第七話 洗濯屋のマリエ
ノア殿下がマルタを連れて戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。
私は医師に叱られない範囲で起き上がり、客室の椅子に座って待っていた。ティナが何度も寝台に戻るよう言ったが、どうしても横になっていられなかった。
扉が開いた時、冷たい夜気と一緒に入ってきたのは、懐かしい石鹸の匂いだった。
マルタは、昔と同じように背筋を伸ばしていた。
白髪は増えている。頬もこけた。洗濯屋の仕事のせいだろう、手は荒れて赤くなっている。それでも、私が幼い頃に見上げた時の厳しさと優しさは、まったく変わっていなかった。
「お嬢様」
彼女はそう呼んだ。
その声だけで、私は立ち上がりそうになった。
「マルタ……」
「いえ」
マルタは静かに首を振った。
「本当の名は、マリエでございます。エレナ王妃付き侍女、マリエ・レノ。十三年前に死んだことにされた女です」
部屋の空気が重くなった。
ノア殿下はマルタ、いえマリエを椅子に座らせた。彼女は私に向かって深く頭を下げた。
「まず、謝らせてください」
その言葉に、私は息を止めた。
謝罪。
誰の罪を、どこへ置くのか。
マリエは続けた。
「私は奥様の針箱を守りました。けれど、お嬢様を守りきれませんでした。ベルネット家であなたがどれほど謝らされていたか、私は知っていました。それでも、正体を隠すため、強く動けなかった」
「マリエ、それは……」
私の口から「ごめんなさい」が出そうになる。
あなたにそんなことを言わせてごめんなさい。守れなかったと責めさせてごめんなさい。
でも、違う。
マリエが謝っているのは、彼女自身の後悔だ。それを私が奪ってはいけない。
私はゆっくり言った。
「謝罪を受け取ります。でも、私を守りきれなかったことを、あなた一人の罪にはしません」
マリエの目が揺れた。
彼女は長く息を吐いた。
「奥様によく似てこられました」
「母に?」
「はい。エレナ・ベルネット様は、謝る時ほど背筋の伸びる方でした。自分のためではなく、誰かの罪を正しく戻すために頭を下げる。それが、本物の法衣師の謝罪だと教えてくださいました」
母の姿が、私の中で少しずつ輪郭を取り戻していく。
弱い人ではなかった。
ただの病弱な伯爵夫人でもなかった。
母は、王妃の影として真実を縫う人だった。
ノア殿下が机に九通の謝罪状を置いた。
「マリエ。あなたが書かされた謝罪状はこれですか」
マリエは一通目を手に取り、目を閉じた。
「はい。私の字です。王妃様の薬湯の温度管理不備、と書かされています」
「実際には?」
「薬湯ではありません。王妃様が飲まれたのは、祝福の杯でした」
祝福の杯。
王族の妊娠や病気平癒の祈りで使われる、神殿の儀式用の杯だ。
「王妃様は、病ではなく妊娠しておられました」
その言葉に、ノア殿下の手が止まった。
「姉上が……?」
「はい。公表前でした。王妃様は第二子を身ごもっておられた」
部屋に沈黙が落ちた。
王妃の第二子。
もし生まれていれば、王太子ダミアン殿下の弟か妹。王位継承にも関わる存在だ。
マリエは苦しそうに続けた。
「王妃様はその直前、神殿の赦罪帳簿を手に入れていました。貴族や王族の罪を、寄進によって“赦された”ことにする帳簿です。実際には罪を消すのではなく、弱い者に背負わせる仕組みでした」
「黙罪布と関係があるのですね」
私が言うと、マリエは目を見開いた。
「奥様の手紙を読まれたのですね」
「はい」
「では、話は早い。黙罪布は、神殿が王家に納める禁布です。王冠の裏に縫われた一片は、王の罪を直接縫わせないためのもの。けれど、本体は神殿にあります」
「本体……」
