第二十五話 白百合の記憶
ダミアン殿下は、まるで夢遊病者のように裁定室へ入ってきた。
足取りは不安定で、目の焦点も合っていない。王太子としての尊大さは消え、五歳の子どもの影がそのまま大人の体に残っているようだった。
ノア殿下が鋭く言った。
「誰が東塔から出した」
グラシアンは穏やかに答える。
「王太子殿下は王家の方です。神殿は、迷える御子を導いただけ」
「拘束命令違反です」
「黙罪布の下で、その言葉に意味があるとお思いですか」
グラシアンは祈祷書へ手を伸ばした。
ダミアン殿下は抵抗しない。
白百合の押し花が頁からこぼれ落ちる。
その瞬間、裁定室の空気が白く霞んだ。
記憶が開く。
私はそう感じた。
白証布が勝手に震え、赤い文字ではなく、薄い映像を布の上に映し始める。
五歳のダミアン殿下。
小さな手に、白百合の花束を抱えている。王宮の廊下を歩きながら、何度も花を落としそうになっている。隣には若い司祭オルド。後ろにはグラシアン。
幼いダミアンは言う。
『母上、喜ぶ?』
オルドが微笑む。
『もちろんです。王妃様は、王太子殿下のお見舞いを何より喜ばれます』
花束の中に、小さな黒い糸袋が隠されていた。
五歳の子どもには分からない。
彼はただ、病気だと聞かされた母に花を届けた。
映像の中の王妃エレナは、寝台に座っていた。
顔色は悪いが、微笑みは優しい。彼女のお腹はわずかに膨らんでいる。
ダミアンが花を差し出す。
『母上、早く元気になって』
王妃は花束を受け取り、息子の頬に触れる。
『ありがとう、ダミアン。あなたは悪くないわ』
その言葉に、現在のダミアン殿下が膝をついた。
「母上……」
記憶の中で、王妃は花束の中の黒い糸袋に気づいた。
一瞬だけ目が変わる。
けれど、彼女は息子の前で何も言わなかった。ただ、近くに控えていた影法衣師、私の母エレナに視線を送る。
母は頷く。
王妃はダミアンを抱きしめた。
『あなたは悪くない。覚えていなくても、いつかその言葉だけは戻ってきますように』
映像が揺れる。
次に映ったのは、廊下で泣く幼いダミアンだった。グラシアンが彼の額に白百合を当て、神殿香を焚く。
『王太子殿下。母君は病で亡くなられます。花束のことは、お忘れなさい』
『母上、死ぬの?』
『神の御心です』
記憶封じがかかる。
幼いダミアンの目から光が消える。
映像が消えた。
裁定室には、誰もすぐに声を出せなかった。
ダミアン殿下は床に座り込んでいる。
大人の彼が、五歳の彼の記憶を抱えて壊れそうになっている。
「私は……母上に毒を……?」
彼の声は掠れていた。
グラシアンが言う。
「いいえ、殿下。あなたは運んだだけです。罪は、あなたを利用した大人たちにある」
その言葉は一見正しい。
けれど、私は背筋が冷たくなった。
グラシアンは、ダミアン殿下の傷を利用しようとしている。
「そして今、同じ大人たちが、あなたから王位を奪おうとしている。王弟殿下も、ルシア嬢も、あなたを哀れな道具として扱い、王冠から遠ざけようとしている」
「違います」
私は思わず言った。
グラシアンの視線が私に向く。
「では、王太子殿下は無罪だと?」
「十三年前の花束については、利用された子どもです」
私はダミアン殿下を見た。
「でも、祝賀会で私に毒殺未遂の罪を着せようとしたあなたは、大人でした」
ダミアン殿下の顔が歪む。
「今、それを言うのか」
「今だから言います。あなたの中に被害者の部分があっても、私にしたことは消えません」
「私は……私は、母を殺した子どもだったんだぞ!」
「いいえ。あなたは母上を殺した子どもではありません」
私は一歩近づいた。
ノア殿下が警戒するが、止めなかった。
「でも、その傷を理由に、他人を傷つけてよい大人でもありません」
ダミアン殿下は私を見上げた。
その目には、怒りと恐怖と、救われたいという願いが混ざっていた。
「君は、私を許さないのか」
父と同じ問いだった。
許すか、許さないか。
私に決めさせ、私の答えで自分の罪の重さを変えようとする問い。
「今は許しません」
私は言った。
「でも、十三年前のあなたに置かれた罪は、あなたから戻します」
白い布が光った。
赤い糸がダミアン殿下の周囲に浮かぶ。
十三年前、王妃エレナの花束内黒糸袋運搬。運搬者、王太子ダミアン。認識、なし。責任能力、なし。利用者、司祭オルド。指示者、大司祭グラシアン。
ダミアン殿下はその文字を見て、声を上げて泣いた。
王太子が裁定室で泣く。
その光景に、貴族たちは動揺した。
グラシアンの顔が歪む。
「余計なことを……」
彼はすぐに切り替えた。
「しかし、祝賀会の件はどうでしょう。王太子殿下は、ルシア嬢を処刑ではなく修道院へ送るつもりだった。神殿が保護し、罪を赦す予定だった。慈悲ある判断です」
リュシーが笑った。
冷たい笑いだった。
「修道院へ送る? 名前を奪って、罪の器にするためでしょう」
リディアも言った。
「永久幽閉を慈悲と呼ぶのは、神殿の悪い癖ね」
グラシアンは二人を無視し、ダミアン殿下に囁く。
「殿下。王冠を守るのです。あなたが王になれば、過去の罪も、現在の混乱も、すべて収まります」
ダミアン殿下は涙を拭いた。
その顔に、再び王太子の傲慢さが戻ろうとしている。
危険だ。
傷ついた人は、救いを求める。
そしてグラシアンは、救いの形をした新しい罪を差し出している。
ノア殿下が言った。
「ダミアン。王位は傷を癒やす道具ではない」
「叔父上に何が分かる!」
ダミアン殿下は叫んだ。
「あなたは母上の弟だ。皆があなたを可哀想だと言った。でも私は? 母を失い、記憶を奪われ、父には王冠のために笑えと言われた。私はずっと王太子でいるしかなかった!」
「だからこそ、王太子として責任を取れ」
ノア殿下の声は厳しかった。
「責任とは、自分の傷を他人に着せないことです」
その言葉に、ダミアン殿下は固まった。
けれど、グラシアンが黒い糸を動かす。
裁定室の扉の外で、金属音が響いた。
近衛兵の一部が神殿兵と共に動いている。
王太子派だ。
グラシアンは笑った。
「裁定はここまでです。王太子殿下をお守りし、王宮を正常化します」
黒糸が裁定室の扉を閉ざした。
王宮内で、反乱が始まった。




