第二話 真実の糸は、嘘より細い
王立法衣院の奥には、窓のない小さな部屋があった。
法衣院といっても、聖職者の衣を仕立てる場所ではない。王家の儀礼服、裁判用の証言布、貴族の婚姻誓約衣など、法と衣装が重なるものを管理する古い役所だという。
普段なら私のような伯爵令嬢が入る場所ではない。
けれど、今の私は卒業祝賀会の出席者ではなく、動く証拠を着た参考人だった。
白いドレスには、まだ赤い文字が残っている。
胸元には王太子殿下とミレーヌ様の罪状。袖には侍従ベリルの隠し毒。裾には、十三年前の王妃毒殺を示す三行。
証拠として重要なのは分かるが、正直に言えば、非常に落ち着かない。自分の服に他人の罪がずらりと刺繍されているのは、着心地の問題を越えている。
椅子に腰を下ろすと、ノア殿下が侍女に茶を頼んでくれた。
「温かいものを飲んだ方がいい。顔色が悪い」
「ありがとうございます。ですが、証拠を着たままお茶を飲んで、こぼしたらどうしましょう」
「その場合は、茶をこぼした者として私が記録されるかもしれません」
冗談なのか真面目なのか分からず、私は少しだけ困った。
ノア殿下はすぐに言い直した。
「すみません。怖がらせるつもりはありませんでした」
「いえ。こちらこそ、変な心配をしてしまってごめんなさい」
言った瞬間、ノア殿下の視線が私の袖に落ちた。
赤い糸は動かない。
私はほっとして、同時に少し恥ずかしくなった。
「今の謝罪は、大丈夫なのですね」
「おそらく。あなたが本当に自分の行いとして謝った場合は反応しない。自分の罪ではないものを引き受けた時だけ、布が真実を縫う」
ノア殿下は、法衣院の机に置かれた古い本を開いた。
厚い革表紙の本で、紙は黄ばんでいる。そこには、古い裁判の絵が描かれていた。白い布をまとった人が、群衆の前で頭を下げている。その布には、赤い文字が浮かんでいた。
「三百年前、この国では“謝罪裁定”という制度がありました。罪を認めた者が白証布をまとい、王前で謝罪する。もし濡れ衣なら、布が真犯人を縫う」
「それなら、便利な制度だったのではありませんか」
「便利すぎたのでしょう」
ノア殿下は本を閉じた。
「権力者の嘘まで縫ってしまう。やがて危険視され、制度ごと封じられた。白証布もほとんど焼かれたと記録されています」
私は自分のドレスを見下ろした。
母の形見の布。
義母からは古臭いと言われ、妹からは貧乏くさいと笑われた。けれど私は、この布が好きだった。柔らかく、針通りがよく、縫っていると母の手に触れているような気がした。
「母は、これが白証布だと知っていたのでしょうか」
「その可能性は高い」
「でも母は、ただの伯爵夫人でした」
「ただの伯爵夫人が、法衣院でも失われた布を持っていることはありません」
それは、確かにそうだった。
私の母エレナは、ベルネット伯爵家に嫁いでからほとんど社交に出なかったと聞いている。身体が弱く、針仕事が好きで、私が六歳の時に亡くなった。
父は母の話を嫌がった。
義母は、母の形見を古い布切れと呼んだ。
私はずっと、母が家の中で忘れられていくのが悲しかった。
けれど、もし母がただの伯爵夫人ではなかったのなら。
もし母が、この布に何かを託していたのなら。
考えるだけで、胸が落ち着かなくなる。
「ルシア嬢」
ノア殿下の声で、私は顔を上げた。
「あなたを利用したいと考えている者は、今後かなり増えるでしょう。王太子派、反王太子派、法務院、貴族院、そして私もその一人です」
あまりに率直な言葉だったので、私は瞬きをした。
「殿下も、私を利用したいのですか」
「はい」
ノア殿下は、誤魔化さなかった。
「王太子の罪を裁くにも、十三年前の王妃の死を調べるにも、あなたの力は必要です。ただし、あなたを無理に謝らせて使うつもりはない」
その区別をしてくれる人は、私の人生にあまりいなかった。
役に立て。
迷惑をかけるな。
謝って済ませろ。
