第一話 断罪会場で「ごめんなさい」
「ごめんなさい」と口にした瞬間、私のドレスは王太子殿下の罪状を縫い始めた。
赤い糸だった。
針もないのに、胸元の白い布の上をすうっと走り、まるで生き物のように曲がり、跳ね、文字の形に盛り上がっていく。
王立学園の卒業祝賀会は、その場で静まり返った。
つい先ほどまで、楽団は春の舞曲を奏でていた。大広間には花の香りが満ち、金色の魔導灯が天井から降るように輝き、卒業生たちは晴れやかな顔で談笑していた。
その中心で、王太子ダミアン殿下は私を見下ろしていた。
「ルシア・ベルネット。君との婚約を、今この場で破棄する」
それだけなら、まだ分かる。
いえ、分かりたくはないけれど、理解はできる。
ダミアン殿下は、ここ一年ほど私を避けていた。代わりに彼の隣に立つようになったのは、聖女候補のミレーヌ・ラザール様だ。白金の髪に、淡い菫色の瞳。細い指で胸を押さえる姿は、誰が見ても守りたくなるような儚さをまとっている。
けれど、婚約破棄の次に告げられた言葉は、私の想像を越えていた。
「理由は分かっているだろう。君は嫉妬に狂い、ミレーヌに毒を盛った」
広間の空気が凍った。
ミレーヌ様は殿下の腕にすがり、小さく震えている。
「わたくし、ルシア様に何か悪いことをしたのでしょうか。ダミアン様のおそばにいたことが、そんなにお嫌だったのでしょうか」
そう言いながら、彼女は泣きそうな顔でこちらを見た。
周囲の視線が私に集まる。
憐れみではない。疑いでもない。多くは、もう結論を決めた目だった。
王太子に捨てられた地味な婚約者。聖女候補に嫉妬した伯爵令嬢。祝賀会で毒を盛るような女。
物語としては、分かりやすい。
「殿下、私は毒など――」
「言い訳は聞かない。毒杯を運んだ侍従が証言している。君の部屋から、同じ毒を包んだ紙も見つかった」
ダミアン殿下が片手を上げると、控えていた侍従が銀の杯と小さな紙包みを差し出した。
私はそれを見て、ようやく理解した。
準備されていたのだ。
婚約破棄だけではない。私を罪人にして、ベルネット伯爵家ごと潰すための場が。
胸の奥が冷えていく。
前世でも、似たようなことはあった。
私は日本という国で、会社のクレーム対応窓口にいた。自分が作った商品ではない。自分が決めた契約でもない。それでも、電話口で怒鳴られれば、最初に言う言葉はいつも同じだった。
申し訳ございません。
上司のミスでも、配送の遅れでも、仕様書の不備でも、とにかく謝る。謝って、相手の怒りが少しでも弱まるのを待つ。
最後に覚えているのは、深夜の事務所だった。
鳴り続ける電話。冷めた紙コップのコーヒー。画面に積まれた未処理の苦情一覧。
もう何に謝っているのか分からなくなったまま、私は机に伏した。
目を覚ましたら、異世界の伯爵令嬢ルシア・ベルネットになっていた。
生まれ変わっても、私は謝るのが上手だった。
義母の機嫌が悪ければ謝る。妹が花瓶を割れば謝る。父の書類がなくなれば、探す前にまず謝る。謝れば、たいていの人は少し満足する。少なくとも、話がそれ以上大きくならないことがある。
だから、この場でも口が勝手に動いた。
「ごめんなさい」
自分でも、情けない声だと思った。
ダミアン殿下の口元が、わずかに緩む。
ミレーヌ様も、泣き顔のまま目だけを細めた。
私は続けた。
「ごめんなさい、殿下。わたくしがやったことにしていただいて」
その瞬間だった。
私のドレスが、音もなく赤い文字を縫い始めた。
白い布の胸元に、最初の一行が浮かぶ。
毒杯を用意した者――王太子ダミアン・アルヴェール。
誰かが悲鳴を上げた。
私は息を止めた。
赤い糸は止まらない。細い文字は、まるで血ではなく花糸で作られているように美しく、だからこそ余計に恐ろしかった。
毒を選んだ者――聖女候補ミレーヌ・ラザール。
毒を運ばせた者――王太子侍従ベリル。
罪を着せる相手――ルシア・ベルネット。
「な、何だこれは!」
ダミアン殿下が一歩下がった。
その動きに合わせるように、周囲の貴族たちもざわめき始める。
「文字が……」
「刺繍だわ。縫われている」
「誰が縫っているんだ?」
私が着ているドレスは、豪華なものではない。
義母は私の卒業祝賀会用の予算を、妹の新しい夜会着に回した。だから私は、母が遺した白い布を使い、自分でこのドレスを縫った。宝石もレースも少ない、少し古風なドレスだ。
けれど母は、針仕事の上手な人だった。
私が幼い頃に亡くなったので、覚えていることは多くない。それでも、糸を引く母の指先だけは覚えている。
