第五話 王太子仮尋問
翌朝、王宮の裁定室には、いつもの華やかさがなかった。
赤い絨毯は敷かれている。壁には建国王の肖像がある。天井から魔導灯も下がっている。けれど、祝賀会の大広間と違って、ここには笑い声も楽の音もない。
貴族院の議員、法務官、近衛兵、王宮書記、神殿の司祭たち。人は多いのに、空気は冷えていた。
私は白いドレスの上から、法衣院が用意してくれた灰色の外套を羽織っていた。赤い刺繍は隠れているが、完全には消えない。胸元や袖口から、罪状の一部が覗いている。
ノア殿下は私の右前に立っていた。
少し前。
守るには近く、私の代わりに立つには遠い距離。
その距離を、私はありがたいと思った。
裁定室の奥には国王陛下が座っている。アルヴェール三世。白髪の混じった金髪、痩せた頬、重い王冠。遠目には威厳がある。しかし私は、王冠の裏に何が縫い込まれているのかを考えてしまう。
黙罪布。
罪をなかったことにする黒い布。
王冠がほんのわずかに傾くたび、私のドレスの赤い糸が冷たくなる気がした。
ダミアン王太子は、左側の席に立たされていた。
昨夜の祝賀会で見た自信は消えている。目の下に影があり、髪も少し乱れている。それでも彼は王太子らしく顎を上げ、私を見た瞬間に嫌悪を隠さなかった。
「ルシア。君は満足か」
第一声がそれだった。
以前の私なら、すぐに謝っていた。
あなたを不快にさせてごめんなさい。騒ぎを大きくしてごめんなさい。
けれど、昨夜練習した言葉がある。
私は息を吸った。
「満足はしていません。私は毒を盛っていないからです」
裁定室の端で、誰かが小さく息を呑んだ。
ダミアン殿下の眉が動く。
「まだ言うのか。その小細工で私を陥れたくせに」
「小細工かどうかを確認するための尋問ではありませんか」
声は震えていた。
でも、言えた。
ノア殿下がこちらを見ないまま、机の上に手を置いた。昨日教えてくれた合図だ。無理に強く見せなくていい。ただ立っていればいい、という合図。
国王陛下が口を開いた。
「白証布は古き法の遺物だ。余は、その効力を認める前に確認を要すると考える」
声は低く、ゆっくりしている。
王冠の影が、陛下の目元に落ちていた。
「ルシア・ベルネット。そなたは昨夜、王太子に罪を着せるため、魔法を用いたのではないか」
言葉そのものは質問だった。
けれど、空気は命令に近い。
認めろ、と。
この場を収めるために、私が悪かったことにしろ、と。
背中が冷える。
父の怒鳴り声とは違う。義母の笑い声とも違う。王の言葉には、人を膝から折らせる重さがある。
私は反射的に謝りそうになった。
ごめんなさい、陛下。
でもその瞬間、母の手紙の一文が胸に浮かんだ。
優しさを盗ませてはいけません。
「いいえ。私は、そのような魔法を使っていません」
言えた。
裁定室の空気が少し動いた。
陛下は私を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「では、もう一度謝罪してみよ」
ノア殿下が即座に口を開いた。
「陛下。それは証人に濡れ衣を強いる行為です」
「効力確認だ」
「白証布の発動条件は、本人が自分の罪ではないものを引き受けることです。確認のためにそれを強制するなら、王が証人の心身を傷つけることになります」
「余は王である」
短い言葉だった。
裁定室が凍った。
ノア殿下の表情は変わらない。けれど、彼の指がわずかに机を押した。
私の胸元の赤い糸が、すうっと冷えた。
王冠だ。
私はそう感じた。
見えない黒い布が、部屋の中に広がっている。誰もはっきり命じられていないのに、誰も逆らえない。罪がどこへ行くのかを、王冠が決めている。
国王陛下は私に向かって言った。
「謝罪せよ、ルシア・ベルネット。王太子を謀ったと」
体が動かなかった。
声が喉に詰まる。
言わなければならない言葉は分かっている。
私はやっていません。
それは私の罪ではありません。
でも、王の前では、その言葉が小さすぎる。
その時、ダミアン殿下が笑った。
「父上の御前だ。いつものように謝ればいい。君はそういう女だろう」
胸に痛みが走った。
悔しい。
怖いよりも先に、悔しいと思った。
私はそういう女だった。謝れば済むと思っていた。謝れば場が収まると思っていた。謝れば、私さえ小さくなれば、誰かは満足すると思っていた。
