第五十六話 領地から帰ったアイリス
アイリスが王都へ戻ってきたのは、雪が降る前だった。
半年以上領地にいた彼女は、出発前とは少し違っていた。
ドレスは華美ではなく、動きやすいものになっている。手には小さな傷があり、日焼けもしていた。以前なら大騒ぎしただろうに、彼女はそれを隠さなかった。
法衣院の門で私を見ると、アイリスは勢いよく抱きついてきた。
「お姉様!」
私は少しよろめいた。
「おかえりなさい」
「ただいま。聞いて。領地、最悪だった」
「最初の報告がそれですか」
「道は壊れてるし、倉庫はごまかしてるし、代官はお父様の名前を出せば黙ると思ってるし、農民は私を見ると睨むし、数字は最後まで可愛くない」
「大変でしたね」
「でも、少し直した」
アイリスは鞄から分厚い書類束を出した。
未払い賃金一覧。
不正倉庫記録。
領民からの聞き取り。
臨時管理官の報告書。
彼女が本当に仕事をしてきた証拠だった。
「私、最初は謝ろうとしたの。ベルネット家の娘としてごめんなさいって。でも、領民の人に言われたの。謝るより、橋を直してくれって」
アイリスは少し笑った。
「それで、ああ、お姉様が言っていたのはこれかと思った。謝罪じゃなくて、次の行動」
私は書類を見た。
橋の修繕費、倉庫番の再雇用、代官の解任案。
完璧ではない。
でも、逃げていない。
「よく頑張りました」
言うと、アイリスの目が潤んだ。
「お姉様にそう言われると、変な感じ」
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
彼女は鼻をすすった。
「あと、これ」
差し出されたのは、私が渡した白いハンカチだった。
端の縫い目が少し足されている。
「私が直したの。曲がってたから」
「私の針目を直したのですか」
「うん。ティナに教わったから」
見ると、私の不揃いな針目の横に、アイリスの針目が並んでいる。
彼女の針目も完璧ではない。
でも、丁寧だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
アイリスは照れたように笑った。
その日、私たちは法衣院の休憩室でお茶を飲んだ。
アイリスは領地の話を次々にした。
怒っている領民。
怖い臨時管理官。
不正を認めない代官。
初めて自分で頭を下げた時のこと。
謝罪ではなく、今後の計画を説明した時のこと。
「私、まだお姉様にしたこと全部を返せてない」
彼女は言った。
「返す、というより、これからどうするかだと思います」
「うん。だから、領地に戻る。今度はもっと長く」
「王都に残りたいかと思っていました」
「王都は楽しいけど、今は領地が気になる。私が知らないふりしてきた場所だから」
白布は動かなかった。
本心だ。
私は少し寂しく、同時に嬉しかった。
アイリスは、自分の場所を見つけ始めている。
「お姉様」
「はい」
「距離、少し近くしてもいい?」
母の手紙の言葉を思い出す。
どの距離で生きるか。
私はアイリスを見た。
「今は、手紙を毎月ではなく、二週間に一度にしましょう」
アイリスは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それ、近いの?」
「私たちには、ちょうどいいと思います」
「じゃあ、そうする」
私たちはお茶を飲んだ。
姉妹としてやり直す、という大げさな言葉は使わなかった。
ただ、二週間に一度の手紙。
そのくらいの距離から、縫い直す。




