第四話 二人のエレナ
王立法衣院へ戻った時、夜はすでに深かった。
馬車の窓に映る私は、ひどい顔をしていた。白いドレスは赤い罪状だらけで、母の針箱を抱きしめている両手には埃がついている。髪も乱れ、祝賀会へ向かった朝の令嬢らしさはどこにもない。
それでも、私は泣き続けてはいなかった。
不思議なことに、涙は東倉庫を出たところで止まった。母の手紙を読んだわけでもないのに、胸の奥に小さな芯のようなものができていた。
謝らなかった日に読んで。
その言葉が、私を支えていた。
法衣院では、針子のティナが待っていた。彼女は母親の診察を終えた医師から薬を受け取り、泣き腫らした目で私に深く頭を下げた。
「ルシア様、母を助けてくださって、本当にありがとうございます」
「よかった。お母様は大丈夫なのですね」
「はい。しばらく薬は必要ですが、命に別状はないそうです。私、あの、何とお礼を申し上げたらいいのか」
ティナはまた頭を下げようとした。私は慌てて手を伸ばし、けれど途中で止めた。
前世の私なら、ここで「ごめんなさい、そんなに気を遣わせて」と言っていたかもしれない。今世の私なら、「私のせいで怖い思いをさせて」と言っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
「お礼は受け取ります。だから、ティナも自分を責めないでください」
言ってから、自分で少し驚いた。
お礼を受け取る、という言葉が私の口から出るとは思わなかった。何かをもらうと申し訳なくなる。親切を受けると、返さなければと焦る。それが私の普通だった。
ティナは目を丸くして、それから小さく笑った。
「はい。お礼を受け取ってくださって、ありがとうございます」
その会話を、ノア殿下は少し離れた場所で聞いていた。私が彼の方を見ると、殿下は何も言わず、ただ一度うなずいた。
それが、よくできました、と言われたようで、少しだけ頬が熱くなる。
案内された部屋は、法衣院の二階にある小さな客室だった。
壁一面に布見本の棚があり、窓辺には糸巻きの箱が並んでいる。貴族の客室としては簡素だが、床は磨かれていて清潔で、何より扉の外に近衛兵が立っていた。
守られている。
そう思った瞬間、体の力が抜けた。
ノア殿下は母の針箱を机に置き、封蝋のついた小さな紙束を取り出した。
「手紙は、あなたが読むべきものです。ですが、その前に確認したいことがある」
「王妃様のことですか」
「はい。あなたの母君の名もエレナ。十三年前に亡くなった王妃もエレナ。同じ名が続いていることが、偶然とは思えません」
私も、それは気になっていた。
母はエレナ・ベルネット。王妃はエレナ・アルヴェール。貴族の間では聖女や王妃の名を子に授けることもあるが、母は王妃より年上だったはずだ。
「母は、王妃様と何か関わりがあったのでしょうか」
「ありました」
ノア殿下は迷わず答えた。
「記録の上では、エレナ王妃には専属の法衣師が一人いた。名は伏せられている。王妃の衣を仕立て、王妃が法の場に立つ時は必ず背後に控えていた者です。私は子どもの頃、その人を一度だけ見たことがある」
「それが、母だったのですか」
「顔は覚えていません。ただ、その人は王妃と同じ名で呼ばれていました。王宮では、王妃に近すぎる者の本名を記録しないことがある。影武者、乳姉妹、法衣師。彼女たちは主の名を預かる」
同じ名。
母は、王妃の名を預かった人だった。
だから針箱の端切れは、王妃毒殺の真実を縫ったのだろうか。
私は針箱の中の手紙を見た。薄い紙には、私の名前が母の筆跡で書かれている。私は母の文字をほとんど覚えていないのに、その丸く柔らかい線を見た瞬間、懐かしいと思った。
「読んでも、いいでしょうか」
「もちろん」
ノア殿下は退室しようとした。私は反射的に彼を呼び止めた。
「あの、殿下」
「はい」
「一人で読むのが、少し怖いです」
言ってから、わがままだと思った。
けれどノア殿下は困った顔をしなかった。ただ椅子を一つ離して置き、そこに座った。
「では、私はここにいます。内容を聞く必要はありません。あなたが声に出したくなった時だけ聞きます」
それがあまりに自然で、私はまた泣きそうになった。
封を開ける。
紙から、古いラベンダーの香りがした。
『ルシアへ。あなたがこれを読んでいるなら、あなたは自分の罪ではないもので謝らないことを、少なくとも一度は選べたのでしょう。よく頑張りました』
最初の一文で、視界が滲んだ。
