第十八話 五番目の名前
リディア・フォルは、歩くことができなかった。
十年の監禁で足腰が弱っている。近衛兵が担架を用意し、マリエが彼女の手を握った。リディアは軽口を叩いていたが、地上の光を見た瞬間、声を失った。
薬草園に出ると、春の風が吹いていた。
リディアは目を細め、涙をこぼした。
「空って、こんなに眩しかったのね」
ミレーヌ様はその横で立ち尽くしていた。
彼女はリディアに何度も何かを言おうとして、言葉を飲み込んでいる。
謝りたいのだろう。
でも、どの罪を謝ればいいのか分からない。自分も被害者で、同時に加害の仕組みに加わっていた。その混乱が、彼女の顔に出ていた。
リディアの方が先に言った。
「六番。あなた、泣き方が上手になった?」
ミレーヌ様は顔を歪めた。
「もう、そういうのやめて」
「なら、名前を思い出しなさい」
「知らないの」
「知ってるわ。忘れさせられただけ」
リディアは細い指で、ミレーヌ様の袖飾りを指した。
「裏に六と刺してあるでしょう。一番から六番まで、候補には必ず本名布があった。神殿が奪った名前を、布に縫って保管する。名前を奪わないと、罪移しの器にならないから」
「本名布はどこに?」
「赦しの間の奥。八つの糸車の後ろに、黒い箱があったはず」
地下室の捜索は続いていた。
ヘルガ院長は拘束され、隠密司祭ラウルと共に馬車へ運ばれた。彼女は何も言わない。ただ、時折ミレーヌ様を見て、道具を見るような目をした。
その目に、私は怒りを覚えた。
ミレーヌ様がしたことは消えない。
けれど、彼女を道具にした人たちの罪も消えない。
地下室の奥から、法務官が黒い箱を運び出した。
箱には六つの小さな引き出しがあり、一番から六番まで番号が振られている。一番と二番の引き出しは空。三番と四番には焼け残った布片。五番には青い布。六番には白い布が入っていた。
リディアが青い布を見て、息を止めた。
「それ、私の」
布には、幼い字で名前が縫われていた。
リディア・フォル。
彼女はその布を胸に抱き、声を上げずに泣いた。
十年奪われていた名前が、手の中に戻った。
ミレーヌ様は六番の白い布を見つめている。
手を伸ばせない。
怖いのだろう。
名前を取り戻すことは、今までの自分が崩れることでもある。
「開けますか」
私が尋ねると、彼女は小さく首を振った。
「怖い」
「はい」
「本名を知ったら、ミレーヌじゃなくなるの?」
「ミレーヌとしてしたことも、あなたの一部です。でも、奪われた名前もあなたの一部だと思います」
「綺麗事」
「かもしれません」
「……一緒に見て」
「はい」
私は彼女の隣に立った。
ノア殿下は少し離れた場所で見守っている。ティナはハンカチを握りしめ、マリエは祈るように目を伏せていた。
ミレーヌ様は震える手で白い布を広げた。
そこには、淡い菫色の糸で名前が縫われていた。
リュシー・アンベル。
ミレーヌ様は、いえリュシーは、その文字をじっと見た。
「リュシー……」
口にした瞬間、彼女の瞳から涙が落ちた。
今度の涙に、白い光は出なかった。
ただの涙だった。
「私、リュシーだったの」
その声は幼かった。
彼女は布を抱きしめ、うずくまった。
私は彼女の背に手を置くべきか迷った。触れていいか尋ねる前に、リュシーが私の袖を掴んだ。
「ごめんなさい」
小さな声だった。
「ルシア様。毒のこと、罪を着せようとしたこと、泣いてあなたを悪者にしたこと。ごめんなさい。これは、私の罪」
白いドレスは動かなかった。
彼女自身の謝罪。
私はゆっくり息を吸った。
「謝罪を受け取ります」
リュシーは泣きながら頷いた。
「でも、受け取るだけです。罪は消えません」
「分かってる」
「あなたには証言してもらいます」
「分かってる」
「私も、あなたにされたことをすぐに許せるわけではありません」
「それも、分かってる」
リュシーは涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「あなた、本当に厳しい」
「練習中です」
リディアが担架の上で笑った。
「六番、いい友達を持ったわね」
「友達じゃないわ」
リュシーは即答した。
「じゃあ何?」
「……被害者で、証人で、私が謝る相手」
その答えに、私は少しだけ驚いた。
リュシーは、罪の置き場を考え始めている。
それは、彼女にとって初めての練習なのかもしれない。
地下室の捜索で、赦罪帳簿も見つかった。
分厚い黒革の帳簿には、貴族の名、寄進額、表向きの罪、代わりに謝罪状を書いた者の名が並んでいた。
その中に、十三年前の項目がある。
王妃エレナ、祝福の杯。寄進者欄は空白。代替謝罪者、四十二名。承認、神殿大司祭グラシアン。王家確認印、アルヴェール三世。
国王陛下の確認印。
ノア殿下はその頁を見たまま、長く黙った。
私は彼の横顔を見る。
姉を殺された弟としての怒り。王弟としての責任。法務院長としての冷静さ。その全てが、彼の中でぶつかっているように見えた。
「ノア殿下」
私が呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。
「私は大丈夫です」
嘘だと思った。
でも、それは彼が今、自分を立たせるために必要な言葉なのだろう。
「大丈夫でなくても、証拠はあります」
私は言った。
殿下は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「そうですね。法は、個人の大丈夫に頼るべきではない」
「でも、人は大丈夫でない時もあります」
「はい」
「その時は、温かいスープが必要です」
ノア殿下は、今度こそ少しだけ声を出して笑った。
「あなたに言われるとは」
「学習しました」
ミラー修道院の捜索は夕方まで続いた。
四十二通の謝罪状のうち、原本として残っていたものは十二通。黒糸から復元できた名が二十七。完全に欠けているものが三。
リディアの証言、リュシーの証言、父の証言、赦罪帳簿。
王妃毒殺事件は、もう「病死」とは呼べないところまで来ていた。
けれど、帰路につく前、私のドレスが新しい文字を縫った。
黙罪布本体、不完全。第八糸車の芯、王宮へ搬出済み。
王宮。
国王の王冠だけではない。
黙罪布の本体の一部が、すでに王宮にある。
ノア殿下は帳簿を閉じた。
「急いで戻ります」
王都の空は、夕焼けで赤かった。
その赤が、私のドレスの糸と同じ色に見えた。




