第三話 謝らない練習
ベルネット伯爵邸に戻るのは、昨日までなら当たり前のことだった。
けれど、王弟殿下の馬車で正門をくぐった瞬間、私は自分がもう以前と同じ立場ではないのだと理解した。
門番は私の顔を見て驚き、次にノア殿下の紋章を見て青ざめた。使用人たちは廊下の端に寄り、誰も私に声をかけようとしない。
白いドレスの赤い刺繍が、嫌でも目を引くのだろう。
王太子の罪状を身にまとって実家に帰る令嬢など、たぶん前例がない。
応接室に通されると、父はすでに待っていた。
ベルネット伯爵。私の父。
いつも通り、眉間に深い皺を寄せている。隣には義母のジゼル、少し後ろには異母妹のアイリスがいた。
アイリスは私のドレスを見て、露骨に顔をしかめた。
「お姉様、その格好で帰ってきたの? 恥ずかしくないの?」
いつもの言い方だった。
私は反射的に謝りそうになった。
ごめんなさい。
みっともない姿で帰ってきて、ごめんなさい。
家に迷惑をかけて、ごめんなさい。
口の中まで出かかった言葉を、私は噛みしめた。
隣に立つノア殿下が何も言わずにこちらを見ている。止められたわけではない。けれど、その静かな視線が、私に考える時間をくれた。
これは、私の罪だろうか。
私は毒を盛っていない。断罪を企ててもいない。家に迷惑をかけたのは、王太子殿下と、その計画に関わった者たちだ。
私は息を吸った。
「恥ずかしいとは思います。でも、私が謝ることではありません」
応接室が静まり返った。
アイリスが目を丸くする。義母は信じられないものを見るように私を見た。
父の顔は、みるみる赤くなった。
「ルシア。お前は自分が何をしたのか分かっているのか」
「濡れ衣を着せられました」
「口答えをするな!」
父の怒鳴り声に、肩が跳ねた。
幼い頃から、この声が苦手だった。怒鳴られる前に謝る。そうすれば、怒鳴り声は少し短くなる。私はそうやって覚えてきた。
けれど今日は、後ろに逃げ道がある。
ノア殿下が、私の少し後ろに立っている。前に出すぎず、でも離れずに。
その距離が、ありがたかった。
「王弟殿下の前でお見苦しいことをしました。ですが、私は母の形見に関わる証拠を確認しに来ました。東倉庫を見せてください」
「東倉庫だと?」
父の表情がわずかに変わった。
義母の指が、扇の柄を握りしめる。
その反応だけで、何かがあると分かった。
「そこには古い布や道具しかありませんわ」
義母が笑った。
「それに、あなたのお母様の形見など、とっくに整理しました。古い針箱や布切れをいつまでも置いておくほど、この家に余裕はありませんもの」
私は胸が痛くなった。
母の針箱。
私はずっと探していた。母が亡くなったあと、義母が片づけたと聞かされ、それ以上問い詰めることはできなかった。
「売ったのですか」
「覚えていませんわ。使用人が処分したのではなくて?」
義母の笑みは綺麗だった。
綺麗で、軽かった。
母の思い出が、その軽さで踏まれていく。
私はまた謝りそうになった。
形見にこだわってごめんなさい。家の迷惑になってごめんなさい。昔のことを蒸し返してごめんなさい。
けれど、謝ってしまえば、また私の中の何かが小さくなる気がした。
私は白いドレスの布を握った。
「ジゼル様」
義母は眉を上げた。
「何かしら」
「申し訳ありません。母の針箱を私が勝手に売ったことにして、ご迷惑をおかけしました」
ノア殿下が、かすかに息を止めた。
私は自分で選んで謝った。
逃げるためではない。暴くために。
白いドレスの腰元に、赤い糸が走る。
母エレナ・ベルネットの針箱を売却しようとした者――ジゼル・ベルネット。
売却を止めた者――先代侍女マルタ。
現在位置――東倉庫、二重壁の内側。
義母の顔から色が消えた。
父が立ち上がる。
「でたらめだ!」
その声に、赤い糸がさらに動いた。
東倉庫の焼却を命じた者――ベルネット伯爵。
理由――十三年前の運搬記録抹消。
父の口が閉じた。
