第十七話 八つの糸車
地下室の黒い糸車は、ただの道具ではなかった。
近づくと、耳の奥で声がした。
申し訳ございません。
私の不手際です。
私が悪うございました。
どうか家族だけは。
声は重なり合い、意味を失い、ただ謝罪の波として押し寄せる。私は思わず耳を押さえた。
ティナも青ざめ、マリエが彼女を支える。ミレーヌ様はその場に膝をついた。
「これ……毎晩聞いていた声……」
リディアのいる鉄格子を、近衛兵が開けようとする。しかし鍵穴に黒糸が詰まっていて、剣では切れない。
ノア殿下が封印札を貼るが、札は黒く染まって落ちた。
リディアは苦笑した。
「無駄よ。ここは謝罪で閉じられている。鍵を開けるには、誰かが私の罪を引き受ける必要がある」
「そんな仕組みを作るとは」
ノア殿下の声が冷える。
「神殿は、人の良心を鍵にしたのか」
私の口が動きそうになった。
ごめんなさい。私が――
でも、すぐに止めた。
ここで謝れば、私はリディアの監禁の罪を引き受ける。白証布は真犯人を縫うかもしれないが、同時に私の体温を奪う。八つの糸車の前でそれをすれば、どれほど消耗するか分からない。
母は言っていた。
自分を燃やさないで。
「謝らずに開ける方法を探します」
私は言った。
リディアは驚いた顔をした。
「あなた、白証布を着ているのに謝らないの?」
「練習中です」
「何それ」
彼女は笑った。
十年監禁されていた人の笑いとは思えないほど、少し明るい笑いだった。
「いいわ。練習を見せて」
私は証言針を取り出し、鉄格子を見る。
見えているものを証言する。
黒糸。鍵穴。鉄格子。リディア。八つの糸車。棚の謝罪状。
「私は、リディア・フォルが本人の罪ではなく、神殿の赦罪制度を隠すために十年監禁されているのを見ています」
透明な糸が走った。
しかし、鉄格子の前で弾かれる。
赤い文字が浮かぶ。
証言不足。監禁開始時の証人が必要。
「監禁開始時の証人……」
リディアが言った。
「ヘルガよ。院長。あの女が私をここに入れた」
階段の方で音がした。
振り返ると、ヘルガ院長が立っていた。手には黒い糸巻き。穏やかな笑みは消え、顔は石のように硬い。
「リディア。あなたはまだ余計なことを言うのですね」
「十年ぶりに客が来たのよ。話したくもなるわ」
リディアの軽口に、ヘルガの目が冷える。
「王弟殿下。ここで見たものは、神殿機密です。今なら、聖域の誤侵入として処理できます」
「できません」
ノア殿下は即答した。
「監禁、証拠隠滅、王妃毒殺への関与。これらを誤侵入で処理することは不可能です」
「王家も神殿も、真実を望んでいません」
「私は望んでいます」
「あなた一人が望んでも、国は動きません」
「一人ではありません」
ノア殿下は私を見た。
私は頷いた。
怖い。でも、立つ。
ヘルガは黒い糸巻きを床に落とした。
糸が広がり、八つの糸車が一斉に回り始める。
地下室に謝罪の声が満ちた。
ごめんなさい。
申し訳ありません。
私がしました。
私が悪いのです。
声は耳ではなく、心に入り込む。
私は立っていられなくなりそうだった。今すぐ謝れば楽になる。何かを引き受ければ、この声から逃れられる。
ミレーヌ様が叫んだ。
「やめて!」
ヘルガは冷たく言う。
「六番、あなたは戻りなさい。あなたにはまだ使い道があります」
「私の名前はミレーヌじゃないかもしれない。でも、六番なんかじゃない!」
ミレーヌ様が立ち上がった。
その姿は、広場で泣いていた聖女候補ではなかった。自分の名前を取り返そうとする少女だった。
「ルシア様、証言して!」
「でも、監禁開始時の証人が」
「私が見た! 夢だと思っていたけど、見たの!」
ミレーヌ様は鉄格子を指さした。
「子どもの頃、あの扉の前にいた。ヘルガ院長が五番を中に入れて、泣くなと言った。泣くのは外で練習する時だけだって。私は見た!」
ドレスが熱を持つ。
私は証言針を白い布に当てた。
「私は、ミレーヌ・ラザールが、リディア・フォル監禁開始時の目撃を証言したことを聞きました」
透明な糸が走る。
今度は鉄格子に弾かれない。糸は鍵穴に入り、黒糸をほどいていく。
赤い文字が浮かぶ。
監禁命令者、ヘルガ。承認者、大司祭グラシアン。目的、五番目候補の本名保持記憶の隔離。
鍵が落ちた。
近衛兵が扉を開け、リディアを支える。
ヘルガが黒糸を振り上げた。
「白証布を燃やしなさい!」
八つの糸車から黒い糸が伸び、私へ向かってくる。
ノア殿下が前に出る。近衛兵も剣を構える。しかし糸は人を避け、私のドレスだけを狙う。
白い布と黒い布。
真実を縫うものと、罪を沈黙させるもの。
黒糸が胸元に触れた瞬間、私は冷たい闇の中に落ちたような感覚に襲われた。
声が聞こえる。
謝りなさい。
あなたが悪いと言いなさい。
そうすれば楽になる。
私は、前世の深夜の事務所にいた。
電話が鳴っている。画面には未処理の苦情。上司の机には「対応よろしく」の付箋。私は受話器を取り、いつもの言葉を言う。
申し訳ございません。
その瞬間、誰かが私の手を握った。
ノア殿下ではない。
母だった。
記憶の中の母が、私の手に銀の針を持たせている。
ルシア。謝る前に、見たことを言いなさい。
私は目を開けた。
黒糸がドレスに絡んでいる。ノア殿下が私の名を呼んでいる。ティナが泣いている。ミレーヌ様がヘルガに向かって叫んでいる。
私は証言針を握った。
「私は」
声が出る。
「私は、黒糸が私に謝罪を強制しているのを見ています」
透明な糸が針先から爆ぜた。
「私は、八つの糸車が四十二通の謝罪状を燃やして作られた黙罪糸であることを証言します」
黒糸が震える。
「私は、ここにある謝罪が、本来の罪人のものではないと証言します!」
透明な糸が地下室全体に広がった。
棚の紙束が一斉に開く。
燃やされたはずの謝罪状の灰が、黒糸の中から文字として浮かび上がる。
四十二人の名前。
四十二の押しつけられた罪。
そして、本来の罪人たち。
黒い糸車の回転が止まった。
ヘルガはその場に崩れ落ちた。
私の体から力が抜ける。
倒れる前に、ノア殿下が支えてくれた。
「三回までと言いました」
彼の声は怒っているようで、震えていた。
「今ので何回ですか」
「数え方によっては一回です」
「詭弁です」
「法務院長に言われると、重いですね」
私は笑おうとして、失敗した。
でも、地下室にはもう謝罪の声が響いていなかった。
代わりに、四十二人の名前が白い光で浮かんでいた。
消された人たちが、少しずつ戻ってくる。




