第二十八話 国王の謝罪は届かない
国王陛下は、王冠を外さなかった。
手は王冠にかかっている。指は震えている。けれど、最後の一歩を越えられない。
玉座に座る男は、国王である前に、罪を認めることを恐れる一人の人間だった。
ノア殿下は静かに言った。
「陛下。王妃エレナの告発を止めるよう、大司祭グラシアンに求めましたか」
国王は答えない。
「死亡の可能性を認識していましたか」
沈黙。
「王妃の死後、四十二人の謝罪状と赦罪帳簿を黙認しましたか」
国王の口元が歪む。
「余は、国を守った」
赤い糸が動く。
自己正当化。証言ではない。
裁定室がざわめいた。
布が、王の言葉を証言として受け取らなかった。
国王陛下は目を見開く。
「余の言葉を否定するのか」
ノア殿下は答えない。
私も何も言わなかった。
否定したのは、白証布だ。
けれど、その白証布は私たちの証言を受けて動いている。
国王は玉座から立ち上がった。
「余が罪を認めれば、王家は神殿との契約違反を問われる。貴族は王権を侮り、隣国は国境を脅かす。ダミアンの継承権も揺らぐ。ノア、お前はそれを望むのか」
「私は、嘘の上に王権を置くことを望みません」
「綺麗事だ!」
国王の怒鳴り声が裁定室を震わせた。
「お前はいつもそうだ。法だ、正義だと。だが、王は泥を飲む。罪を隠し、取引をし、時に誰かを切り捨てる。それで国が保たれるなら、王はそうするしかない!」
その言葉は、父の言葉と似ていた。
真実で領民にパンが配れるのか。正義で借金が消えるのか。
規模が違うだけで、同じ構造だ。
自分より大きなものを守るためだと言って、誰かに罪を着せる。
私は前に出た。
「陛下」
国王の視線が私に刺さる。
「私は、会社という場所で謝っていた記憶があります」
裁定室の人々には意味が分からないだろう。
でも、私は続けた。
「自分の作ったものではないのに、謝る。自分の決めたことではないのに、謝る。上にいる人たちは、組織を守るためだと言いました。場を収めるためだと言いました。でも、謝らされた人間は、少しずつ自分が本当に悪いのだと思うようになります」
国王は黙っている。
「四十二人も、そうだったのではありませんか。国を守るため、王家を守るため、神殿を守るため。そう言われて謝罪状を書き、自分の名前を失った」
リディアが目を伏せる。
リュシーが本名布を握る。
マリエが九通の謝罪状を抱きしめる。
「でも、守られた国は、誰の国ですか」
私は王を見た。
「謝らされた人たちを含まない国なら、それは陛下の王冠を守っただけです」
国王の顔が強張った。
黒い王冠が重そうに見える。
王太后が静かに言った。
「アルヴェール。あなたは国を守ったのではなく、王である自分を守ったのです」
その言葉が、最後の糸を切った。
国王陛下は王冠を外した。
王冠の裏から、黒い布片が垂れた。
同時に、裁定室の床下から黒い糸の芯が浮かび上がる。第八糸車の芯。王冠の黒布と結びつき、王宮全体に沈黙を広げていたものだ。
国王は王冠を見つめ、低く言った。
「私は、エレナの告発を止めるよう命じた」
赤い糸が走る。
「死ぬかもしれないと、思わなかったわけではない」
文字が増える。
「死後、神殿の仕業だと分かった。だが、公表しなかった。王家も関わっていたからだ」
裁定室全体が静まり返る。
「四十二人の謝罪状を見た。燃やされ、黙罪布にされることも知った。止めなかった」
国王の声はひどく疲れていた。
「これは、私の罪だ」
白い布は動かなかった。
自分の罪として認められた謝罪の前触れだ。
国王は私ではなく、ノア殿下を見た。
「ノア。すまなかった」
ノア殿下の顔は硬い。
兄からの謝罪。
姉を失った弟として、どれほど長く待っていた言葉だろう。
でも、ノア殿下はすぐに受け取らなかった。
「その謝罪は、私だけに向けるものではありません」
国王の目が揺れる。
ノア殿下は続けた。
「姉上に。生まれなかった子に。四十二人に。名前を奪われた候補者たちに。ベルネット家の影法衣師に。王家の嘘で婚約者にされたルシア嬢に。王の謝罪は、一人に向ければ済むものではありません」
国王は膝をついた。
玉座の前で、王が膝をつく。
貴族たちが息を呑む。
「では、どうすればよい」
ノア殿下は答えた。
「裁かれてください」
その言葉は、重かった。
国王は目を閉じた。
白い布に透明な文字が浮かぶ。
国王証言成立。第五針。王冠黙罪布、所有者の罪認識により効力低下。
黒い王冠の布片が、焦げるように縮んだ。
しかし、その瞬間、グラシアンが笑った。
拘束されているはずの彼の袖から、最後の黒糸が伸びる。
「王が罪を認めたなら、契約は破棄。王家の罪は神殿へ返される。ならば神殿も、王家を守る義務を捨てましょう」
黒い糸が第八芯へ絡みつく。
床が震えた。
グラシアンは叫んだ。
「黙罪布を反転せよ! 王宮中の罪を、白証布の娘へ!」
黒い布が爆発するように広がり、私へ向かって押し寄せた。
王家、神殿、貴族、四十二人、十三年分の沈黙。
すべての罪を、私に着せるために。
ノア殿下が私の名を叫ぶ。
私は逃げなかった。
けれど、謝りもしなかった。




