第九話 偽聖女は泣き方を習った
ミレーヌ様は、王立法衣院の医療室へ運ばれた。
神殿へ戻せば証言を潰される。王宮へ移せば王太子派が手を伸ばす。結果として、法衣院の一階にある小さな医療室が、王都で最も安全な場所になった。
扉の外には近衛兵が二人。窓の外には法務官。部屋の中には女性医師と侍女が控えている。
私は本来、休むべきだった。
けれどミレーヌ様が目を覚まし、私と話したいと言った時、断ることができなかった。
謝ってはいけない。
それは分かっている。
でも、聞かなければならないことがある。
医療室の寝台に横たわるミレーヌ様は、広場で見た聖女候補とは別人のようだった。化粧は落とされ、髪もほどかれている。頬は青白く、唇には血の気がない。
それでも綺麗な人だと思った。
綺麗になるよう、徹底的に作られてきた人なのだろう。
「ルシア様」
彼女はかすれた声で言った。
「わたくしを笑いに来たの?」
「話を聞きに来ました」
「優しいふりをするのね」
「優しいかどうかは分かりません。でも、あなたの罪と、あなたに背負わされた罪を分けたいと思っています」
ミレーヌ様は目を細めた。
「そういうところが嫌い」
「はい」
「怒ればいいのに。わたくしを罵ればいいのに。あなたがそうしてくれたら、わたくしはもっと楽に悪者になれた」
楽に悪者になる。
その言い方が、胸に引っかかった。
ミレーヌ様は天井を見たまま続けた。
「わたくしは孤児でした。ラザール家の遠縁ということになっているけれど、本当は神殿の育児棟で育った子です。七歳の時、泣き方が綺麗だと言われました」
「泣き方?」
「ええ。神殿では、聖女候補は泣き方を習うの。左目から先に涙を出す、声は震わせるけれど言葉は切らない、相手を責める時は“許します”と言う。そうすれば、人は勝手に罪悪感を抱く」
背筋が冷たくなる。
涙も、訓練された武器だった。
「治癒魔法も習ったわ。でも、わたくしの力は弱かった。傷をふさぐより、相手の罪悪感を引き出す方が上手だった。だから司祭様は言ったの。お前は赦しの聖女になる、と」
「赦しの聖女……」
「罪を犯した貴族の前で泣くの。その人は寄進する。神殿は罪を軽くする。その代わり、下働きや侍女や小役人が謝罪状を書く。わたくしはずっと、それが普通だと思っていた」
ミレーヌ様の指がシーツを握る。
「だって、そう教えられたから。偉い人の罪は国のために隠す。弱い人の罪は神のために背負わせる。それで秩序が守られる。王太子妃になれば、わたくしはもっと多くの人を赦せる。そう信じていた」
「では、私に毒殺未遂の罪を着せたのも」
「あなたは、ちょうどよかった」
ミレーヌ様は私を見た。
その目に、初めてはっきりとした悪意が宿った。
「地味で、謝り癖があって、婚約者なのに王太子殿下から愛されていない。あなたなら、自分が悪かったと言うと思った。修道院に送られても、そこで謝りながら生きると思った」
痛かった。
言葉が胸に刺さる。
ミレーヌ様は私を見ていた。私の弱さを、彼女は正確に見抜いていた。
「そうですね」
私は言った。
「以前の私なら、そうしたかもしれません」
彼女の目が揺れる。
「でも、今は違います」
「白いドレスのおかげ?」
「それもあります。でも、ドレスがなくても、私はあなたの罪を私のものにはしません」
医療室の空気が静かになった。
ミレーヌ様は笑おうとして、失敗した。
「強くなったのね」
「まだ練習中です」
「練習で王太子と神殿を敵に回すなんて、あなた変よ」
「私もそう思います」
少しだけ、二人の間の空気が緩んだ。
けれど、許したわけではない。
私は針箱から銀の証言針を取り出した。ミレーヌ様の目が警戒で細くなる。
「何をするつもり」
「あなたが話したことを、証言として残せるか試します。嫌ならしません」
「わたくしに選ばせるの?」
「はい」
「断ったら?」
「今日はここまでです」
ミレーヌ様は私を長く見つめた。
選択肢を与えられることに慣れていない顔だった。
やがて彼女は小さく笑った。
「本当に嫌い。そういうところ」
「はい」
「でも、いいわ。わたくしの言葉を縫いなさい。どうせ神殿は、わたくしを切り捨てるでしょうから」
私は証言針を白い布に当てた。
謝罪ではない。
ミレーヌ様が語ったことを、私が見た、聞いた真実として縫う。
「私は、ミレーヌ・ラザールが神殿で涙を訓練され、赦罪の儀に使われたと証言します」
透明な糸が布に走った。
しかし、途中で糸が止まった。
赤い文字が一行だけ浮かぶ。
証言不完全。ミレーヌ・ラザールは本名ではない。
ミレーヌ様の顔から色が消えた。
私は彼女を見る。
「本名を知っていますか」
「知らない」
「本当に?」
「知らないわ!」
叫びは本物だった。
ドレスはさらに縫った。
本名を奪った者――神殿大司祭グラシアン。記録保管場所――ミラー修道院、赦しの間。
ミラー修道院。
マリエが言っていた神殿の仕組み。四十二通の謝罪状。黙罪布の本体。
線がまた一つつながった。
ミレーヌ様は震えながら笑った。
「ほらね。わたくし、自分の名前も知らないの。聖女候補なんて呼ばれて、王太子妃になる夢を見せられて、本当は名前のない道具だった」
その笑い方が、ひどく痛々しかった。
私は何か言いたかった。
でも、慰めの言葉は違う気がした。
「あなたがしたことは、消えません」
私は言った。
ミレーヌ様は目を閉じた。
「ええ」
「でも、あなたにされたことも、消しません」
彼女は目を開けた。
その瞳に涙が溜まる。今度の涙は、訓練されたものではなかったと思う。
「ルシア様」
「はい」
「わたくし、あなたに謝るのはまだ嫌」
「はい」
「でも、いつか本当に謝れたら、その時は受け取ってくれる?」
私は少し考えた。
謝罪を受け取ることは、罪を消すことではない。
それを私は学び始めている。
「その時の謝罪が、あなた自身の罪に向けられたものなら」
ミレーヌ様は小さくうなずいた。
「厳しいのね」
「練習中ですから」
医療室を出ると、ノア殿下が廊下で待っていた。
「聞こえていましたか」
「必要な部分だけ」
「本当ですか」
「法務官としては、全部聞きたかった」
「殿下個人としては?」
聞いてから、私は自分で驚いた。
ノア殿下も少しだけ驚いた顔をした。
それから、彼は静かに答えた。
「あなたが自分で扉を開けて出てくるまで、待ちたかった」
胸の奥が、ゆっくり温かくなる。
私は外套の襟を握った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
その短いやり取りが、少しずつ私の日常になり始めていた。




