第四十一話 領地へ向かう妹
アイリスは、本当にベルネット領へ向かった。
最初、私は信じていなかった。
彼女は法衣院の地味な仕事に三日で飽き、王都の親戚の家へ行くと言い出すだろうと思っていた。
けれど、アイリスはティナに針仕事の基礎を習い、臨時管理官に手紙を書き、領地の収支報告書を読もうとした。
読もうとした、というのは、途中で何度も机に突っ伏したからだ。
「数字が可愛くない」
彼女はそう言った。
数字は可愛さで読むものではない。
出発前日、アイリスは私の部屋に来た。
手には小さな裁縫箱を持っている。ティナが見習い用に用意したものだ。
「お姉様」
「はい」
「私、本当に行くわ」
「はい」
「止めないの?」
「危険はありますが、臨時管理官と同行するなら止めません」
「昔なら、お姉様が代わりに行ってくれたのに」
「昔なら、そうしたかもしれません」
アイリスは口を尖らせた。
「今はしてくれない」
「はい」
「それ、少し寂しい」
私は彼女を見た。
アイリスは本当に寂しそうだった。
私が何でも引き受ける姉だった頃、彼女は楽だった。けれど、その楽さの中で、彼女自身も成長する機会を奪われていたのかもしれない。
もちろん、それは私の罪ではない。
でも、今の彼女が不安を感じることは分かる。
「寂しいのですね」
「うん」
「私も、少し寂しいです」
アイリスは驚いた顔をした。
「お姉様も?」
「はい。アイリスが領地へ行くのは不安です。でも、私が代わりに行くのではなく、あなたが行くのが必要なのだと思います」
彼女は裁縫箱を抱きしめた。
「私、領地の人に嫌われるかしら。ベルネット家の娘だもの」
「嫌われるかもしれません」
「そこは慰めてよ」
「嘘の慰めはしません」
「本当に変わった」
アイリスは少し笑った。
「でも、嫌われても、まず聞いてみる。お父様のせいにして逃げない。お母様のせいにも、できるだけしない」
白布は動かなかった。
彼女の本心なのだろう。
私は机の引き出しから、小さな白いハンカチを出した。
母の布ではない。法衣院で新しく織られた、普通の白布だ。
「これを持っていってください」
「白証布?」
「いいえ。ただのハンカチです」
「ただの?」
「はい。ただの布も、大事です」
アイリスはハンカチを受け取った。
「お姉様が縫った?」
「端だけ」
「少し曲がってる」
「練習中です」
アイリスは笑った。
そして、急に真面目な顔になった。
「お姉様。私、あなたに許してほしいって、まだ思ってる」
私は黙って聞いた。
「でも、許してって言うと、お姉様にまた何かを渡してしまう気がする。だから、今は言わない」
彼女はハンカチを握った。
「領地で、少しはちゃんとする。そしたら、また距離を決めて」
私はうなずいた。
「分かりました」
翌朝、アイリスは臨時管理官と共に馬車へ乗った。
ティナが裁縫箱の中身を最終確認し、リュシーが「泣きたい時は泣けばいいけど、泣いて人を動かそうとしないこと」と妙な助言をした。
アイリスは嫌そうにしながらも聞いていた。
馬車が動き出す前、彼女は窓から顔を出した。
「お姉様!」
「はい」
「次に会う時は、領地の話をするから!」
「聞きます」
「謝罪じゃなくて、報告!」
私は笑った。
「待っています」
馬車が走り出す。
アイリスは最後まで手を振っていた。
妹との距離は、王都と領地の距離になった。
遠い。
でも、糸が切れたわけではない。
必要なら、また縫い直せる距離だ。




