第三十話 目覚めたらスープだった
目を覚ますと、スープの匂いがした。
香草と鶏肉の優しい匂い。法衣院の客室の天井。肩までかけられた毛布。窓の外の朝の光。
私は王宮裁定室で倒れたはずだ。
なのに、最初に思ったことは、またスープだ、だった。
「起きましたか」
ノア殿下の声がした。
寝台の横の椅子に座っている。服は昨日のままではないが、目の下に疲れがある。おそらく、あまり眠っていない。
私は起き上がろうとして、すぐに止められた。
「まだ横になってください」
「体は大丈夫です」
「医師の診断では、体温低下と魔力消耗です。大丈夫の範囲を広げないでください」
「殿下は寝ましたか」
ノア殿下は沈黙した。
「寝ていないのですね」
「少しは」
「それは、私の“大丈夫です”と同じ種類の言葉では」
彼は目を逸らした。
勝った気がした。
勝ち負けではないけれど。
侍女が温かいスープを運んできた。ノア殿下は自分で器を受け取り、私の膝の上に盆を置く。
「食べられますか」
「はい」
スプーンを持つ手が少し震えた。
ノア殿下が手伝おうとするが、私は首を振った。
「自分で食べます」
「分かりました」
彼はすぐに手を引いた。
その距離が、やっぱりありがたい。
スープは温かかった。
一口飲むと、体の奥に熱が戻っていく。
「裁定室はどうなりましたか」
「大司祭グラシアンは拘束。神殿兵と王太子派の近衛も鎮圧。黙罪布第八芯は破壊され、王冠の黒布片も灰化しました」
「国王陛下は」
「王権停止の仮裁定が出ました。王太后と貴族院議長の同意を得て、正式裁定まで政務は臨時評議会へ移ります」
「殿下は?」
「評議会の一員です」
「忙しいのでは」
「忙しいです」
「では、なぜここに」
ノア殿下は真面目に答えた。
「あなたが目を覚ますところを確認する必要がありました」
「職務ですか」
少し意地悪に聞いてしまった。
彼は一瞬黙り、それから言った。
「職務でもあります」
でも、だけではない。
その言葉が続くのを、私は待った。
ノア殿下は視線を落とした。
「個人的にも、確認したかった」
スープの湯気で、視界が少し滲んだ。
私は器を置いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
いつものやり取りなのに、今日は少し違って響いた。
扉が叩かれ、ティナが顔を出した。
「ルシア様、お目覚めですか!」
彼女は返事を待たずに入ってきた。後ろにマリエ、リュシー、リディア、アイリスまでいる。
客室が一気に賑やかになった。
「お姉様、生きてる?」
「生きています」
「よかった。私、昨日かっこよかったでしょう」
「花瓶の話は少し驚きました」
「重要だったのよ!」
アイリスはまだ主張する。
リュシーが呆れたように笑った。
「でも、あれで空気が変わったのは確かね。小さな罪も返すって、分かりやすかった」
リディアは椅子に座らされながら言った。
「私も好きよ、花瓶の証言。十年地下にいた私より、妙に生活感があって」
ティナは私のドレスを点検している。
「黒糸の跡は残っていますが、焦げてはいません。予備布との仮留めも無事です。ただ、しばらく大きな発動は禁止です」
「皆に言われます」
「皆が正しいです」
ティナは珍しく厳しかった。
マリエが母の予備布をそっと畳んだ。
「奥様は、お嬢様が一人で背負わずに済む日を待っておられたのでしょう」
私は予備布を見た。
白い布には、昨日の証言の赤い文字が薄く残っている。完全に消えることはないのだろう。
それは傷ではなく、記録だ。
「母は、私が謝らない日を信じてくれていました」
「はい」
「でも、それだけではなかったのですね。私が一人で謝らないのではなく、皆で証言する日を」
マリエは微笑んだ。
「奥様は欲張りな方でしたから」
その言葉で、私は初めて母を少し身近に感じた。
完璧な人でも、遠い聖人でもない。
欲張りで、頑固で、娘にたくさんの宿題を残した母。
私はその宿題を、少しだけ解けたのかもしれない。
リュシーが本名布を膝の上で撫でている。
「ねえ、ルシア様」
「はい」
「私は、これからどうなるの」
部屋が静かになった。
彼女の罪は消えていない。
でも、神殿に利用された証言者でもある。
ノア殿下が答えた。
「祝賀会事件への関与は裁かれます。ただし、神殿による育成、名前の剥奪、罪移しへの強制は情状として考慮されます。証言協力も記録される」
「処刑は?」
「現時点では求刑されない見込みです」
リュシーは長く息を吐いた。
「修道院送りは嫌」
「ミラー修道院は閉鎖されます」
「普通の仕事、できるかしら」
その問いは、聖女候補ではなく、名前を取り戻した少女のものだった。
私は言った。
「泣き方以外にも、覚えたことはありますか」
「書類整理、礼法、薬草、演説、寄進者の顔色を読むこと」
「法衣院の証人保護課で、役に立つかもしれません」
ノア殿下が私を見る。
「勝手に雇用を増やさないでください」
「見習いの提案です」
「検討します」
リュシーは目を丸くし、それから少し笑った。
「私、あなたの近くで働くの? 最悪」
「嫌なら別の道もあります」
「嫌だけど、考える」
それだけで充分だった。
アイリスがそわそわしている。
「お姉様、私は?」
「アイリスは、まず家に戻らない方がいいかもしれません」
「え」
ノア殿下が説明する。
「ベルネット伯爵家は捜査対象です。あなたは証拠提出者でもある。安全のため、しばらく法衣院の保護下に」
アイリスは嫌そうな顔をした。
「法衣院って地味」
ティナが針を持ったまま笑顔になる。
「地味な布の良さを教えて差し上げます」
「何か怖い」
部屋に笑いが起きた。
昨日まで王宮で罪を巡って戦っていたとは思えない。
でも、こういう時間が必要なのだと思う。
裁きはまだ終わっていない。
王太子、国王、グラシアン、神殿、ベルネット家。正式な裁定には時間がかかる。
それでも、今朝のスープは温かい。
私は謝らずに、それを受け取った。
大きな山場を越えました。ここからは「裁いた後、どう縫い直すか」の章に入ります。ざまぁだけで終わらせず、罪を正しい場所へ戻した後の責任と再建を描いていきます。