「八つの糸車に巻かれた黒糸です。罪を吸わせた謝罪状を燃やし、その灰を糸に混ぜる。そうして黒糸は太くなる」
私は思わず腕を抱いた。
四十二通の謝罪状。
それは、燃やされて黙罪布になったのかもしれない。
誰かの罪を引き受けた言葉が、さらに誰かの罪を隠す布になる。
あまりにも嫌な仕組みだった。
ノア殿下の声が低くなる。
「姉上は、それを暴こうとして殺されたのか」
「はい。王妃様は、第二子を産む前に神殿の仕組みを止めようとしていました。けれど陛下は、王家の威信が揺らぐことを恐れた。神殿は、王妃様を沈黙させることを望んだ」
「国王は、毒だと知っていたのですか」
マリエは長く黙った。
それから、首を横に振った。
「分かりません。ただ、王妃様へ神殿の杯を運ぶ許可を出したのは陛下です。杯を王宮へ運んだのは、ベルネット伯爵。毒を混ぜた者は、私には見えませんでした」
国王の罪は、命令。
しかし毒を混ぜた者は別にいる。
私のドレスが縫った「命令者――現国王」は、すべてではなかったのだ。
ノア殿下は私を見た。
「白証布の文は、嘘ではない。だが、範囲が限られる」
「はい。見えた罪だけを縫うのですね」
「だから証言が必要になる」
私は胸元の第一針に触れた。
謝罪で縫えるのは、押しつけられた罪の真犯人。
証言で縫えるのは、自分が見た真実。
そして今、マリエの証言がある。
「マリエ。あなたは裁定室で証言できますか」
私が尋ねると、マリエはまっすぐ私を見た。
「そのために十三年、生きてきました」
その言葉は強かった。
けれど、すぐに彼女の指が震えた。
「ただし、私の証言だけでは足りません。祝福の杯を用意した神殿側の者、杯を運んだベルネット伯爵、そして王妃様の部屋へ最後に入った者。その三つが必要です」
「最後に入った者は誰ですか」
マリエは私ではなく、ノア殿下を見た。
「当時の記録では、王太子殿下です」
「ダミアンが?」
ノア殿下の声が初めて乱れた。
「十三年前なら、彼はまだ五歳だ」
「はい。幼い王太子殿下は、王妃様に花を届けたと記録されています。けれど、その花束の中に何が入っていたかまでは、私は見ていません」
五歳の子ども。
花束。
毒殺。
線がつながるには早すぎる。でも、胸の中に嫌な予感が広がった。
ダミアン殿下は、今の罪だけでなく、過去の罪にも関わっているのか。
それとも、彼もまた利用された子どもだったのか。
マリエは私に向き直った。
「お嬢様。奥様は、あなたにすべてを背負わせるつもりではありませんでした。ただ、もしあなたが真実を選ぶなら、道具を残すと」
「分かっています」
本当は、分かっていると言い切れるほど強くない。
けれど、母の針箱は目の前にある。マリエは生きている。ノア殿下も、ティナもいる。
私は一人ではない。
その時、廊下から書記が駆け込んできた。
「殿下、神殿から抗議状です。聖女候補ミレーヌ様の拘束は不当であり、王立法衣院が彼女を傷つけたと」
ノア殿下は眉を寄せた。
「ミレーヌは拘束されているのか」
「それが……近衛が向かった時には、神殿の迎えが先に来ており、聖域へ移されたそうです」
逃げられた。
いや、神殿が守ったのだ。
書記はさらに紙を差し出した。
「明日の正午、聖女候補ミレーヌ様が王都中央広場で“潔白の祈り”を行うと告知されています」
潔白の祈り。
人前で涙を流し、神に身の潔白を訴える儀式だ。民衆は聖女の涙を信じる。貴族の裁定よりも、分かりやすい奇跡を信じる。
ノア殿下は低く言った。
「世論を取りに来たか」
私のドレスの袖口が、かすかに熱を持った。
新しい赤い文字が浮かぶ。
明日正午。潔白の祈り。毒ではなく涙で罪を移す。
ミレーヌ様は、ただ逃げるだけではない。
私に、あるいは誰かに、また罪を着せるつもりだ。




