第十一話
ハンナは自室で、庭を眺めながらぼんやりしていた。このところ精力的に仕事をしていたが、詰め込みすぎたのが祟ったのか熱を出してしまい、従業員たちから「少し仕事を休んでください」と押し切られて二日が経つ。
紅茶を一口飲み、ティーカップをそっとソーサーの上に置いた。カップに描かれたマーガレットの花柄を、指先でそっとなぞる。
(我ながら自己管理がなっていないわね……)
理由は、自分でもよくわかっていた。仕事の手を止め、心に余裕ができると、ついノア様の顔ばかり浮かんでしまうのだ。
エイカーの領地へ旅立ってから、彼から一度手紙が届いた。無事であることに安堵しながら読み進めると、領地でアンズがよく実っている場所があったからと、手紙に自家製のアンズのジャムが添えられていた。
ジャムをひと匙掬って、紅茶に落とした。残り少なくなった瓶を見つめながら、手紙の続きを思い出した。このアンズを使って果実酒を作ってみたいので、帰ったら味の参考に先日のリンゴのシードルを購入させてほしい、と書かれていた。
あの日、飲みすぎて、私の肩にもたれかかって眠ってしまったノア様の姿が思い返される。手にすり寄ってきたときの無防備な顔。膝に倒れ込んできたときは本当に驚いて……切ない顔で「行かないで」なんて囁かれて。アリシア様に向けた言葉だと分かっていても、胸の動悸は一向に収まらなかった。
(……次からは絶対に客室へお通しして、そこで飲んでいただくべきね)
そう固く心に誓う。
今思い返しても、あり得ないほど間近にノア様の熱を感じていた。家族以外で、あれほど近くに誰かを寄せたのはノア様が初めてだ。……元婚約者でさえ、いつもどこか余計な壁を感じる距離を保っていた。
『君といても少しも心ときめかないよ。数字や商売の話ばかりで、女らしい可愛げも、甘やかさも何一つない。婿入りの話があればまだしも、君のような冷めた女を愛せる男など、この世にいると思うかい?』
去り際に叩きつけられた元婚約者の言葉が、苦い記憶となって脳裏をかすめる。
(……そうね。私は誰かに愛されるような『可愛らしい女性』ではないもの)
もう、誰かと恋をしたり、婚約なんてする気はない。テオドールが健やかに育っている今、カルディナはわざわざ婿を取る必要もないし、両親も無理に縁談を勧めたりはしてこない。
私はカルディナ商会のために生きる。それで十分なはずだった。
(……なのに、どうしてこんなにも、ノア様のことを考えてしまうのかしら)
胸の奥がキュッと締め付けられるような切なさが込み上げてくる。
「クゥン」
傍らで寛いでいたアレックスが、心配そうに体をすり寄せてきた。その黄金色の温かい毛並みを、ゆっくりと優しく撫でる。
「いい子ね。あのときは本当にありがとう、私の勇者様。……あんな奴に酷いことを言われたくらいでぼーっとして、馬車に気づかないなんて、あの頃の私は本当どうかしていたわ」
◇
翌日、東屋にコリンとエラがやって来た。
「お嬢様がお気に入りだと仰っていたので、色味を揃えて作ってみました!」
エラが満面の笑みで差し出したのは、ブロンズ製のカップホルダーとソーサーだった。
以前エラから買い取った、あの琥珀色のマーガレットが描かれたティーカップにぴったりとはまり、シックで繊細な柄をいっそう引き立てる。
「全部が、こ、琥珀色……!!」
温かみのある琥珀色で統一された見事なセットを見て、ハンナの頬がじわじわと真っ赤に染まっていく。
「な、なんてものを作り出してしまったの、エラ……!」
「ふふ、それだけじゃありません!見てください、マーガレット柄のティースプーンもありますよ!」
「……!!」
完璧すぎる追い討ちに、ハンナはもう耐えきれず両手で顔を覆ってしまった。
(ああ……これ、完全にノアの色だな……)
珍しく慌てふためき、リンゴのように赤くなるハンナの様子を見て、コリンはすべてを察した。
(ハンナとノアか……ふん、意外とありかもしれないな。あいつは真面目で優しいし、仕事のサポートも申し分ない。……ノアの気持ちと、伯父上の考えもそれとなく探っておくとするか)
ハンナが深く息を吐き出し、どうにか心を落ち着かせて顔を上げた。
「……ありがとう、エラ。これも喜んで買い取らせていただくわ」
◇
「坊ちゃん、あまり夜遅くまでお仕事をしては身体に障りますよ」
「ありがとう、マーサ」
久々に飲む、ばあやのホットミルク。ほのかな蜂蜜の甘さに、連日の山での作業疲れがじんわりと解けていく。
改めてルーペを持ち、机の上の白い土をゆっくりと検分する。
(やっぱり、間違いじゃない。陶石だ)
土ではなく、石の粉。
頭の中に記憶していた隣国の資料と、アイデアを書き溜めた自分のノートを照らし合わせ、確信する。
これは、あの美しい『磁器』と呼ばれる器の原料だ。これを使えば、これまでの陶器や金属とは全く違う、薄くて軽くて、光を透かすほど滑らかなティーカップが作れる。
(ハンナ様の、あの白く美しい手にきっとよく似合う……)
この陶石で最高のティーカップを作り、ハンナ様に贈ったら──あの花が咲くような素晴らしい笑顔を、また見せてくれるだろうか。
想像しただけで胸が熱くなり、僕は胸ポケットからそっとハンカチを取り出した。可憐なマーガレットの刺繍にそっと指を滑らせ、思わず笑みをこぼす。
「まあまあ、美しい刺繍ですねぇ。そんなに愛おしそうに眺めて……坊ちゃんにも、そんな素敵なハンカチをくださるお相手ができたのですねぇ。ばあやは嬉しいですよ」
「わっ……!?マ、マーサ、まだいたの!?ち、違うんだ、これはそんなんじゃ……」
「はいはい、照れちゃって。夜更かししてお顔がやつれてますからね。ほら、拭きますよー」
「ちょっと、マーサ!僕はもう子どもじゃないんだから顔くらい自分で拭くってば!服が濡れる!」
ぬるま湯で絞った手拭いを手に迫ってくるマーサから、慌ててハンカチを庇いながら逃げ惑う。
「マーサこそ、夜更かしは体に悪いんだから早く休んで。……本当に、僕のことは大丈夫だから」
「ふふ、はいはい。でも、そのハンカチをくださったお方に、元気なお顔でお会いしなきゃいけませんからね。ほどほどになさってくださいね」
悪戯っぽく微笑んで部屋を出ていくマーサの後ろ姿を見送り、僕ははあと深く息を吐いた。
真っ赤になった頬を手で冷やしながら、僕は手元にある白い陶石と、大切なハンカチを交互に見つめる。
(……とにかく、まずは試作品だ。二週間でカルディナ商会へ戻ると、ハンナ様と約束したんだから)
僕は再びペンを取り、磁器カップの設計図へと没頭していくのだった。




