第十五話 馬車の中の前世
ミラー修道院へ向かう道は、春の花で明るかった。
王都を出ると、石畳は土の道に変わる。畑には若い麦が揺れ、遠くの丘には羊が点のように散っていた。こんなに穏やかな景色の先に、罪を吸う黒い布があるとは思えない。
馬車は二台だった。
一台目にノア殿下、私、マリエ。二台目にミレーヌ様、ティナ、女性法務官。近衛兵は前後を騎馬で固めている。
私は窓の外を見ながら、母の針箱を膝に置いていた。
ノア殿下は向かいで書類を読んでいる。移動中でも仕事をする人らしい。マリエは目を閉じているが、眠ってはいないだろう。
「ルシア嬢」
ノア殿下が書類から顔を上げた。
「体調は」
「大丈夫です」
「寒気は」
「ありません」
「朝食は」
「食べました」
「量は」
「殿下は医師ですか」
「証人保護の一部です」
私は少し笑った。
ノア殿下の質問は細かい。けれど、その細かさが嫌ではなくなっている。誰かが私の体調を、迷惑かどうかではなく、私自身の問題として気にしてくれることに、まだ慣れない。
沈黙が少し続いた後、私は言った。
「殿下」
「はい」
「私は、変なことを話すかもしれません」
ノア殿下は書類を閉じた。
「聞きます」
「信じられないかもしれません」
「白いドレスが罪状を縫うところを見た後です。信じられないことの範囲は広がっています」
その言い方に、少し緊張がほどけた。
私は前世のことを話した。
日本という国があったこと。私はそこで会社員だったこと。クレーム対応の窓口で働いていたこと。電話越しに怒鳴られ、毎日謝っていたこと。自分のせいではないことに頭を下げ続け、最後には何に謝っているのか分からなくなったこと。
死んだ、とは言いにくかった。
けれど、ノア殿下は急かさなかった。
「目を覚ましたら、ルシアでした」
話し終えると、馬車の音だけがしばらく響いた。
ノア殿下はすぐに感想を言わなかった。
彼は考えていた。
信じるかどうかではなく、私の言葉をどこに置くかを考えている顔だった。
「あなたの謝罪癖は、この人生だけで作られたものではないのですね」
最初に言ったのは、それだった。
私は驚いて顔を上げた。
「信じるのですか」
「私が理解できるかどうかと、あなたが経験した苦痛を否定するかどうかは別です」
胸が詰まった。
前世の話をすれば、夢だと思われるか、頭がおかしいと思われるか、神秘的な力として利用されるか。そのどれかだと思っていた。
でもノア殿下は、私の苦痛をまず見た。
「その世界では、謝罪はどのように扱われていましたか」
「多くの場合、場を収めるための言葉でした。責任の所在を曖昧にしたまま、とりあえず謝る。謝った人が悪い人に見えるのに、謝らない人はもっと悪く見える。だから、謝るしかなくなります」
「この国の赦罪制度と似ています」
「はい」
私は窓の外を見た。
「だから、ミレーヌ様の涙も、父の沈黙も、王家の婚約も、どこかで見たことがある気がするのです。形は違っても、誰かに罪を置く仕組みは似ています」
ノア殿下は静かに聞いていた。
マリエも目を閉じたまま、ほんの少し眉を寄せている。
「私は、前世では最後まで謝ることをやめられませんでした」
声が小さくなる。
「この世界でも、同じことを繰り返していました。でも母の布が、無理やり止めてくれた。だから、これはやり直しなのかもしれません」
「やり直し」
「はい。今度こそ、自分の罪ではないものを返すための」
ノア殿下は少し考え、それから言った。
「では、私はあなたのやり直しを、法的に支援します」
あまりにも彼らしい言い方だった。
私は笑ってしまった。
「法的に、ですか」
「情緒的な支援も必要なら努力しますが、経験不足です」
「殿下は時々、真面目に変なことを言います」
「よく言われます」
言われるのだ。
その事実がおかしくて、私はまた少し笑った。
馬車の中の空気が和らいだ。
マリエが目を開け、静かに言った。
「奥様も、ノア殿下と似たことをおっしゃっていました」
「母が?」
「はい。感情だけでは罪は戻らない。けれど感情を見ない法は、人を殺す、と」
母の言葉は、いつも私の知らない私を支えてくれる。
その時、馬車が急に止まった。
外で近衛兵の声が上がる。
「倒木です!」
ノア殿下が即座に窓を開けた。
道の前方に、大きな木が倒れている。自然に倒れたにしては、切り口が新しい。
罠だ。
そう思った瞬間、後ろの馬車からティナの悲鳴が聞こえた。
私たちが飛び出すと、二台目の馬車の側面に黒い糸が絡みついていた。糸は車輪を縛り、扉を内側から閉ざしている。
ミレーヌ様の声がする。
「開かない! 何なの、これ!」
黒い糸は、まるで生きているように馬車を締め上げていく。
ノア殿下が剣を抜いた。法務官が封印札を投げる。しかし黒糸は切れてもすぐに結び直す。
私のドレスが熱を持った。
黙罪糸の下位術式。対象、六番目の候補。目的、証言者処分。
ミレーヌ様を殺す気だ。
私は証言針を取り出した。
「ルシア嬢、発動は慎重に!」
ノア殿下の声が飛ぶ。
分かっている。
これは謝罪ではない。証言だ。
私は黒い糸を見た。馬車の扉を縛る糸。窓から伸びるティナの手。中で泣き叫ぶミレーヌ様。
「私は、黒い糸がミレーヌ・ラザールを処分しようとしているのを見ています」
透明な糸が走る。
「術式の目的は、証言の封殺です」
透明な糸が黒糸に絡む。
赤い文字が空中に浮かんだ。
術者、神殿隠密司祭ラウル。潜伏位置、倒木右奥の茂み。
近衛兵が即座に動いた。
茂みから黒衣の男が飛び出し、逃げようとする。兵が取り押さえると、黒糸の力が弱まった。
ノア殿下が剣で糸を断ち、馬車の扉を開ける。
中からティナが飛び出し、続いてミレーヌ様がよろめきながら降りた。
ミレーヌ様は震えていた。
「本当に、殺す気だったのね」
その声は、小さかった。
私は何も言えなかった。
神殿は、彼女を聖女候補として使い、不要になれば処分する。
その事実が、黒糸よりも冷たかった。
捕らえられた隠密司祭ラウルは、口の中に仕込んだ毒を噛もうとした。しかしマリエが素早く顎を押さえ、近衛兵が毒袋を取り出した。
「昔、王妃様の周囲で同じ手を見ました」
マリエの声は震えていなかった。
ラウルの袖から、小さな黒い布片が落ちる。
私のドレスが縫う。
黒糸支給元、ミラー修道院。保管者、大司祭グラシアン。
目的地は変わらない。
むしろ、急がなければならない。
ミレーヌ様は黒い布片を見つめていた。
「ルシア様」
「はい」
「わたくし、神殿を裏切るわ」
彼女は震えたまま、はっきり言った。
「いいえ、違う。神殿が先にわたくしを捨てた。だから、わたくしは自分の名前を取り返す」
白いドレスの裾に、透明な文字が浮かんだ。
証言者追加。六番目の候補、意思確認。
ミレーヌ様はそれを見て、泣きそうに笑った。
「初めて、わたくしの意思なんて確認されたわ」
その言葉に、胸が痛んだ。
馬車は修理され、倒木はどけられた。
私たちは再びミラー修道院へ向かった。
穏やかな春の道は、もう穏やかには見えなかった。




