第十四話 赦罪帳簿
父の証言によって、ミラー修道院の名は正式な捜査対象になった。
けれど、神殿は当然のように抗議した。
王立法衣院が聖域を侵す権限はない。聖女候補への扱いは信仰への侮辱である。大司祭グラシアンの名を出すことは、王国と神殿の関係を損なう。
抗議状は一晩で十二通届いた。
私はそれを見て、少しだけ前世を思い出した。
上司が判断を先送りするために送る確認メール。責任部署を曖昧にするための長い文面。問題の中身より、誰の管轄かを争う会議。
世界が変わっても、人は似たことをするらしい。
法衣院の会議室で、ノア殿下は抗議状を一枚ずつ分類していた。
「これは法的拘束力なし。これは神殿法を拡大解釈している。これは脅迫に近い。これは文章が下手です」
「最後の分類は必要ですか」
「必要です。悪文は責任の所在を隠します」
妙に真剣な顔だったので、私は笑いをこらえた。
ティナは隣で証拠布の補修をしている。私の白いドレスは、毎日のように新しい文字を縫うため、糸の張りが少し変わってきたらしい。ティナは「布にも休みが必要です」と言い、私に一時間ごとに温かいお茶を飲ませた。
マリエは九通の謝罪状を年代順に並べていた。
その指先は、かつて王妃に仕えた侍女のものだった。年を取っても正確で、紙の角をそろえる動作に品がある。
「赦罪帳簿があれば、四十二通の残りを追えます」
マリエが言った。
「神殿は、寄進と謝罪状を必ず対応させて記録していました。誰の罪を誰に移したか、それを管理しなければ、同じ罪を二重に売ってしまうからです」
「罪を売る……」
言葉にすると、さらにおぞましい。
ノア殿下は机に地図を広げた。
「ミラー修道院は王都北東、馬車で半日。表向きは貴族女性の静養施設です。ですが、過去十年で入所者の死亡率が高すぎる」
「死亡率?」
「病死、衰弱死、事故死。記録だけ見れば不運な施設ですが、謝罪状を書かされた者が流された先だと考えると意味が変わる」
私は紙束を見た。
四十二人。
そのうち何人が、生きているのだろう。
「私も行きます」
そう言うと、ノア殿下は予想していたように眉を寄せた。
「危険です」
「はい」
「神殿はあなたを最優先で狙うでしょう」
「はい」
「体調も万全ではない」
「はい」
「それでも行くと」
「はい」
ノア殿下は溜息をついた。
「説得が雑になっています」
「殿下の反対理由も毎回似ています」
ティナが針を落としそうになった。
マリエは小さく咳をして笑いを隠している。
ノア殿下は少しだけ困った顔をした。
「あなたは、私の心配を軽く見ています」
「軽くは見ていません。むしろ、とても重いです」
言ってから、私は自分の言葉に気づいた。
ノア殿下も黙った。
重い。
その言い方は、職務上の心配だけではないものを含んでしまったかもしれない。
私は慌てて書類に目を落とした。
「ええと、証縫官見習いとして、現地でしか確認できないものがあると思います。ミレーヌ様の本名、四十二通の謝罪状、黙罪布の本体。それに、母の手紙にも“赦しの間”とありました」
ノア殿下はしばらく私を見ていたが、やがて地図に視線を戻した。
「分かりました。ただし条件があります」
「はい」
「単独行動は禁止。発動は一日三回まで。体温低下が出たら即撤退。食事を抜かない。寝不足で証言針を使わない。神殿関係者から飲食物を受け取らない。自分の罪ではないことで謝らない」
「最後だけ、他より難しいです」
「だから条件に入れました」
私はうなずいた。
条件は多い。でも、それは私を縛るためではなく、私が自分を削りすぎないための線引きだと分かる。
その時、医療室から使いが来た。
ミレーヌ様が話したいという。
彼女は昨日より少し顔色が戻っていた。寝台の上で上体を起こし、手には薄い布を握っている。
「ミラー修道院へ行くのでしょう」
「はい」
「なら、これを持っていって」
差し出された布は、聖女候補の袖飾りだった。白い絹に金糸で聖印が縫われている。けれど裏側には、黒い糸で小さな番号が刺されていた。
六。
「これは?」
「わたくしの番号。神殿では、名前より番号が大事だった。わたくしは六番目の赦しの聖女候補」
六番目。
SeedのF6を思い出す。偶然ではない。物語の糸は、こちらが思うより深くつながっている。
「一番から五番は?」
ミレーヌ様は目を逸らした。
「知らない。そう教えられた。でも、夜に泣き声を聞いたことがある。名前を返して、と叫ぶ声。赦しの間の奥から」
私は袖飾りを受け取った。
「あなたも一緒に行きますか」
ミレーヌ様は驚いた顔をした。
「正気?」
「本名を探すなら、本人がいた方がいいと思いました」
「わたくしは容疑者よ」
「護送という形なら可能かもしれません」
「神殿に戻ったら殺されるかもしれないわ」
「だから、法衣院の保護下で」
ミレーヌ様はしばらく私を見ていた。
そして、顔を歪めた。
「あなた、本当に嫌い。わたくしに、逃げる理由をくれない」
「行きたくないなら、それも選択です」
「行くわよ」
彼女は即答した。
「自分の名前くらい、自分で取り返す」
その言葉は、聖女候補の台詞ではなかった。
名前を奪われた一人の少女の声だった。
医療室を出ると、私の袖飾りに赤い文字が浮かぶ。
六番目の候補。五番目は生存。所在、ミラー修道院地下。
生きている。
その一行だけで、行く理由は充分だった。
翌朝、私たちはミラー修道院へ向かうことになった。
同行者は、ノア殿下、私、ティナ、マリエ、法務官四名、近衛兵八名、そして護送扱いのミレーヌ様。
王都を出る前、私は法衣院の門で一度振り返った。
ここに来てから、まだ数日しか経っていない。
けれど、ここはもう私の逃げ場所ではなく、戻る場所になり始めていた。




