第六十話 謝罪ではなく、誓いで縫う日
婚約誓約式の後も、私の日常は急に童話の結末にはならなかった。
王宮には書類がある。
法衣院には相談者が来る。
神殿改革は続く。
ベルネット領からはアイリスの報告書が届き、時々、数字が少し可愛くなったと書かれている。意味は分からないが、前向きなのだろう。
リュシーは証人保護課の正式職員になった。
リディアは顧問として毒舌を磨いている。
ティナは弟子を三人取り、私の針目にはまだ厳しい。
マリエは王妃記念室で、母と王妃の布を守っている。
ダミアンは離宮で赦罪帳簿の復元を続け、時折、名誉回復が完了した人の名簿に短い所感を添えるようになった。余計な感傷は不要だと監督官に叱られているらしい。
父の審理はまだ続く。
元国王の補償署名も続く。
グラシアンは禁錮施設で黙罪布の製法を記録している。何度も言葉を濁すが、リディアが監修に入ると急に正確になる。
世界は、完全には綺麗にならない。
白い布は汚れる。
糸は絡まる。
人はまた、誰かに謝らせたくなる。
それでも、今はほどく方法を知っている。
その日、法衣院に若い令嬢が駆け込んできた。
婚約者の浮気を、自分の管理不足として謝罪状に署名させられそうになったという。
私は彼女を聞き取り室に案内した。
彼女は泣きながら言った。
「私が至らなかったのです。彼を寂しくさせたから」
私は温かいお茶を出した。
「まず、あなたが見たことを教えてください」
「でも、謝らないと家が」
「謝罪は後で考えられます。事実は今、分けましょう」
白い小布を机に置く。
彼女の手は震えている。
昔の私のようだった。
私は言った。
「これは、あなたが悪いかどうかを決めるための布ではありません。あなたの罪ではないものを、あなたに置かないための布です」
彼女は顔を上げた。
「そんなこと、できるのですか」
「できます。練習は必要ですが」
彼女は泣きながら少し笑った。
私は証言針を持つ。
大きな王家の罪ではない。
でも、目の前の人にとっては人生を変えるかもしれない罪だ。
私は何度でも、この小さな布を置く。
裁定が終わる頃、彼女は謝罪状に署名しないことを選んだ。
その代わり、婚約者と相手の家へ、事実確認と契約違反の申し立てを行う。
部屋を出る時、彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
私は礼を受け取った。
夕方、王宮からノアが来た。
王として忙しいはずなのに、週に一度の庭のお茶はできるだけ守っている。
今日の彼は、少し疲れていた。
「スープですか、ココアですか」
私が尋ねると、彼は考えた。
「今日は、お茶で大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
白布は動かない。
本当らしい。
庭には、誓約式で使った白い花の一部がまだ咲いていた。
ノアは私の隣に座る。
「今日、また婚約破棄の相談が来ました」
「あなたの最初の事件を思い出しますね」
「はい。でも、今回はドレスに王太子の罪状は縫われませんでした」
「それは良かった」
私たちは少し笑った。
断罪会場で始まった物語は、今、法衣院の小さな聞き取り室へ続いている。
派手な奇跡ではない。
けれど、その方がいい。
ノアが私の手元を見る。
「新しい針目ですね」
「分かりますか」
「少し安定しています」
「ティナにはまだ甘いと言われました」
「ティナの基準は王冠級です」
「では、私は日常布級を目指します」
ノアは笑った。
私は彼の笑顔を見る。
最初に出会った時、彼は裁定室の端から私を守る人だった。
今は、隣でお茶を飲む人でもある。
王であり、法を愛する人であり、真面目すぎて時々おかしい人であり、私が大切に思う人。
私はもう、自分の罪ではないことで謝らない。
でも、謝罪を憎んでもいない。
いつか私が間違えた時は、自分の言葉で謝るだろう。
その時、白い布は動かないかもしれない。
それでいい。
謝罪は、罪を隠す黒い糸ではなく、関係を縫い直すための白い糸にもなれる。
私はノアに言った。
「今日も、ありがとうございました」
「何に対して?」
「戻ってきてくれたことに。お茶を飲む時間を守ってくれたことに。あと、私の針目を少し褒めてくれたことに」
ノアは真面目にうなずいた。
「どういたしまして。私からも、ありがとうございます」
「何に対して?」
「私が王冠を傷の包帯にしないよう、今も見ていてくれることに」
私はその礼を受け取った。
空は夕焼けで赤く染まっている。
赤い糸の色だ。
でも今、その赤は罪状だけの色ではない。
明日へ続く光の色でもある。
断罪会場で「ごめんなさい」と謝った私は、白いドレスに真実を縫われた。
あの日の私は、謝ることしか知らなかった。
今の私は、謝罪以外の言葉を知っている。
違います。
それは私の罪ではありません。
助けてください。
ありがとうございます。
怖いです。
でも、逃げません。
そして、誓います。
罪を隠すためではなく、誰かの人生を正しい場所へ戻すために。
私は今日も、白い布を広げる。
謝罪ではなく、証言で。
濡れ衣ではなく、真実で。
そしていつか、必要な時には、本当の謝罪で。
何度でも、ほつれた世界を縫い直す。




