第二十四話 王太后の証言
王太后マルグリットは、裁定室に入るだけで空気を変えた。
背は小さく、杖をついている。髪は雪のように白い。けれど、彼女が一歩進むたび、貴族たちは自然に道を空けた。王冠を戴いていないのに、王よりも古い重みをまとっている。
国王陛下が立ち上がった。
「母上。お体に障ります。ここは裁定の場です」
「知っています」
王太后は短く答えた。
「だから来ました」
大司祭グラシアンが深く頭を下げる。
「王太后陛下。神殿は常に王家の安寧を祈っております。どうか、魔女の布に惑わされませぬよう」
「黙りなさい、グラシアン」
老女の声は静かだった。
けれど、大司祭は口を閉じた。
「あなたの祈りで、私の娘は戻りませんでした」
娘。
王妃エレナ様は、国王の妃であり、ノア殿下の姉であり、王太后にとっては娘だった。
王太后は私を見た。
「あなたが、ルシア・ベルネットね」
「はい」
「エレナの子」
その言い方に、私は一瞬迷った。
母エレナの子。王妃エレナの影法衣師の娘。
王太后は続けた。
「あなたの母は、私の娘を最後まで守ろうとしました。私はそれを知りながら、十三年沈黙しました」
白い布が熱を持つ。
証言が始まる。
ノア殿下が一歩前に出た。
「母上。無理をなさらず」
「ノア。あなたはいつも、私に優しすぎる」
王太后は彼を見た。
「だから私は、あなたに真実を言えなかった。あなたが兄を裁こうとする日を恐れた」
ノア殿下の顔が痛みに歪む。
国王陛下は低く言った。
「母上、やめてください」
「やめません」
王太后は杖を床に打った。
その音が裁定室に響く。
「十三年前、エレナ王妃は赦罪帳簿を私に見せました。神殿が貴族の罪を金で赦し、弱い者に謝罪状を書かせている証拠です。私は娘に言いました。公表すれば王家も神殿も揺らぐ、と」
赤い糸が予備布に走る。
王太后マルグリット、赦罪帳簿閲覧。十三年前、王妃エレナより提示。
「娘は言いました。揺らぐべきものなら揺らせばよい、と」
王太后の声が少し震えた。
「私は母として誇らしかった。王太后として恐ろしかった。だから、息子に相談しました」
国王陛下が目を閉じる。
「相談相手を間違えたのです」
沈黙が落ちた。
赤い糸は止まらない。
王太后は証言を続けた。
「息子、アルヴェール三世は、王妃の動きを止めるようグラシアンに求めました。殺せとは言わなかった。けれど、止めろと言った。王家のため、胎の子のため、国のためという言葉で」
国王陛下の顔が歪んだ。
「私は、死を望んだわけではない」
王太后は振り返った。
「望まなければ罪ではないと、十三年自分に言い聞かせてきたのですね」
その言葉は、刃だった。
「止めろと言った相手が、どんな方法で止めるか分かっていたはずです。あなたは知らないふりをした。私は、あなたが知らないふりをするのを見て、何も言いませんでした」
白い布に新しい文字が浮かぶ。
国王アルヴェール三世、王妃エレナの告発阻止を大司祭グラシアンへ依頼。死亡可能性を認識しながら黙認。
裁定室がざわめいた。
国王の罪が、初めて王冠の内側から縫われた。
黙罪布が激しく震える。
グラシアンが叫んだ。
「王太后陛下はご高齢です! 記憶が混濁しておられる!」
王太后は彼を見た。
「では、私の記憶を白証布に問えばよろしい」
私は証言針を握った。
王太后が私に近づく。
近衛兵が止めようとしたが、ノア殿下が手で制した。
王太后は私の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「ルシア・ベルネット。私は、あなたの母を見捨てました。エレナ王妃を見捨てました。四十二人の謝罪状を黙認しました。これは、私の罪です」
私のドレスは動かなかった。
王太后自身の罪として、謝罪がなされたからだ。
私は息を吸った。
目の前の人は王太后だ。けれど、今は一人の母であり、罪を認めようとしている人だ。
「謝罪を受け取ります」
私は言った。
「そして、次の行動を求めます。王太后陛下の証言を、正式記録にしてください」
王太后は目を伏せた。
「もちろんです」
その瞬間、予備布に透明な糸が走った。
証言成立。第三針。王冠内側への到達路、開通。
黒い黙罪布に、白い亀裂が入った。
国王陛下は玉座の肘掛けを握りしめている。
「母上……なぜ今さら」
「今さらだからです」
王太后は答えた。
「十三年遅れました。これ以上遅れれば、私は死ぬ前に娘へ何一つ返せない」
ノア殿下が目を伏せた。
彼の肩がわずかに震えている。
王太后の証言は、ノア殿下を救うと同時に、彼の家族の罪を確定させていく。
私は彼のそばに行きたかった。
でも、今は裁定の場だ。
代わりに、白い糸を伸ばす。
透明な証言糸が、ノア殿下の足元の黒い円を完全にほどいた。
彼は自由になった。
けれど、裁定室の中心にある黒布はまだ残っている。
グラシアンが両手を広げた。
「よろしい。王家が自ら罪を認めるなら、神殿は王家を守る義理を失います」
彼の声から、穏やかさが消えた。
「王冠の罪を、神殿だけに押しつけるつもりなら、こちらにも証言があります」
彼が指を鳴らすと、裁定室の横扉が開いた。
そこに立っていたのは、ダミアン王太子だった。
東塔に留め置かれていたはずの彼が、青白い顔で立っている。
その手には、白百合の押し花が入った祈祷書があった。
グラシアンは微笑んだ。
「王太子殿下の記憶を、今ここで返しましょう」




