第二十九話 それは私の罪ではありません
黒い布は、波のように押し寄せた。
布というより、声だった。
王家を守るためだった。
神殿を守るためだった。
国を守るためだった。
あなたが背負えば済む。
あなたは謝るのが得意でしょう。
私の足が床に沈むように重くなる。白いドレスの上に、黒い糸が一本、また一本と落ちてくる。触れた場所から体温が奪われ、指先が冷たくなった。
前世の事務所が見える。
鳴り続ける電話。上司の背中。画面の苦情一覧。
申し訳ございません。
その言葉を言えば、少しだけ静かになる。
今も同じだ。
私が謝れば、この裁定室は静かになる。
王家も神殿も、貴族たちも、民衆も、きっと「やはり令嬢の呪いだった」と納得する。ノア殿下は反逆者ではなく騙された人になるかもしれない。ダミアン殿下も、国王陛下も、少し軽くなるかもしれない。
私一人が黒い布を着れば、場は収まる。
あまりにも慣れた提案だった。
だからこそ、私は言った。
「それは、私の罪ではありません」
声は小さかった。
けれど、白い布が震えた。
黒い糸が一本、弾かれる。
グラシアンが叫んだ。
「黙れ! 白証布は濡れ衣を受け入れてこそ力を持つ。謝れ、罪を引き受けろ!」
その言葉が、逆に私を立たせた。
彼は私に謝罪を求めている。
つまり、謝らなければ困るのだ。
「王妃エレナ様の告発を止めたのは、私ではありません」
白い布に赤い文字が走る。
王妃告発阻止、ルシア・ベルネットの罪ではない。
「祝福の杯へ毒を混ぜるよう命じたのは、私ではありません」
黒糸がまた弾かれる。
「四十二人に謝罪状を書かせたのは、私ではありません」
赤い文字が広がる。
「リディア様を十年監禁したのは、私ではありません」
「リュシー様の名前を奪ったのは、私ではありません」
「ノア殿下を証拠捏造で拘束したのは、私ではありません」
「王太子殿下の記憶を封じたのは、私ではありません」
言うたびに、黒い布が私から剥がれていく。
でも、すべてを一人で跳ね返すには重すぎる。
体が冷える。
膝が震える。
ノア殿下が私の前に出ようとした。
「ルシア嬢!」
「殿下」
私は彼を見た。
「これは、私の練習です」
ノア殿下の顔が痛みに歪む。
でも、彼は止まった。
止まってくれた。
私が自分で立つことを、尊重してくれた。
その代わり、彼は言った。
「王立法衣院長として証言します。ルシア・ベルネットは、王妃毒殺、赦罪制度、王宮武力介入のいずれの罪にも関与していません」
透明な糸が彼の言葉を受ける。
ノア殿下の証言が、私の白い布に重なる。
マリエが続いた。
「王妃様の死を見た私は、ルシア様が十三年前の事件に関わっていないことを証言します」
リディアが言う。
「十年地下にいた私も、ルシア様に閉じ込められたわけじゃないわ」
リュシーが涙を拭いて叫ぶ。
「毒殺未遂でルシア様を陥れたのは、私と王太子殿下と神殿です。ルシア様じゃない!」
ダミアン殿下が顔を上げる。
彼は一瞬迷い、それから言った。
「祝賀会の冤罪計画は、私の罪だ。ルシアの罪ではない」
アイリスが叫ぶ。
「お姉様は、私の花瓶を割ってない! それも私!」
「今それは関係あるの?」
リュシーが思わず言った。
アイリスは泣きながら怒る。
「あるわよ! お姉様に押しつけた罪は全部返すの!」
白い布が明るくなった。
小さな罪も、大きな罪も、構造は同じだ。
誰かに押しつけられたものを、正しい場所へ戻す。
ティナが私の背後で針を動かした。
彼女は予備布とドレスを、さらに細かく仮留めしている。針先が光り、皆の証言糸がほどけないように支えていた。
「私は針子です。ルシア様の布が、一人で裂けないように縫います!」
その言葉で、白い布は大きく広がった。
黒い罪の波が、私一人に向かうのをやめる。
正確には、向かえなくなった。
皆が自分の見たものを言うたび、罪の糸は行き先を失わず、正しい場所へ戻っていく。
赤い文字が裁定室全体に浮かぶ。
王妃毒殺、主犯グラシアン。黙認、国王アルヴェール三世。運搬、ベルネット伯爵。隠蔽、神殿および王宮関係者。被害者、王妃エレナ、胎児、四十二名の謝罪者、名を奪われた候補者たち。
黒い布が悲鳴のように軋んだ。
グラシアンは拘束されたまま、顔を歪めている。
「愚かな……罪を正しい場所へ戻せば、国が裂けるぞ!」
私は彼を見た。
「裂けた布は、縫い直せます」
ティナが力強くうなずく。
「ただし、汚れを隠したままでは縫えません」
その言葉に、白い布が最後の光を放った。
黒い黙罪布の波が、中心から裂ける。
第八糸車の芯が床に落ち、乾いた音を立てて割れた。
王冠の裏の黒布片も、灰になって崩れた。
裁定室に満ちていた沈黙が、ふっと消える。
誰かが息を吸う音がした。
私も息を吸った。
空気が、こんなに軽いものだと忘れていた。
体から力が抜ける。
倒れる前に、ノア殿下の腕が支えてくれた。
「今のは何回目ですか」
彼の声は低い。
「数え方によっては」
「今回は数えます」
「……はい」
怒られるかもしれない。
でも、私は少し笑った。
「でも、謝りませんでした」
ノア殿下は目を閉じた。
「はい。よく、謝りませんでした」
その言葉を聞いて、私は今度こそ意識を手放した。




