第八話 涙で罪を移す聖女
王都中央広場は、人で埋まっていた。
神殿の鐘が鳴り、白い幟が風に揺れている。幟には聖印と、聖女候補ミレーヌ様の名が金糸で刺繍されていた。昨日まで毒殺未遂の容疑者だった人の名が、今日は潔白の象徴として掲げられている。
噂の速さは、馬車より速い。
昨夜のうちに、王都にはいくつもの話が流れていた。
王太子殿下は魔女に陥れられた。
聖女候補は嫉妬深い令嬢に狙われた。
白いドレスの女は、罪を刺繍する呪いを使う。
王弟殿下はその女に操られている。
半日で、私は濡れ衣令嬢から呪いの女になっていた。
「外套のフードは深くかぶってください」
ノア殿下が言った。
私は灰色の外套の前を握った。今日、私は裁定室ではなく広場にいる。法衣院の馬車で来たが、群衆の中に直接立つわけではない。広場を見下ろせる時計塔の二階から、儀式を観察することになっていた。
ノア殿下、私、ティナ、マリエ、そして数名の法務官。
証言を集めるための小さな部屋は、窓の隙間から冷たい風が入ってくる。
ティナは心配そうに広場を見下ろした。
「すごい人です。みんな、ミレーヌ様を信じているみたい」
「信じたいのだと思います」
私は答えた。
聖女候補が無実で、王太子が騙されただけで、悪いのは地味な伯爵令嬢一人。それなら物語は簡単だ。民衆は王家を疑わずに済む。神殿も穢れない。昨日までの秩序が戻ってくる。
私が悪者なら、皆が楽になる。
その構造を、私はよく知っている。
前世の会社でも、客の怒りは窓口の私に向けられた。商品を作った部署でも、契約を決めた上司でもなく、電話に出た私が謝る。相手は謝罪の声を聞くことで、怒りの置き場を見つける。
今、広場の人々は同じことをしている。
罪の置き場を探している。
神殿の扉が開いた。
ミレーヌ様が現れる。
白い聖衣。菫色の瞳。頬は痩せ、昨夜の疲れを演出するように薄い影が引かれている。彼女が一歩出るだけで、群衆からため息が漏れた。
美しい。
悔しいけれど、それは事実だった。
人は、見たいものを見る。彼女は「傷ついた聖女」として、完璧な絵になっていた。
司祭が声を張る。
「聖女候補ミレーヌ・ラザールは、神の御前で潔白を誓う!」
群衆が静まる。
ミレーヌ様は広場の中央に立ち、両手を胸の前で組んだ。
「神よ。わたくしは、誰も憎んでおりません」
声は震えていた。
「ルシア様がわたくしを憎まれても、わたくしは許します。王太子殿下が苦しまれても、わたくしは支えます。どうか、真実をお示しください」
許します。
その言葉に、群衆が揺れた。
ミレーヌ様は涙を一粒こぼした。
涙が石畳に落ちた瞬間、白い光が広がった。
奇跡だ、と誰かが叫ぶ。
けれど、私のドレスは反応した。
赤い糸が袖口に走る。
涙媒介。罪移しの簡易儀。対象、ルシア・ベルネット。
胸が冷えた。
ミレーヌ様の涙は、無実を証明するものではない。罪を移すための媒介だ。
広場の白い光が、細い糸のように時計塔へ伸びてくる。
ノア殿下が即座に私の前に出た。
「下がってください」
「でも、殿下に移ったら」
「私の外套には法務院の遮断印があります」
白い光が窓枠に触れる。部屋の中の空気が軋んだ。
ティナが小さく悲鳴を上げる。
マリエが私のドレスを見て叫んだ。
「お嬢様、謝ってはいけません! あの涙は、あなたに“聖女を苦しめた罪”を認めさせるためのものです!」
分かっている。
でも、光に触れた瞬間、頭の中に声が響いた。
ごめんなさい。
ミレーヌ様を傷つけてごめんなさい。
皆を不安にさせてごめんなさい。
王太子殿下を苦しめてごめんなさい。
それは私の声に似ていた。
私が何度も使ってきた言葉だった。
だからこそ、恐ろしい。
白い光は、私の中の謝罪癖を知っているように入り込んでくる。
私は震えながら母の針箱を開けた。銀の証言針に触れる。針先は冷たい。
使い方は分からない。
けれど、証言はできる。
「私は、見ています」
私は窓の外を見た。
「ミレーヌ様の涙が、私へ伸びているのを見ています」
透明な糸がドレスの胸元から伸びる。
「私は、聖女候補の涙が、無実の証明ではなく罪移しの術であることを証言します」
証言針が手の中で光った。
透明な糸は窓を越え、広場へ降りた。白い光とぶつかり、空中で弾ける。
群衆が一斉に空を見上げた。
白い光の中に、赤い文字が浮かぶ。
潔白の祈りの実態――罪移し。術者、神殿司祭オルド。媒介、ミレーヌ・ラザールの涙。移す対象、ルシア・ベルネット。
広場が静まり返った。
ミレーヌ様の顔が凍る。
司祭オルドが慌てて杖を振った。
「偽りだ! 魔女の妨害だ!」
その言葉に、赤い文字がさらに増えた。
司祭オルドは、術式の目的を知っている。
群衆から悲鳴が上がる。
「罪移し?」
「聖女様が?」
「今の文字は何だ?」
ミレーヌ様は一瞬だけ私のいる時計塔を見た。
距離があるのに、目が合った気がした。
彼女の瞳には、怒りよりも恐怖があった。
次の瞬間、彼女はその場に崩れ落ちた。
群衆がどよめく。神殿の者たちが慌てて駆け寄る。司祭オルドは逃げようとしたが、広場に配置していた法務官が取り押さえた。
ノア殿下はすぐに命じる。
「司祭オルドを拘束。ミレーヌ・ラザールは医師立ち会いで保護する。神殿に戻すな」
「はい!」
法務官が走り出す。
私は窓枠に手をつき、息を整えた。
体が冷えている。けれど、昨日ほどではない。謝罪ではなく証言で糸を出したからだろうか。
ノア殿下が私の肩に外套をかけ直した。
「無理をしましたね」
「でも、謝りませんでした」
「はい」
殿下は真面目な顔で言った。
「今日の練習は合格です」
こんな状況なのに、胸の奥が少し温かくなる。
その時、広場から別の声が上がった。
ミレーヌ様が意識を取り戻したのだ。
彼女は法務官に支えられながら、泣きながら叫んだ。
「違うの! わたくしは、ただ聖女になりたかっただけ! 全部、神殿が……王太子殿下が、そうすればルシア様も処刑ではなく修道院送りで済むって……!」
その言葉は広場中に響いた。
赤い糸が空中で動く。
ミレーヌ・ラザールの発言、一部真実。王太子ダミアンは、ルシア処刑ではなく永久幽閉を予定していた。
私は唇を噛んだ。
殺さないつもりだった。
だから何だというのだろう。
私の人生を奪い、罪人にし、修道院に閉じ込める。それを「助ける」と呼ぶのなら、何も分かっていない。
ノア殿下の声が、ひどく冷たくなった。
「ダミアンは、自分の慈悲に酔っている」
私はその言葉にうなずかなかった。
ただ、広場の中央で泣き崩れるミレーヌ様を見ていた。
彼女は加害者だ。
でも、神殿に作られた人形でもある。
その両方を、正しい場所に置かなければならない。
私の罪ではない。
けれど、私が証言するべきことは、まだ増えていく。