『けれど、謝ることそのものを憎まないで。あなたが謝るのは、きっと人の痛みに気づける子だからです。ただ、優しさを盗ませてはいけません。謝罪は、本来、罪を正しい場所へ戻すための言葉です。あなたの心を削って、他人の罪を隠すための布ではありません』
私は紙を握りしめた。
ノア殿下は何も言わない。
『白証布は、濡れ衣を受け入れた者の衣に真実を縫います。しかし、力を使いすぎれば、あなた自身が傷つきます。罪を引き受けるたび、布はあなたの体温を借りる。だから、どうか自分を燃やさないで』
そこで、胸元の刺繍がかすかに熱を持った。
私は思わず布を押さえた。
「体温を借りる……」
ノア殿下の表情が険しくなる。
「何か書いてありますか」
「はい。白証布は、力を使うたび私の体温を借りるそうです」
殿下は立ち上がり、すぐに侍女へ毛布と温かい飲み物を命じた。早い。早すぎて、少しおかしくなる。
「大丈夫です。今は寒くありません」
「今でなくても必要になります」
「殿下は、心配性です」
「証人の保護は法衣院長の職務です」
そう言いながら、殿下は私の肩に毛布をかけた。
職務という言葉で隠しているけれど、手つきはとても丁寧だった。
私は手紙の続きを読んだ。
『十三年前、私は王妃エレナ様の死に立ち会いました。毒を運んだのは、あなたの父です。けれど、あなたの父だけを憎めばよい話ではありません。彼は弱く、愚かで、命令に従った。でも命令の奥には、もっと古い沈黙があります』
沈黙。
赤い糸とは反対の言葉だと思った。
『王家には、罪を縫わせないための黒い布があります。名を、黙罪布。白証布が罪を正しい場所へ戻すなら、黙罪布は罪をなかったことにする。王冠の裏に縫い込まれているのは、その一片です』
「黙罪布……」
私がつぶやくと、ノア殿下がはっきりと顔をこわばらせた。
「王冠の裏?」
「母は、そう書いています」
殿下はしばらく黙った。
王冠。
つまり、国王陛下の身近にある。いえ、国王そのものを守る布だ。
私のドレスが国王の罪を縫ったとしても、王冠がその刺繍を沈黙させるかもしれない。
『ルシア。あなたが真実を知りたいなら、謝罪だけで進んではいけません。白証布には、もう一つの道があります。謝罪ではなく、証言。人の罪を引き受けるのではなく、自分が見た真実を縫う道です。そのためには、あなたが自分の言葉で立たなければなりません』
手紙はそこで一度途切れていた。
同封された二枚目には、短い図と、針箱の底板を外す方法が描かれている。
私は針箱を開け、底に指をかけた。小さな音を立てて、板が浮く。その下には、細い銀の針が一本眠っていた。
ただの針ではない。
針先に、赤でも白でもない、透明な光が宿っている。
ノア殿下が息を呑んだ。
「証言針……現存していたのか」
「これは、何ですか」
「白証布に使う最後の道具です。謝罪ではなく証言で布を動かすための針。ただし、使える者は法衣師ではない。証人本人だけです」
私は針を見つめた。
謝ることで真実を縫う力。
そして、謝らずに真実を縫うための針。
母は、私に両方を残していた。
その時、廊下で足音がした。慌ただしい足音だ。
扉が叩かれ、法衣院の書記が入ってくる。
「ノア殿下。王宮より急使です。王太子殿下の仮尋問が、明朝に前倒しされました」
「理由は」
「陛下のご命令です。白証布の効力を、王前で確認すると」
ノア殿下の目が暗くなった。
王冠の裏に、黙罪布がある。
その直後に、王前での確認。
偶然とは思えなかった。
私は銀の針を針箱に戻した。まだ使い方も分からない。でも、手の震えは少しだけ止まっている。
「殿下」
「明朝、あなたを王宮へ連れて行くことになります。危険です」
「はい」
「逃げる選択肢もあります。法衣院には隠し通路がある」
「逃げたら、母の言葉も、王妃様の死も、全部また沈黙してしまいます」
私は毛布を握った。
「それに、私はまだ一度しか謝らないことに成功していません。練習が必要です」
ノア殿下は、こんな時なのに少しだけ目を丸くした。
そして、とても静かに言った。
「では、明朝までに練習しましょう。謝らないための言葉を」
その夜、私は初めて謝罪ではない言葉を紙に書いた。
私はやっていません。
それは私の罪ではありません。
証拠を確認してください。
怖いです。でも逃げません。
最後の一行だけ、少し迷ってから書き足した。
助けてください。
その言葉を書いても、誰にも怒られなかった。




