第二十話 王冠の黒布
赦罪帳簿の引き渡し命令に対し、ノア殿下は拒否ではなく保留を返した。
法的には正しい。
王家機密に該当する可能性がある証拠は、王宮へ移す前に封印目録を作成し、複写を法衣院に残す必要がある。特に王族の生命に関わる事件では、証拠隠滅を防ぐため、単独機関への移管は禁止されている。
会議室でその説明を聞きながら、私は思った。
法律は、時にまどろっこしい。
けれど、正しく使えば、権力者の「今すぐ寄越せ」に対抗する細い糸になる。
「陛下は、保留を拒否するでしょうか」
私が尋ねると、ノア殿下は封印目録を書きながら答えた。
「可能性は高い。黙罪布の第八糸車の芯が王宮にあるなら、帳簿と照合される前に奪いたいはずです」
「王宮にある芯は、王冠の裏の布とは別ですか」
「おそらく。王冠の裏にあるのは一片。第八糸車の芯は、より大きな術式の中心です。王宮のどこかに縫い込まれている可能性がある」
「王宮全体が黙罪布に覆われることも?」
「最悪の場合は」
ノア殿下の声が重い。
王宮全体が罪を沈黙させる。
そうなれば、裁定室でどれほど白証布が真実を縫っても、王冠がそれをほどいてしまう。
ティナがドレスを補修しながら言った。
「黒い布を切るには、白い布を大きくすればいいんですか?」
「布同士の力比べなら、そうかもしれません」
マリエが答える。
「けれど白証布は、ただ大きければよいものではありません。濡れ衣を受け入れる者の心と、証言する者の言葉が必要です」
「つまり、ルシア様が大きな布を着ればいいわけではないんですね」
「それをやったら、ルシア嬢が倒れます」
ノア殿下が即座に言った。
ティナはびくりとした。
「す、すみません」
「責めていません。危険案として却下しただけです」
ティナは私を見て、小さく笑った。
「ノア殿下、ルシア様のことになると却下が早いですね」
「証人保護です」
「はいはい」
ティナが珍しく雑な返事をした。
ノア殿下は少しだけ眉をひそめたが、反論しなかった。
その空気が、ほんの少し温かい。
けれど、長くは続かなかった。
夜半、王宮から二度目の命令が届いた。
王立法衣院長ノア・アルヴェールは、赦罪帳簿を王宮へ持参し、国王陛下に直接説明せよ。
同行者は法務官二名まで。
ルシア・ベルネットの同行は禁止。
私は命令書を見て、胸が冷えた。
「分断する気です」
リュシーが言った。
彼女は医療室から会議室へ移り、リディアと共に証言整理をしていた。元聖女候補とは思えないほど、書類の扱いが速い。神殿で鍛えられたのだろう。
「ノア殿下だけ王宮へ呼んで、帳簿を奪う。ルシア様を残せば、白証布は使えない」
「しかし、王命を無視すれば反逆の口実になります」
ノア殿下は冷静だった。
冷静すぎて、逆に怖い。
「行くのですか」
私の声は少し掠れた。
「行きます」
「危険です」
「はい」
「殿下がいつも私に言うことです」
「そうですね」
「では、私にも同行を」
「禁止されています」
「法的に対抗できませんか」
「できますが、時間がかかる。その間に、陛下は法衣院への強制査察を命じる可能性がある」
私は唇を噛んだ。
分かっている。
ノア殿下は、法衣院全体を守るために行く。
でも、胸の奥がざわつく。
行かないでください、と言いたい。
それは職務上の判断ではない。私個人の不安だ。
言っていいのだろうか。
助けてください、と書く練習はした。でも、行かないでください、はまだ練習していない。
ノア殿下は私を見た。
「ルシア嬢」
「はい」
「私は戻ります」
保証にはならない言葉だった。
それでも、彼は私を安心させようとしている。
「戻らなかった場合は?」
聞きたくないのに、聞いた。
ノア殿下は机の上に封筒を置いた。
「その場合の手順書です。法衣院の臨時指揮権は副院長へ。証拠の第二複写はマリエに。あなたの保護は近衛第二隊へ。証縫官見習いの任命は取り消されません」
「準備が良すぎます」
「職務です」
「その言葉、今日は嫌いです」
言ってから、私は驚いた。
ノア殿下は静かに私を見ている。
私は目を逸らさなかった。
「私は、殿下に戻ってきてほしいです。法衣院長としてだけでなく」
最後の言葉は小さかった。
けれど、部屋の空気が変わった。
ティナが針を止め、マリエが視線を落とし、リュシーがわざとらしく帳簿をめくる。
ノア殿下は、少しだけ息を吐いた。
「戻ります。法衣院長としてだけでなく」
その答えで、胸が熱くなる。
けれど、安心しきることはできなかった。
翌朝、ノア殿下は赦罪帳簿の封印複写を持ち、王宮へ向かった。
本物の帳簿は法衣院地下の白糸庫に残した。王宮へ持参したのは、法的に有効な複写だ。けれど、黙罪布が相手なら複写でも狙うかもしれない。
私は法衣院の窓から馬車を見送った。
彼は振り返らなかった。
職務中だからだろう。
でも、馬車の窓の内側で、彼の手が一度だけ上がった。
それだけで、私は少し呼吸ができた。
正午過ぎ、王宮から速報が届いた。
王立法衣院長ノア・アルヴェール、王命違反および証拠捏造の疑いにより拘束。
赦罪帳簿複写、王宮にて没収。
法衣院は一時査察対象とする。
手紙を読んだ瞬間、私の手から紙が落ちた。
胸元のドレスが冷たくなる。
赤い糸が、震えながら一行を縫った。
黙罪布第八芯、王宮裁定室に起動。
ノア殿下が、王冠の黒布に捕らえられた。




