第二十三話 母の予備布
アイリスが持ってきた白い布は、母の予備布だった。
ベルネット家の東倉庫には、針箱だけでなく床下の隠し箱があったらしい。義母が倉庫を焼こうとした時、アイリスは私の手紙を盗んだことへの罪悪感から、もう一度倉庫を調べたという。
その結果、床板の下から白い布包みを見つけた。
彼女はそれを誰にも言わず、王宮まで持ってきた。
「門で止められたけど、私はベルネット伯爵家の令嬢で、王太子殿下の元婚約者の妹で、つまり関係者だって言い張ったの。あと少し泣いた」
裁定室で言うことではない。
しかし、リュシーがぼそりと言った。
「泣き方が甘いわね。門番を通すなら、左目から先よ」
「何それ、怖い」
「神殿式」
二人のやり取りに、場の緊張が一瞬だけずれた。
けれど、王冠の黒布は待ってくれない。
グラシアンが手を振ると、黒糸がアイリスの白い布へ伸びた。
私は反射的に前に出る。
「アイリス、下がって!」
「嫌よ! 私だって、お姉様のものを返しに来たんだから!」
「返すだけなら十分です!」
「まだ謝ってないことがいっぱいあるの!」
アイリスは白い布を抱きしめた。
「でも、今は謝らない! 謝るとお姉様が変な布を動かすから!」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
でも、アイリスは必死だった。
「私、ずっとお姉様のものを取ってきた。ドレスも、手紙も、お父様の機嫌も。でも、これは取らない。返す。だから受け取って!」
彼女は白い布を私に投げた。
黒糸が布を絡め取ろうとする。
その瞬間、ティナが飛び出した。
針子の手が、空中で白い布を掴む。
「布を粗末にしないでください!」
ティナは叫びながら、予備布を私の肩にかけた。
白い布がドレスと触れた瞬間、胸元の赤い刺繍が熱を取り戻した。
母の文字が浮かぶ。
白証布は、一人の犠牲で動かすものではない。証言する者、支える者、縫う者、受け取る者。その全てが揃う時、黙罪布に対抗する。
私はその言葉を読んだ。
一人で向かわないで。
母は、最初から分かっていたのだ。
私が一人で背負おうとすることを。
ノア殿下が黒い円から完全に抜け出した。近衛兵が彼を支えようとするが、彼は自分で立つ。
「陛下」
ノア殿下の声が裁定室に響く。
「これ以上、黙罪布を用いて裁定を歪めるなら、王国法に基づき、王権濫用の調査を開始します」
国王陛下は立ち上がった。
「余を裁くというのか、ノア」
「法が裁きます」
「王は法の上にある」
「いいえ。王は法を守るために冠を戴く」
ノア殿下の声は震えていなかった。
しかし、彼の顔には痛みがある。
国王は彼の兄だ。
王妃エレナを死なせた王であり、同時に彼にとっては家族だ。
その家族を法の前に立たせることが、どれほど重いか。
私は白い予備布を肩にかけ、証言針を握った。
今度は、一人で発動するのではない。
マリエが九通の謝罪状を広げる。
リディアが本名布を掲げる。
リュシーが自分の本名を口にする。
アイリスが予備布の端を持つ。
ティナが針と糸を構える。
バルテル副院長が赦罪帳簿の複写を開く。
ノア殿下が法の条文を読み上げる。
「私は」
私は言った。
「ミラー修道院で赦罪帳簿を見ました」
透明な糸が走る。
「マリエは、王妃様の祝福の杯と四十二通の謝罪状を証言します」
マリエが頭を下げる。
「私は、王妃エレナ様付き侍女マリエ・レノとして、祝福の杯が病ではなく毒死につながったことを証言します」
白い布に赤い文字が浮かぶ。
「リディアは、五番目の候補として監禁と本名布を証言します」
「私はリディア・フォル。十年、赦しの間に監禁されました」
赤い文字が増える。
「リュシーは、六番目の候補として涙の訓練と罪移しを証言します」
「私はリュシー・アンベル。ミレーヌ・ラザールという名で、罪移しの聖女にされました」
赤い糸は黒布に押されながらも、消えない。
「アイリスは、母の予備布を見つけ、ここへ持参したことを証言します」
アイリスは涙目で叫んだ。
「私はアイリス・ベルネット! お姉様の手紙を盗みました。でも今日は返しました!」
少し違う。
けれど、白い布は彼女の言葉も縫った。
母の予備布、ベルネット家東倉庫床下より発見。搬出者、アイリス・ベルネット。
「ティナは、白証布を補修し、黒糸の焼却未遂を証言します」
「私は針子ティナ! 油糸で証拠衣を燃やすよう脅されました。でも今は、ルシア様の布を守ります!」
ティナの針が白い予備布とドレスの端を仮留めする。
布と布がつながった。
赤い文字が、私一人のドレスから、肩の予備布へ広がる。
黒い黙罪布が退いた。
グラシアンが初めて焦りを見せた。
「こんなものは裁定ではない! 寄せ集めの女たちの恨み言だ!」
その言葉に、赤い糸が鋭く走った。
大司祭グラシアンは、証言者の身分と性別を理由に証言能力を否定しようとしている。
裁定室の貴族たちがざわめく。
ノア殿下が一歩前に出る。
「証言能力は、身分ではなく、見聞と記録によって判断されます。大司祭、あなたは法の場で証人を侮辱した」
「神殿は世俗法の下にない!」
「王妃毒殺は世俗法の事件です」
赤い糸がグラシアンの足元へ伸びる。
大司祭グラシアン。赦罪帳簿承認者。黙罪布運用責任者。十三年前、祝福の杯へ毒草リーヴァを混入する指示を出した者。
裁定室が凍った。
ついに、毒を混ぜた命令者が縫われた。
国王陛下の顔から血の気が引く。
しかし次の瞬間、王冠の黒布が激しく広がった。
赤い文字がまた薄くなる。
国王陛下が震える声で言った。
「それ以上は、ならぬ」
私は王を見た。
彼はグラシアンを守っているのか。
それとも、自分の罪を見たくないのか。
赤い糸が、王冠へ伸びようとして止まる。
黙罪布が阻んでいる。
母の予備布が熱を持った。
次に必要な証言者――国王アルヴェール三世本人。
私は息を呑んだ。
王本人が証言しなければ、王冠の奥の罪は縫えない。
けれど、国王が自分から証言するはずがない。
その時、裁定室の奥の扉が開いた。
現れたのは、白い髪の老女だった。
王太后マルグリット。
国王陛下とノア殿下の母。
彼女は杖をつき、静かに言った。
「ならば、母が証言しましょう」
王冠の黒布が、初めて大きく揺れた。