でも、彼はそれを知っていた。
知っていて、利用した。
私は外套の内側で、母の針箱に触れた。銀の証言針はまだ使えない。けれど、針箱の木の温度は手のひらに残った。
「陛下」
私は声を出した。
小さかったが、聞こえた。
「私は、王太子殿下を謀っていません」
王冠の影が、わずかに揺れた。
「私は、毒を盛っていません」
袖口の赤い糸が熱を持つ。
「私は、私の罪ではないことで謝りません」
その瞬間、ドレスの裾が外套の下で光った。
赤い糸ではない。
透明な糸が一筋、布の上を走った。
文字ではなく、線。
それは私の足元から、裁定室の床へ伸びていき、ダミアン殿下の立つ場所で止まった。
ノア殿下が低く言った。
「証言糸……」
国王陛下の顔が初めて動いた。
透明な糸は、床に小さな円を描いた。円の中に、昨夜の祝賀会の光景が薄く浮かぶ。
ミレーヌ様が杯を持つ侍従ベリルに近づき、袖の内側へ紙包みを滑り込ませる。ダミアン殿下がそれを見て、何も言わずに頷く。さらに、王太子側近カイルが私の部屋へ入っていく。
映像は声を持たなかった。
けれど、充分だった。
裁定室が騒然となる。
「これは幻影か?」
「いや、法衣院の記録投影に近い」
「白証布ではない、別の術式だ」
ダミアン殿下は顔を歪めた。
「違う! これは、これは私ではない!」
その叫びに、今度は赤い糸が胸元で動いた。
王太子ダミアンは、毒殺未遂計画を知っていた。止めなかった。婚約者を有罪にすることで、聖女候補との婚姻障害を除く予定だった。
国王陛下が立ち上がった。
その瞬間、王冠の裏から黒い影のようなものが滲んだ。
私の赤い刺繍が、すっと薄くなる。
文字が消えかけた。
「陛下!」
ノア殿下が叫ぶ。
黒い影は、王冠から伸びる布のようだった。誰の目にも見えているわけではない。けれど、私には分かった。母の手紙にあった黙罪布だ。
罪をなかったことにする布。
赤い糸がほどけていく。
ダミアン殿下の表情に、希望が戻った。
「ほら見ろ。やはり偽物だ」
私は胸元を押さえた。
怖い。
せっかく縫われた真実が消えていく。
謝れば、また赤い糸が出るかもしれない。
自分の罪ではないと分かっていても、引き受ければ、布は真実を縫う。そうすれば、消えたものを戻せるかもしれない。
口が動きそうになった。
ごめんなさい。私が――
その前に、ノア殿下が私の名を呼んだ。
「ルシア嬢」
声は強くなかった。
ただ、私に届く声だった。
「謝らなくていい」
その言葉だけで、私は踏みとどまった。
謝らない。
私は謝らない。
代わりに、母の手紙の最後の言葉を思い出した。
自分の言葉で立ちなさい。
「私は見ました」
私は言った。
「白いドレスが、罪状を縫うところを。ベリルの袖から毒包みが落ちるところを。母の針箱が、十三年前の王妃様の死を縫うところを」
透明な糸が、再び足元で光った。
「これは、私の証言です」
透明な糸が赤い文字の上に重なった。
消えかけていた刺繍が、また浮き上がる。
黒い布は完全には消えなかったが、赤い糸をほどくこともできなくなった。
裁定室にいた全員が、その光景を見た。
国王陛下はゆっくりと座り直した。
王冠の影が、深くなっている。
「王太子ダミアンを、引き続き王宮東塔に留める」
陛下の声は硬かった。
「聖女候補ミレーヌ・ラザール、側近カイル・モント、侍従ベリルの身柄を確保せよ。白証布の効力については、王立法衣院に調査を命じる」
それは裁きではなく、先送りだった。
けれど、昨日とは違う。
ダミアン殿下はもう自由ではない。ミレーヌ様も逃げ切れない。カイルも、ベリルも。
私は立っているだけで精一杯だった。
裁定室を出たところで、膝が崩れた。
ノア殿下が支えてくれる。
「申し……」
言いかけて、私は口を閉じた。
ノア殿下が見下ろしている。
私は息を整え、言い直した。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「どういたしまして」
殿下はすぐに答えた。
謝罪ではない言葉は、まだ舌に慣れない。
けれど、受け止めてもらえた。
その時、私の胸元に小さな文字が新しく浮かんだ。
証言成立。第一針。
まるで白い布が、私を褒めてくれたみたいだった。




