第二十二話 王宮裁定室の沈黙
王宮裁定室は、前回より暗かった。
魔導灯はついている。窓も開いている。それなのに、部屋全体が黒い薄布で覆われているように見える。
黙罪布第八芯。
私の白いドレスは、入室した瞬間に冷えた。
胸元の赤い刺繍が薄くなり、透明な証言糸も内側へ引っ込む。まるで布が息を潜めている。
裁定室の中央に、ノア殿下が立っていた。
手枷はない。けれど、足元に黒い糸の円が描かれている。動けば糸が締まる仕組みなのだろう。彼の顔色は悪いが、背筋は伸びている。
彼がこちらを見た。
目が合う。
戻ります、と言った人が、まだ立っている。
それだけで、私は泣きそうになった。
でも泣かない。
今は証言する時間だ。
玉座には国王陛下が座っていた。王冠の裏から黒い影が滲んでいる。王冠だけではない。裁定室の壁、床、天井の縁に、見えない黒糸が巡っている。
部屋全体が黙罪布の内側だ。
大司祭グラシアンもいた。
白い法衣、金の聖印、穏やかな笑み。ミラー修道院で見つけた証拠のすべてが彼へつながっているのに、彼はまるで祈りの場にいるように落ち着いていた。
グラシアンはリュシーを見て微笑んだ。
「ミレーヌ。戻ってきなさい。迷える子羊よ」
リュシーの肩が震えた。
私は彼女の袖に触れた。
彼女は息を吸い、はっきり言った。
「私の名前はリュシー・アンベルです」
裁定室の空気がわずかに揺れた。
グラシアンの笑みが深くなる。
「神殿が授けた名を捨てるのですか」
「奪った名前を返してもらっただけです」
リュシーの声は震えていたが、逃げなかった。
国王陛下が手を上げる。
「静粛に。王立法衣院長ノア・アルヴェールは、赦罪帳簿と称する偽造文書を用い、王家と神殿を貶めようとした疑いがある」
偽造文書。
予想していた言葉だ。
それでも、怒りが胸に湧く。
「陛下」
バルテル副院長が進み出る。
「法衣院は正式な弁明手続きを求めます。また、赦罪帳簿原本は法衣院に保全され、第三複写および証人を本日持参しております」
「原本を持参しなかったのか」
「証拠隠滅防止規定に従いました」
国王陛下の目が細くなる。
グラシアンが穏やかに言った。
「証人とおっしゃいますが、そこにいるのは神殿を裏切った候補者、十年も地下にいた精神不安定な女、そして呪いの布をまとう令嬢です。どの証言が信頼に足るのでしょう」
リディアが担架の上で笑った。
「十年地下に閉じ込めた側が、それを信用できない理由にするのね。神殿の話術は相変わらず下手」
グラシアンの眉が一瞬だけ動く。
私は少し勇気をもらった。
ノア殿下が口を開く。
「陛下。私の罪とされている証拠捏造について、具体的な捏造箇所を示してください」
「黙れ」
国王陛下の声が響いた。
黒糸がノア殿下の足元で締まる。
私は思わず前に出た。
ノア殿下は視線だけで止める。
無理をするな、という目だった。
でも、私はもう保護されるだけではいられない。
「陛下」
私は言った。
「証拠捏造の罪を、ノア殿下に置くのは誤りです」
王の視線が私に向く。
重い。
前回よりも重い。
黙罪布が部屋全体に広がっているためだろう。膝が折れそうになる。
「ルシア・ベルネット。そなたは再び王前で呪術を用いる気か」
「私は証縫官見習いとして、見たものを証言します」
「その見習い任命も、ノアが勝手に行ったものだ」
「任命書は法衣院規定に基づき、副院長が確認しています」
自分でも驚くほど、事務的に返せた。
前世のクレーム対応で、怒鳴られている時ほど規定を読む技術は身についていたらしい。
グラシアンが微笑む。
「では、証言してみなさい。あなたの白い布が、ここでどれほど働くか」
挑発だ。
黙罪布の内側で発動させ、白証布を沈黙させるつもりなのだろう。
私は証言針を握った。
手が冷たい。
ドレスは反応しない。
黒い沈黙が、布の中まで染み込んでくる。
謝れば、赤い糸は出るかもしれない。
ノア殿下の罪ではないものを、私が引き受ければ。
でも、それは駄目だ。
私は彼を助けたい。
だからこそ、私が彼の罪を背負ってはいけない。
「私は」
声がかすれる。
「私は、ノア殿下が赦罪帳簿を偽造していないことを証言します」
透明な糸は出ない。
裁定室に冷たい笑みが広がる。
グラシアンが言った。
「何も起きませんね」
悔しい。
怖い。
でも、終わりではない。
母の手紙を思い出す。
証言は、自分が見た真実を縫う道。
私は、ノア殿下が偽造していないところを直接見たわけではない。見たのは、別のものだ。
見たものを言う。
私は息を吸い直した。
「私は、ミラー修道院の地下で赦罪帳簿を発見しました」
針先がかすかに光る。
「私は、そこに八つの糸車と、監禁されていたリディア・フォル様を見ました」
透明な糸が一筋、布の上に現れた。
「私は、神殿の黒糸が謝罪状の灰で作られていることを、黒糸から復元された四十二名の名で確認しました」
糸が伸びる。
黒い床の上に、薄い光の線が走った。
「私は、リュシー・アンベル様の本名布を見ました。ミレーヌ・ラザールという名が、神殿によって与えられた名であることを確認しました」
リュシーが本名布を掲げる。
リディアも青い布を掲げる。
マリエが九通の謝罪状を机に置く。
透明な糸は細い。
けれど、消えない。
グラシアンの笑みが薄くなる。
国王陛下の王冠から黒い影が濃くなった。
黒糸が透明な糸に絡みつく。
文字は浮かびかけて、消える。
私の体が冷える。
ノア殿下が声を上げた。
「ルシア嬢、無理をするな!」
私は彼を見る。
「殿下」
言葉が出る。
「私は、殿下に戻ってきてほしいと言いました」
裁定室には不適切な言葉かもしれない。
でも、私が見た真実だった。
「そして殿下は、戻ると言いました」
透明な糸が強く光る。
「だから、私は証言します。殿下は戻るために、ここで黙罪布に立ち向かっています」
黒い糸が震えた。
それは法的証言ではないのかもしれない。
けれど、私の言葉だった。
ノア殿下の足元の黒い円に、透明な亀裂が入った。
彼は一歩、円の外へ足を出した。
裁定室がざわめく。
グラシアンが叫んだ。
「黙罪布を強めなさい!」
王冠の裏から、黒い布が大きく広がった。
透明な糸が押し潰される。
その瞬間、裁定室の扉が開いた。
入ってきたのは、アイリスだった。
彼女は息を切らし、手に古い布包みを持っている。
「お姉様! これ、東倉庫の床下にまだあった!」
布包みが開かれる。
中には、母のもう一枚の白証布があった。
私のドレスより小さい、けれど純白の布。
そこに、母の文字が浮かぶ。
ルシアへ。王冠の沈黙には、一人で向かわないで。
白い布が、裁定室の黒を裂くように光った。




