番外編二 リュシーは泣き方を選ぶ
リュシーは、泣くのが上手だった。
そう言うと、たいていの人は嫌な顔をする。
泣くことを上手下手で語るなんて、ひどい。涙は自然に出るものだ。悲しい時に泣き、嬉しい時に泣き、怖い時に泣く。それが普通だと。
けれどリュシーは、普通の涙だけで生きてきたわけではなかった。
神殿で聖女候補として育てられた子供たちは、泣き方を教えられる。
右手を胸へ。
顎は少し下げる。
目は閉じすぎない。閉じると涙が見えない。
声は震わせるが、崩しすぎない。
相手が罪悪感を持つ角度で顔を上げる。
涙が出ない時は、袖に染み込ませた薬草を指で触り、まぶたの端へ運ぶ。
そして、最後に必ず言う。
私のせいで、ごめんなさい。
その言葉を聞いた相手が、いいえ、あなたのせいではない、と言う。
その瞬間、罪の置き場所が変わる。
神殿は、それを祈りと呼んだ。
今のリュシーは、それを操作と呼ぶ。
王立法衣院の保護課で働くようになってから、リュシーは泣く機会が減った。
泣けないわけではない。
むしろ、泣こうと思えばすぐに涙を出せる。今でも体が覚えている。まぶたの力、喉の震わせ方、肩の落とし方。全部。
けれど、法衣院では涙を証拠にしない。
泣いているかどうかより、何があったかを聞く。
泣けない証人にも水を出す。
泣き崩れた証人には布ではなく椅子を出す。
リュシーは最初、それが不思議でならなかった。
涙は、使わなければ無駄になると思っていた。
泣けるなら泣く。泣けば相手は止まる。止まった隙に、自分の身を守る。
それが生きる方法だった。
けれどルシアは、リュシーに言った。
泣くことをやめなくていい。ただ、泣く理由を誰かに決めさせないでください。
その言葉は、簡単に理解できるものではなかった。
三年たっても、リュシーはまだ練習している。
その日、保護課に来たのは、靴職人の娘だった。
名をエマという。十五歳。髪を短く切り、唇を固く結んでいた。
父親が領主の兵に靴を納めたが、代金を払われなかった。抗議すると、逆に粗悪品を納めたとして罰金を課された。父は倒れ、母は領主館へ謝罪に行けと言った。
エマは謝りたくなかった。
だから、家を飛び出して王都まで来た。
保護課の受付で、彼女は一度も泣かなかった。
代わりに、ずっと怒っていた。
「泣いていないから、たいしたことがないって思うんでしょう」
面談室で、エマはリュシーに言った。
「泣けば可哀想って言われるんでしょうけど、私は泣きたくない。あいつらの前で泣いたら、負けたみたいだから」
リュシーは頷いた。
「泣かなくていいわ」
「本当に?」
「本当に。ここでは、涙の量で順番は決まりません」
エマは疑っている顔をした。
無理もない。
リュシーも、初めてそう言われた時は信じなかった。
「でも、怒っているなら、その怒りは記録しましょう」
「怒りを?」
「ええ。何に怒っているのか。誰に対してか。何を返してほしいのか。怒りは、ちゃんと置かないと自分の中で腐るから」
エマはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「お父さんの靴を、粗悪品って言われたこと」
リュシーは羽ペンを取った。
「それから?」
「お父さんが、謝ろうとしたこと。家族を守るためだって分かってる。でも、謝ったら本当に粗悪品を作ったみたいになる」
「それから?」
「お母さんが、私にも謝れって言ったこと。女の子なんだから黙って頭を下げろって」
「それから?」
エマの手が震えた。
「私が、怒ってるのに、怖いこと」
リュシーは書く手を止めなかった。
「怖いのね」
「怖い。領主様に逆らったら、工房を潰されるかもしれない。お父さんの仕事がなくなるかもしれない。だから謝った方がいいのかもしれない。でも、謝りたくない」
「それでいいわ」
「どっちが?」
「怖いことも、謝りたくないことも」
エマは初めて、リュシーを正面から見た。
「あなた、聖女候補だったんでしょう」
「ええ」
「聖女って、謝るように言う人だと思ってた」
「神殿の聖女はそうだったかもしれない。でも私はもう聖女候補ではないの」
「じゃあ、何なの」
リュシーは少し考えた。