私はその顔を見て、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
知っていたのだ。
父は、何かを知っていた。
「東倉庫を開けてください」
ノア殿下が言った。
声は静かだったが、拒む余地はなかった。
父はしばらく黙っていた。けれど、王弟殿下と近衛兵を前にしては拒否できない。結局、使用人に鍵を持ってこさせた。
東倉庫は、屋敷の端にある古い建物だった。
中には壊れた家具、使われなくなった燭台、古い衣装箱が積まれている。埃っぽく、空気が重い。使用人がランプを掲げると、壁の一部だけ木目が不自然に新しいことに気づいた。
ノア殿下が近衛兵に合図する。
板が外され、隠し棚が現れた。
その奥に、小さな針箱があった。
私は一歩近づいた。
黒ずんだ木箱。蓋には、白い糸で小さな花が縫い付けられている。幼い頃、母の膝の上で触った記憶があった。
手が震える。
ノア殿下は何も急かさなかった。
私はそっと蓋を開けた。
中には、針、糸巻き、古い裁ち鋏、そして白い布に包まれた小さな手紙が入っていた。
宛名は、私の名前だった。
ルシアへ。
あなたが、自分の罪ではないことで謝らなかった日に読んで。
文字を見た瞬間、涙が落ちた。
母は知っていた。
私が謝る子になることを。
この家で、何かあるたびに自分を責めるようになることを。
私は手紙を胸に抱いた。泣いている場合ではないと思うのに、涙が止まらなかった。
その横で、針箱の底に敷かれていた布がひとりでに動いた。
私のドレスではない。
母の針箱の中の、小さな白い端切れだ。
そこに赤い糸が浮かび上がる。
十三年前。
エレナ王妃毒殺。
毒を王宮へ運んだ者――ベルネット伯爵。
命令者――現国王アルヴェール三世。
倉庫の中で、誰も声を出さなかった。
ノア殿下の横顔から、血の気が引いている。
彼にとって、エレナ王妃は姉だった。国王は、兄だ。
私は何か言わなければと思った。けれど、謝罪の言葉だけは言えなかった。
ここで謝れば、何かを間違える。
これは私の罪ではない。
父の罪で、国王の罪で、そして母が命をかけて残した証言だ。
私は涙を拭いた。
「ノア殿下」
「はい」
「私は、何をすればいいでしょうか」
ノア殿下は少しだけ目を閉じた。
次に開いた時、その瞳には静かな怒りがあった。けれど、その怒りは私に向けられたものではない。
「まず、あなたを保護します。王立法衣院に部屋を用意する。証人として、そして望むなら、証縫官見習いとして」
「しょうぬいかん、ですか」
「真実を縫う者です。あなたにしかできない仕事になるかもしれません」
私は母の針箱を見下ろした。
謝ることしかできないと思っていた。
けれど、母は違う言葉を残していた。
謝らなかった日に読んで。
つまり母は、私がいつか謝らない日を迎えると信じていたのだ。
「部屋と仕事をお願いします」
私は言った。
「それから、できれば温かいスープも。今日は朝から何も食べていません」
ノア殿下は一瞬だけ驚いた顔をして、それから初めて少し笑った。
「すぐに用意します」
父が何かを叫んだ。
義母も、妹も、私の名を呼んだ。
けれど私は振り返らなかった。
母の針箱を抱きしめ、白いドレスの裾を持ち上げ、東倉庫を出る。
外には、夕方の光が差していた。
その光の中で、私のドレスに縫われた赤い文字が、静かに輝いている。
謝罪ではなく、証言。
濡れ衣ではなく、真実。
私はまだ怖い。王太子も、国王も、実家も、何もかもが大きすぎる。
それでも、今日だけは一つ分かった。
私は、私の罪ではないことで謝らなくていい。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ルシアが「謝る」以外の言葉を覚えていく物語です。続きが気になる方は、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




