第五十五話 ニーナの本名
七番だった少女ニーナの本名が見つかったのは、冬の初めだった。
ミラー修道院の地下から押収した黒い箱には、一番から六番までの本名布しかなかった。七番以降の候補者の記録は別の施設へ移されていたらしく、神殿改革課が半年以上探していた。
見つかったのは、北部の小さな神殿倉庫だった。
古い祈祷具の箱の底に、子どもの本名布が十枚。
そのうち一枚に、ニーナのものと思われる布があった。
法衣院の聞き取り室で、ニーナはリュシーの隣に座っていた。
最初に来た時より、顔色が良い。髪も少し伸び、胸には自分で選んだ仮名「ニーナ」の布が縫われている。
けれど、本名布を前にすると、彼女の手は震えた。
「見ないといけない?」
「見なくてもいいわ」
リュシーは即答した。
私は驚いて彼女を見た。
リュシーはニーナの目線に合わせるように身をかがめる。
「名前は大事。でも、取り返す日を自分で決めるのも大事。今日は見るだけ、触るだけ、箱を閉じるだけ、どれでもいい」
ニーナは布を見つめた。
「見たら、ニーナじゃなくなる?」
「私はリュシーに戻ったけど、ミレーヌだった時間が消えたわけじゃない」
リュシーの声は穏やかだった。
「ニーナも、あなたが自分を守るためにつけた名前なら、消さなくていい」
ニーナは私を見る。
「ルシア様は、どう思う?」
私は少し考えた。
「名前は、布を重ねるようなものかもしれません。奪われた本名、選んだ仮名、これから呼ばれたい名。どれか一枚だけでなくてもいいと思います」
ニーナは小さくうなずいた。
「じゃあ、見る」
布が開かれる。
淡い緑の糸で、名前が縫われていた。
エリーゼ・ノル。
ニーナはその文字をじっと見つめた。
泣かなかった。
しばらくして、小さく言った。
「知らない名前みたい」
リュシーはうなずく。
「最初はそうよ」
「でも、嫌じゃない」
「うん」
「ニーナも、嫌じゃない」
「両方持てばいいわ」
ニーナ、いえエリーゼは布を胸に抱いた。
私は記録布に針を当てる。
「私は、七番候補者の本名布にエリーゼ・ノルの名が記され、本人がその名を確認したことを証言します」
透明な糸が走る。
エリーゼ・ノル、本名確認。仮名ニーナの継続使用、本人意思あり。
ニーナはその文字を見て、少し笑った。
「布が、ニーナもいいって言った」
「布は、あなたの意思を記録しただけです」
「でも、いいって言ったみたい」
それでもいいと思った。
記録が、誰かの安心になるなら。
聞き取り後、ニーナはリュシーに抱きついた。
「六番じゃなくて、リュシーお姉ちゃん」
リュシーは固まった。
彼女は子どもに抱きつかれることに慣れていない。
しばらく両手を宙に浮かせていたが、やがて不器用にニーナの背を撫でた。
「お姉ちゃんは、少し早いんじゃない」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
ニーナは笑った。
私はその光景を見て、胸が温かくなった。
リュシーが誰かの名前を返す手伝いをしている。
かつて罪を移す涙を教えられた少女が、今は泣いていい場所を作っている。
人は、罪を犯した後も、何かを縫い直せる。
もちろん、すべてが元通りになるわけではない。
でも、別の布にはなれる。
その日の勤務報告で、リュシーはこう書いた。
対象者エリーゼ・ノルは、仮名ニーナの継続使用を希望。本人の意思を尊重し、法的本名回復手続きと日常呼称登録を併用する。
ノア殿下はそれを読み、感心したように言った。
「実務的で柔軟です」
リュシーは胸を張った。
「でしょう。泣き方以外も覚えたの」
リディアが横から言う。
「報告書の句読点はまだ甘いけどね」
「そこは見逃して」
「見逃さない。黒糸は甘い句読点から入る」
法衣院の日常は、相変わらず厳しく、少しおかしい。
私はそれが好きだった。