役職名なら、保護課調査補佐官。
けれど、エマが聞きたいのはそれではない。
「泣き方を知っている人間よ」
「変なの」
「そうね」
「でも、嫌いじゃない」
リュシーは少し笑った。
その後、エマの証言は証縫官室に回された。
ルシアはエマに白布を着せなかった。まず、靴を調べた。納品記録を取り寄せ、兵の足型と工房の木型を照合し、粗悪品ではなく、領主側が別の安物の靴とすり替えていたことを突き止めた。
証言布が使われたのは、最後だった。
領主館の倉庫から出てきた安物の靴を前に、エマの父が言った。
私の作った靴が粗悪品だったことにしてください。
それは、長い沈黙の中でようやく出た言葉だった。
布は、すり替えを指示した兵站係と、代金を着服した領主の甥の名を縫った。
裁定が終わった時、エマは泣かなかった。
父も泣かなかった。
ただ二人で、工房の看板を新しくすると言った。
それで充分だった。
その夜、リュシーは一人で中庭に出た。
冬の空は冷たく、星が白かった。
保護課の窓にはまだ灯りが残っている。ルシアが書類を書いているのだろう。ノア王も、おそらくどこかで同じように書類に向かっている。
この国は、まだ直っていない。
直ったふりをしていた傷が、改革のたびに開く。
神殿で消された名前。
領地で押しつけられた謝罪。
家族の中で当たり前にされていた犠牲。
布はそれらを縫い出すが、縫い出しただけでは人は救われない。
その後の暮らしを作る必要がある。
それは、派手な奇跡ではない。
毎日の記録、給金、住む場所、食事、手紙、仕事、眠れる部屋。
リュシーは、そういうものを昔は軽く見ていた。
神殿では、奇跡だけが価値だった。
でも今は、温かい寝台の価値を知っている。
名前で呼ばれることの価値を知っている。
泣かなくても聞いてもらえる場所の価値を知っている。
中庭の扉が開いた。
「リュシー?」
ルシアが顔を出した。
「こんなところで冷えますよ」
「あなたに言われると説得力が薄いわ。徹夜常習者さん」
「今夜は徹夜しません」
「その宣言、何度目?」
「今夜は本当に」
リュシーは笑った。
すると、なぜか涙が出た。
自分でも驚くほど、静かな涙だった。
肩は震えない。声も崩れない。人の罪悪感を誘う角度も作らない。ただ、目から水がこぼれた。
ルシアはすぐには近づかなかった。
それがありがたかった。
神殿では、泣いた者には必ず誰かが近づいた。
涙は使われるものだったからだ。
でもルシアは、リュシーが自分で距離を選ぶまで待った。
「今日、エマという子が泣かなかったの」
「はい」
「泣かないで怒っていた。とても正しかった」
「そうですね」
「それを見たら、私、少し羨ましくなった。私は昔、泣かないことを許されなかったから」
ルシアは静かに聞いていた。
リュシーは涙を拭かなかった。
拭く必要があるかどうかを、自分で決めたかった。
「でも、今泣いているのは、誰かに見せるためじゃない」
「はい」
「だから、これは私の涙」
口にした瞬間、胸の奥にあった固いものが少しほどけた。
ルシアはようやく一歩近づき、ハンカチを差し出した。
「使いますか」
渡すのではなく、尋ねる。
その違いを、リュシーは愛おしいと思った。
「使うわ」
ハンカチは白かった。
赤い刺繍はない。
ただ、端に小さく名前が縫われていた。
ルシア。
リュシーはそれで涙を拭いた。
「私、自分の名前を取り戻した時、もう全部終わったと思っていたの」
「終わりではありませんでしたか」
「始まりだった。面倒ね」
「面倒です」
「でも、悪くない」
「はい」
しばらく二人で夜空を見た。
寒さで指先が冷える。
部屋に戻れば、まだ書類がある。保護課の案件も、神殿残党の調査も、領地改革の報告も終わっていない。
それでも、今この瞬間だけは、泣いている自分を急がせなくてよかった。
「ルシア」
「はい」
「私、明日は泣かないと思う」
「はい」
「でも明後日は泣くかもしれない」
「それも、はい」
「あなたは本当に、はいが多いわね」
「否定する理由がありませんから」
リュシーはまた笑った。
今度の涙は、すぐに止まった。
泣くことをやめたからではない。
泣き方を、自分で選べたからだ。




