわ……ボルドーかしら、この色」
(シャンパンゴールドに、ボルドー……ふふ、ノア様にあの日選んだ、クラバットの色みたい。……リボンの端くらい、こっそりノア様とお揃いにしても、いいかしら)
「良いんじゃないでしょうか、お揃い」
「……!?」
ドキッとして手が跳ね、危うく針を落としかけてしまう。
「……えっ?私、口に出して……?」
「はい、しかと聞こえました」
恥ずかしさのあまり耳まで熱くなる。でも、聞かれたのがクリスタで本当によかった。
「……お父様がね、ノア様と婚約しないかって」
「そうでしたか」
クリスタは優しく微笑み、新しい糸を準備しながらハンナの顔を覗き込んだ。
「お嬢様は、どうなさりたいんですか?」
「……ノア様には、思う方がいらっしゃるの」
「エイカー様に……ですか?(……どう見ても、お嬢様しか見えていらっしゃらない気がいたしますけれど)」
クリスタは心の中でそっと呟きつつ、真面目な顔で問いかける。
「お嬢様のご自身のお気持ちは、どうなのでしょうか」
「婚約……したいわ」
(……私、ノア様のことが好きなんだわ)
言葉にした途端、今まで胸の奥で燻っていた想いが、ストンと綺麗な形になって腑に落ちた。
ずっとノア様のことが気になっていたのは、好きだから。ハンカチに刺繍を刺したのも、今こうしていただいたリボンに琥珀色を纏わせているのも、全部──。
「ご婚約されたいのですね。私はハンナお嬢様のお気持ちを、全力で応援いたします」
「でも……ノア様には好きな方が……」
「それは、エイカー様に直接お尋ねになってみてはいかがですか?私には、エイカー様がお嬢様をただのビジネスパートナーだと思っていらっしゃるようには見えません。いつもお嬢様を第一に考え、その心に寄り添ってくださる方だと信じております」
「クリスタ……」
「仮にエイカー様にお好きな方がいたとして……お嬢様、それで諦めてしまわれるのですか?」
「諦め……るなんて、できないわ。だって、好きなんだもの。……あっ」
思わず口から飛び出した本音に、ハンナは慌てて口元を押さえた。
クリスタはどこまでも温かい笑顔で頷き、ハンナの手を優しく包み込む。
「でしたら、指をくわえて待っているだけでは勿体ありませんわ。ノア様のお心を、お嬢様に向かせてしまえば良いのです」
「お心を……私に……」
クリスタの言葉に、胸の奥から湧き上がるような勇気をもらう。
(そうよ。諦めるなんて嫌……!ノア様が誰かを想っていたとしても、私を、私だけを見てほしい)
私はぎゅっとリボンを握りしめ、クリスタを真っ直ぐに見つめた。
「……クリスタ、お願い!明日、私を飛び切り可愛くしてちょうだい!」
「ふふ、お任せくださいませ。我がカルディナ伯爵家の至宝、ハンナお嬢様の最高のお姿を仕立てて差し上げますわ」
──思いを伝えて、ノア様に振り向いてもらうのよ、ハンナ!




