第二十七話 王太子の証言
ダミアン殿下がグラシアンの手を振りほどいた瞬間、裁定室の黒糸が一部ほどけた。
それは、彼が完全に改心したという意味ではない。
彼の罪が消えたわけでもない。
ただ、神殿の糸に従うことを、その場では拒んだ。
それだけで、黙罪布は少し弱まった。
グラシアンは信じられないものを見るように王太子を見た。
「殿下。あなたは、王位を捨てるのですか」
「私はまだ何も捨てていない」
ダミアン殿下の声は荒い。
「だが、お前の言いなりにはならない」
「神殿がなければ、あなたの母君の件は公になっていた。王太子としての地位も守れなかった」
「守った?」
ダミアン殿下は笑った。
泣きながら笑うような、壊れた笑いだった。
「母を殺した記憶を消し、私に王冠だけを残して、それを守ったと言うのか」
「あなたは母君を殺していない。先ほど白証布もそう縫ったでしょう」
「だからこそだ!」
ダミアン殿下は叫んだ。
「私は殺していないのに、お前たちは私に何も知らないまま王太子でいろと言った。母の死を悲しむことも、怒ることも、真実を知ることも許さなかった。私はずっと、何に苦しいのか分からないまま生きてきた」
裁定室が静まる。
私は彼を見ていた。
この人は私を傷つけた。
私の人生を奪おうとした。
それでも、今の言葉は本物だと思った。
ダミアン殿下は国王陛下を見る。
「父上。あなたは知っていたのですか」
国王陛下は答えない。
「私が母上に花を届けたこと。記憶を封じられたこと。私がずっと、母上の死をどこかで恐れていたこと」
「……知っていた」
国王の声は低い。
ダミアン殿下は目を閉じた。
「そうですか」
その一言には、怒鳴り声よりも深い絶望があった。
グラシアンが黒糸を動かす。
「殿下、今は感傷に浸る時ではありません。王位を守るためには――」
「私は証言する」
ダミアン殿下が言った。
グラシアンの動きが止まる。
ノア殿下も、私も、国王陛下も彼を見る。
ダミアン殿下は私に向き直った。
「ルシア・ベルネット。私の証言も、その布は縫うのか」
「あなたが見たこと、知っていることなら」
「なら、縫え」
彼は深く息を吸った。
「私は、祝賀会で君に毒殺未遂の罪を着せる計画を知っていた。ミレーヌ……いや、リュシーに毒杯を使わせ、カイルに証拠を君の部屋へ置かせた。君が謝れば、そのまま修道院へ送るつもりだった」
赤い糸が白い布に走る。
王太子ダミアン、毒殺未遂冤罪計画を認識。目的、婚約解消、聖女候補との婚姻、ベルネット家沈黙維持。
ダミアン殿下は続けた。
「私は、君が処刑されないようにしたつもりだった。慈悲だと思っていた。だが、それは君の人生を奪う計画だった」
彼の声が震える。
「これは、私の罪だ」
白い布は動かなかった。
自分の罪として認めたからだ。
彼は私を見た。
「すまなかった」
その言葉は短かった。
王太子の謝罪としては、飾りがない。けれど、初めて私に向けられた本当の謝罪だった。
私はすぐには答えなかった。
謝罪を受け取ることは、無罪にすることではない。
母の手紙を思い出す。
「謝罪を受け取ります」
私は言った。
ダミアン殿下の顔に、わずかな安堵が浮かぶ。
「ですが、あなたの罪は裁かれます」
安堵は消えた。
けれど、彼は逃げなかった。
「分かっている」
その瞬間、白い布に透明な文字が浮かんだ。
証言成立。第四針。王太子証言により、祝賀会事件の罪状確定。
グラシアンが舌打ちした。
「愚かな。王太子ともあろう方が、女の言葉に屈するとは」
リュシーが鋭く言った。
「女の涙を使って罪を売ってきた人が、女の言葉を侮辱するのね」
リディアが続ける。
「負け惜しみが下手」
グラシアンの顔が怒りで歪む。
その瞬間、外の扉が破られた。
法衣院側の近衛が突入し、神殿兵と王太子派を押さえ込む。黒糸の封印が弱まったためだ。
グラシアンは逃げようとした。
だが、ノア殿下が彼の前に立つ。
「大司祭グラシアン。王妃毒殺、証人監禁、証拠隠滅、王宮武力介入の疑いで拘束します」
「神殿は世俗法に裁かれぬ!」
「王妃を毒殺した時点で、世俗法の中心にいます」
近衛兵がグラシアンを押さえる。
彼はなおも黒糸を動かそうとした。
しかし、ダミアン殿下が祈祷書を床に投げた。
白百合の押し花が散る。
「もう私の記憶を使うな」
黒糸が一瞬止まる。
その隙に、近衛兵がグラシアンの袖から黒糸巻きを取り上げた。
大司祭は拘束された。
裁定室に残った黒布は、完全には消えていない。
王冠の裏にある一片と、第八糸車の芯はまだ王宮にある。
そして国王陛下は、まだ玉座に座っている。
ノア殿下は兄を見た。
「陛下。次は、あなたの証言です」
国王陛下は長い沈黙の後、王冠に手をかけた。
けれど、外そうとはしなかった。
「王が罪を認めれば、国が崩れる」
その言葉に、王太后が静かに言った。
「罪を隠す王の上に立つ国は、もう崩れています」
王冠の黒布が、また揺れた。




