第三十八話 最後の手紙
王妃の墓前から戻った夜、母の針箱がひとりでに開いた。
私は法衣院の客室で、証言布の端を整えていた。ティナに教わった針目はまだ不揃いだが、以前より少しだけ上手くなったと思う。
小さな音がして、針箱の底板が浮いた。
以前は銀の証言針が入っていた場所。
そこに、薄い紙が一枚現れていた。
三通目の手紙。
封には、母の文字でこう書かれている。
ルシアへ。あなたが、誰かに大切に思われても逃げなかった日に。
私は顔が熱くなるのを感じた。
母はどこまで見越しているのだろう。
いえ、未来を完全に知っていたわけではないはずだ。ただ、私がいつか人の好意からも逃げるだろうと想像していたのだ。
その想像は正しい。
私は誰かに大切にされると、申し訳なくなる。
だから、封を開ける手が少し震えた。
『ルシアへ。
ここまで来たあなたは、きっとたくさん怖い思いをしたでしょう。まずは、よく眠りなさい。眠って、食べて、温かいものを飲みなさい。真実を縫う人ほど、自分の体を粗末にしてはいけません』
最初の部分を読んで、私は笑ってしまった。
ノア殿下と同じことを言っている。
『あなたは、謝ることが悪いことだと思い始めているかもしれません。でも、何度でも書きます。謝罪は悪ではありません。謝罪は、本来、関係を縫い直すための美しい言葉です。ただし、誰かの罪を隠すために使われると、黒い糸になります』
私は針箱の中の銀の針を見た。
『いつか、あなた自身が本当に謝る日も来るでしょう。その時は怖がらないで。自分の罪を認めることは、自分を消すことではありません。むしろ、あなたがあなたとして立つための作業です』
母の言葉は、いつも私の先を歩いている。
私はまだ、自分が本当に謝る場面を想像できない。
でも、いつか来るのだろう。
その時、私は謝罪を憎まずにいられるだろうか。
『それから、誰かに大切に思われた時、すぐに返さなければと思わないで。好意は借金ではありません。あなたが受け取って、温かいと思うこと自体が、相手への返事になることもあります』
私は手紙を胸に当てた。
ノア殿下の言葉を思い出す。
私は、あなたを一人の女性として大切に思っています。
あの言葉に対して、私はまだ答えを持たない。
でも、受け取った。
逃げなかった。
母は、それでいいと言ってくれている気がした。
『最後に、白証布について。白証布は真実を縫いますが、真実を幸せに変えることはできません。幸せにするのは、その後に生きる人たちの仕事です。あなたがすべてを背負う必要はありません。けれど、あなたが幸せになることを、どうか仕事の後回しにしないで』
文字が滲んだ。
泣いているのだと、少し遅れて気づいた。
私は母にずっと会いたかった。
でも、母はただ懐かしい人ではなく、私に宿題を残す人で、心配性で、少しお節介で、そして私の幸せを望んでくれる人だった。
手紙の最後には、短い追伸があった。
『追伸。ノア殿下が、もし私の記憶通りの少年のまま大人になっているなら、彼は真面目すぎます。あなたが疲れた時は、彼にもスープを飲ませなさい』
私は声を出して笑ってしまった。
扉が叩かれる。
「ルシア嬢? 何かありましたか」
噂をすれば、ノア殿下だった。
私は慌てて涙を拭いた。
「大丈夫です」
扉の向こうが沈黙する。
「その返答は信用しません」
「では、少し泣いて、少し笑いました」
「入っても?」
「はい」
ノア殿下が入ってくる。
私は母の手紙を差し出した。
「母から、殿下にも指示がありました」
「私に?」
彼は手紙を読み、追伸のところで明らかに動揺した。
「私は、少年の頃から真面目すぎると思われていたのですか」
「母の記憶では」
「反論したいですが、相手が故人で、しかも証拠が手紙では難しい」
「スープを飲みますか」
ノア殿下はしばらく手紙を見つめ、それから小さく笑った。
「いただきます」
その夜、私たちは客室の小さな卓でスープを飲んだ。
会話は多くなかった。
王国の未来、裁定の続き、証縫官の制度化。話すべきことは山ほどある。
でも、その時はただ温かいスープを飲み、母の手紙を静かに畳んだ。
幸せを仕事の後回しにしないで。
その言葉を、私は胸の一番奥に縫い留めた。