布は嘘をつかないのよ、と母は言っていた。
今、その言葉の意味が、初めて形になっていた。
「くだらない小細工だ!」
ダミアン殿下が声を荒げる。
「ルシア、君はどこまで私を愚弄する気だ。そんな刺繍で、罪が消えると思っているのか!」
「私にも、何が起きているのか分かりません」
それは本当だった。
怖い。
恐ろしくて、足が震える。
けれど、ドレスの赤い文字が嘘をついているとは思えなかった。
ミレーヌ様は顔を青くして、胸元を押さえている。さっきまでの儚げな震えとは違う。本当に怯えている人の震えだ。
「ダミアン様、これは何かの魔法ですわ。ルシア様が、わたくしたちを陥れようとして……」
彼女の言葉が終わる前に、私の裾に新しい文字が現れた。
ミレーヌ・ラザールは、毒の量を致死量の半分にするよう命じた。目的は死亡ではなく、同情と婚約者排除。
広間のざわめきが大きくなる。
ミレーヌ様は唇を噛み、ダミアン殿下の袖を掴んだ。
「違います。違いますわ。こんなの、ルシア様が――」
「そのドレスに触るな」
低い声が、広間の端から響いた。
人垣が割れる。
そこに立っていたのは、王弟ノア・アルヴェール殿下だった。
ダミアン殿下の叔父にあたる方で、まだ二十代半ばの若さだが、王立法務院の長を兼ねていると聞いたことがある。黒髪に灰色の瞳。表情は穏やかなのに、彼が歩くと周囲の空気が自然に整うようだった。
「叔父上。これは私の婚約者の問題です」
「元婚約者の問題だろう。君が今、そう宣言した」
ノア殿下は淡々と言った。
そして私のドレスを見て、ほんのわずかに目を細めた。
「白証布か」
「はくしょうふ……?」
聞き慣れない言葉を繰り返すと、ノア殿下は私に向き直った。
「古い裁定布です。濡れ衣を受け入れた者の衣に、真犯人の名を縫う。三百年前に廃れたはずの証拠魔法だ」
廃れたはず。
つまり、彼は知っている。
私の母の布が、ただの形見ではなかったことを。
「馬鹿な。そんな古法が、今さら発動するはずがない」
ダミアン殿下は侍従ベリルを睨んだ。
「ベリル、その女の部屋から毒が出たと証言したな」
「は、はい。確かに、ルシア様の部屋から……」
その瞬間、私の袖口に細い文字が走った。
毒包みの現在位置――侍従ベリルの左袖内側。
ベリルの顔から血の気が引いた。
ノア殿下が近衛兵に目配せする。兵がベリルを押さえ、左袖を裂いた。
床に、小さな紙包みが落ちる。
広間中が息を呑んだ。
さきほど私の部屋から見つかったとされたものと、同じ包みだった。
「違う、これは、その、私は命じられて……」
ベリルは膝から崩れ落ちた。
その言葉だけで、充分だった。
ダミアン殿下が何かを叫んだが、声はもう広間のざわめきに呑まれていた。ミレーヌ様は取り巻きの令嬢に支えられ、必死に顔を隠している。
私は立っているだけで精一杯だった。
助かった。
そう思っていいのだろうか。
それとも、もっと恐ろしいことが始まってしまったのだろうか。
ノア殿下が私のそばまで来て、ゆっくりと膝を折った。王族が伯爵令嬢に目線を合わせるなど、本来ならありえない。
「ルシア嬢。今、あなたがしたことを、もう一度確認してもよろしいですか」
「私は……謝りました」
「何に」
「やっていない罪に、です」
言ってから、喉が詰まった。
自分で口にして、初めてはっきり分かった。
私は、やっていないことに謝ったのだ。
いつものように。
ずっと、そうしてきたように。
ノア殿下はしばらく黙っていた。それから、低く穏やかな声で言った。
「では、今後はなるべく謝らないでください。少なくとも、自分の罪ではないことで」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
責められると思っていた。
なぜ謝ったのかと呆れられると思っていた。
けれど彼は、謝らなくていいと言った。
たったそれだけの言葉で、私は泣きそうになった。
その時、ドレスの裾がまた動いた。
赤い糸が、今までよりもゆっくりと、重たく布の上を進んでいく。
広間のざわめきが遠のいた。
ノア殿下も、私と同じように裾を見ている。
新しい文字は、三行だった。
十三年前。
エレナ王妃の死は病ではない。
毒を運んだ者は、ベルネット伯爵家にいる。
ノア殿下の顔色が変わった。
私はその横顔を見て、ようやく思い出した。
エレナ王妃。
十三年前に病で亡くなった、ノア殿下の姉君の名だった。




