第四十八話 摂政の執務室
摂政になったノア殿下の執務室は、書類で埋まっていた。
もともと彼の机には書類が多かった。けれど、今は質も量も違う。王冠の修繕報告、神殿改革案、領地補償計画、王太子派残党の処分、証言布暫定法の施行細則。
机だけでは足りず、床にまで分類箱が並んでいる。
私は入室して、思わず言った。
「これは、王宮ではなく書庫では」
「執務室です」
「床が見えません」
「王国の床も似たようなものです。隠れていた書類が出てきました」
彼は淡々と言ったが、疲れている。
目の下の影が濃い。
私は持ってきた盆を机の空いている端に置いた。
「スープです」
ノア殿下は書類から顔を上げた。
「あなたが持ってきたのですか」
「母の指示です」
「それは逆らえません」
彼は素直に器を受け取った。
摂政にスープを飲ませる証縫官。
冷静に考えると不思議な状況だ。
でも、私たちには自然になりつつある。
「無理をしていますか」
私が尋ねると、彼は少し考えた。
「しています」
即答ではないが、認めた。
「以前なら、大丈夫ですと言っていたのでは」
「あなたに信用されないので」
「学習しましたね」
「はい」
彼はスープを飲み、少しだけ息を吐いた。
私は書類の一部を見た。
「王位継承法の改正案ですか」
「はい。二年後に正式な王位継承会議を開きます。それまで私は摂政として、王冠を預かる。新王候補は私を含め、複数名を審査する予定です」
「殿下は王になりたいですか」
以前も似たことを聞いた。
でも、今は少し違う。
ノア殿下はスープの器を置いた。
「私は、王になりたいわけではありません。ただ、必要なら受ける覚悟はあります」
「それは、自分を罰するためではなく?」
「はい。練習しました」
彼が私の言葉を使う。
胸が少し温かくなった。
「ルシア嬢」
「はい」
「私からも、一つ確認してよろしいですか」
「何でしょう」
彼はいつもより慎重に言葉を選んでいる。
「あなたは現在、法衣院の証縫官です。私は摂政であり、あなたの職務上の上位権力者にあたる場面がある。したがって、私的な関係を急ぐことは不適切です」
「はい」
「その前提を踏まえた上で、私は、あなたと個人的な関係を築く意思があることを、正式に申告したい」
私は瞬きをした。
「申告」
「利害関係申告制度を提案したのはあなたです」
「それはそうですが」
「私が最初の申告者になるべきでしょう」
彼は真面目だった。
あまりにも真面目で、私は笑いそうになり、でも笑ってはいけない気もして、結局少し笑った。
「殿下らしいです」
「悪い意味ですか」
「いいえ」
私は息を整えた。
霊廟で聞いた言葉。
大切に思っています。
その言葉を私は受け取り、まだ答えを保留していた。
でも、最近分かってきたことがある。
私はノア殿下といると、謝罪以外の言葉を覚える。
助けてください。
ありがとうございます。
怖いです。
戻ってきてほしいです。
そして今、もう一つの言葉を覚えようとしている。
「私も、申告します」
ノア殿下の目が揺れた。
「私は、ノア殿下を大切に思っています。感謝だけではないと思います。でも、私はまだ自由になったばかりで、仕事も始まったばかりです。だから、ゆっくり関係を縫いたいです」
彼は静かに聞いていた。
「それは、私にとって望ましい返答です」
「本当に?」
「はい。急いで結べば、ほどく時に布を傷めます」
「恋愛の話も布で例えるのですね」
「あなたの影響です」
私は笑った。
ノア殿下も少し笑った。
その日、私たちは利害関係申告書を二通書いた。
摂政ノア・アルヴェールと証縫官ルシア・ベルネットは、互いに個人的好意を有する可能性を申告する。
文章が固い。
リュシーに見られたら一生笑われそうだ。
でも、私はその申告書を恥ずかしいだけのものだとは思わなかった。
私たちは、隠さないことを選んだ。
黒い布ではなく、白い記録の中で、ゆっくり近づくことを選んだ。
執務室を出る前、ノア殿下が言った。
「ルシア嬢」
「はい」
「スープ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
謝罪ではない、温かい言葉。
それが私たちの最初の正式な一針になった。