そう言われることには慣れている。だからこそ、ノア殿下の言葉は少し信じがたかった。
「謝らなければ、このドレスは縫わないかもしれません」
「それなら、謝らずに済む方法を探します」
「そんな方法があるでしょうか」
「なければ作る。法は、もともと人が作ったものです」
ノア殿下は静かにそう言った。
その声には、冷たさではなく重さがあった。長く考え続けた人の声だと思った。
その時、部屋の外が騒がしくなった。
扉が開き、近衛兵が若い針子を連れて入ってくる。針子は顔を真っ青にして、胸の前で両手を握りしめていた。
「殿下。証拠衣に火をつけようとした疑いで、この者を捕らえました」
「火を?」
ノア殿下の目が鋭くなる。
兵が差し出したのは、黒ずんだ糸巻きだった。油を染み込ませた糸らしく、鼻を近づけなくても嫌な匂いが分かる。
針子はぶるぶると首を振った。
「違います。私は、ただ倉庫から言われた糸を持ってこいと……母の薬代を出してやるからって、でも、火をつけるなんて知りませんでした」
「誰に言われた」
兵の問いに、針子は唇を噛む。
言えないのだ。
怖いのだろう。自分の身分より上の誰かに命じられた使用人が、名前を口にできないことは珍しくない。
私は、彼女の震える指を見た。
細い指だった。小さな傷がいくつもあり、普段から針を持って働いているのが分かる。
その指を見ていると、何も考えずに言葉が出た。
「ごめんなさい。私がその方に糸を取りに行かせたことにしてください」
ノア殿下が息を呑む。
私も、自分で言ってから気づいた。
まただ。
また私は、誰かの罪を引き受けようとしている。
けれど、今度は逃げではなかった。目の前の人を守りたいと思った。その気持ちは、嘘ではない。
白い袖口に赤い糸が走る。
油糸を渡した者――王太子側近カイル・モント。
目的――証拠衣焼却。
人質――針子ティナの母の薬代。
針子ティナは、その場で泣き崩れた。
兵たちの顔つきが変わる。ノア殿下はすぐに命じた。
「カイル・モントを拘束しろ。ティナの母親には医師を送る。彼女は脅迫を受けた証人として保護する」
兵が動き、部屋の中に残ったのは、泣いているティナと、赤い文字を縫い終えた私の袖だった。
「……ごめんなさい」
小さく言うと、今度はノア殿下が首を横に振った。
「謝罪ではなく、判断です。あなたは彼女を守った」
「でも、私はまた自分の罪ではないことで謝りました」
「そうですね」
ノア殿下は否定しなかった。
「だから次は、謝らずに守る方法を一緒に考えましょう」
その言い方があまりに自然だったので、私は何も返せなかった。
一緒に。
それは、私には馴染みのない言葉だった。
誰かの失敗を引き受けるのではなく、誰かと方法を考える。そんなことを、自分に許していいのか分からない。
ティナが泣きながら頭を下げる。
「ありがとうございます、ルシア様。私、何も知らなくて、本当に……」
「大丈夫です」
今度は、謝らなかった。
ただ、彼女の手にハンカチを渡した。
その時、ドレスの裾がまた動いた。
赤い糸が床に触れそうなほど下まで伸びて、細かい文字を縫っていく。
次の証拠。
ベルネット伯爵家、東倉庫。
今夜、焼却予定。
ベルネット伯爵家。
私の実家の名だ。
ノア殿下はその文字を読み、すぐに立ち上がった。
「今夜では遅い。これから向かいます」
「私も行きます」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
ノア殿下は一度だけ私を見た。
「危険かもしれません」
「分かっています。でも、母の布が関わっているなら、私が見たいのです」
怖くないわけではない。
父に会うのも、義母に会うのも、妹に会うのも嫌だった。どうせ叱られる。どうせ謝れと言われる。そう思うだけで、胃の奥が重くなる。
それでも、行かなければならない。
白いドレスの赤い文字が、静かに揺れていた。
母が残したものは、まだ終わっていない。




