第十三話 父の沈黙
法務院地下の小裁定室は、父の怒鳴り声が響くには狭すぎる部屋だった。
石壁に囲まれ、窓はない。中央には机が一つ。向こう側にベルネット伯爵、私の父が座っている。手首に縄はないが、椅子の脚には逃走防止の魔法陣が刻まれていた。
父は私を見ても、最初は何も言わなかった。
顔色は悪い。けれど、威厳を保とうとして背筋を伸ばしている。幼い頃の私には大きな壁のように見えた人が、今はひどく疲れた男に見えた。
それでも、怖い。
恐怖は理屈では消えない。
ノア殿下が隣に立っている。私は証縫官見習いとして、灰色の前掛けをつけていた。
「ベルネット伯爵。十三年前、あなたはエレナ王妃に渡された祝福の杯を王宮へ運びましたか」
ノア殿下の問いに、父は口を閉ざした。
「黙秘ですか」
「私は何も知らん」
父の声は低い。
「王妃様の死は病だ。古い話を蒸し返し、王家と我が家を貶めるなど、法衣院は正気ではない」
「東倉庫の焼却を命じた理由は」
「古い物を処分しようとしただけだ」
私の袖口に赤い糸が走った。
虚偽。焼却対象は十三年前の運搬記録。
父の顔が引きつった。
「その呪いの布を私に向けるな!」
怒鳴り声に、体が跳ねた。
父はそれを見て、少しだけ勢いを取り戻した。
「ルシア。お前は何をしている。家の恥をさらし、父親を罪人にする気か」
来た。
私が一番恐れていた言葉だ。
父を罪人にする。
家を壊す。
娘として恩知らず。
何度も想像して、何度も胸の中で謝ってしまった言葉。
でも、ここは小裁定室だ。
私は証縫官見習いとして立っている。
「お父様を罪人にするのは、私ではありません。お父様が何をしたかです」
父の目が見開かれた。
「口答えをするな!」
昔なら、それで終わりだった。
私は謝り、父は怒鳴り、話は父の都合のいい場所へ戻る。
でも今日は違う。
「口答えではありません。証言の確認です」
声は震えた。
それでも言えた。
ノア殿下は何も口を挟まない。私が自分で言える限り、待ってくれている。
父は机を叩いた。
「お前の母が余計な物を残すからだ! あの女はいつも、布だの法だの正義だのと、家のためにならないことばかり考えていた!」
胸が熱くなる。
怒りだった。
母を悪く言われた怒り。
今までは、その怒りすら自分の中で謝罪に変えていた。父を怒らせてごめんなさい。母の話をしてごめんなさい。
でも、もう違う。
「母を侮辱しないでください」
父の動きが止まった。
私自身も驚くほど、はっきりした声だった。
「母は、王妃様の死の真実を守りました。私の針箱に証言を残しました。家のためにならないのではなく、お父様の罪を隠すためにならなかっただけです」
小裁定室に沈黙が落ちる。
父の顔が赤くなり、次に青くなった。
ノア殿下が静かに問いを戻す。
「ベルネット伯爵。祝福の杯を運んだことを認めますか」
父は歯を食いしばった。
「……命じられたのだ」
初めて、言葉が変わった。
「誰に」
「陛下だ」
赤い糸が動かない。
真実。
父は一度目を閉じ、堰が切れたように話し始めた。
「私は当時、まだ爵位を継いだばかりだった。ベルネット家は借金を抱え、領地の収穫も悪かった。陛下から直々に、王妃様の祝福の杯を神殿から王宮へ運ぶよう命じられた。名誉なことだと言われた。報酬も出た」
「毒だと知っていましたか」
「知らなかった!」
赤い糸は動かない。
少なくとも、その時は知らなかったのだ。
「では、王妃様の死後は」
父は口を閉じた。
赤い糸が机の上に走る。
王妃死亡後、ベルネット伯爵は杯に毒が含まれていた可能性を知った。
「なぜ告発しなかったのですか」
ノア殿下の声が低くなる。
父は笑った。
乾いた、苦い笑いだった。
「告発? 誰を? 国王陛下をか? 神殿をか? 爵位を継いだばかりの若造が、証拠もなく?」
「あなたの妻は証拠を残していた」
「あれは妻ではなく、王妃の亡霊だ!」
父は叫んだ。
「エレナは私の妻になっても、心は王妃に仕えていた。私がどれほど家を守ろうとしても、あの女は真実、真実と……! 真実で領民にパンが配れるのか? 正義で借金が消えるのか?」
私は父を見た。
初めて、父の弱さが見えた。
彼は悪人で、臆病者で、母を苦しめた人だ。
同時に、王家と神殿に使われた小さな貴族でもあった。
でも、それは免罪符ではない。
「お父様」
私は言った。
「怖かったのですね」
父の目が揺れた。
「私も怖いです。王家も、神殿も、お父様も怖い」
「ならば黙っていろ!」
「でも、黙っていた結果、母は死に、マリエは名前を奪われ、四十二人が謝罪状を書かされました。私も王家の傷を塞ぐ布として婚約させられました」
私は机に手を置いた。
「もう黙りません」
ドレスの胸元に透明な糸が走った。
証言成立。第二針。
父はその文字を見て、力なく椅子に沈んだ。
「……杯は神殿のミラー修道院で受け取った。大司祭グラシアンの署名があった。同行したのは、当時の神殿司祭オルドだ」
オルド。
広場で罪移しを行った司祭。
十三年前から関わっていた。
ノア殿下が書記に記録を取らせる。
「毒を混ぜた者は見ましたか」
「見ていない。ただ、杯の箱には黒い糸の封印があった。私はそれを切るなと言われた」
黒い糸。
黙罪布の糸だ。
父の証言はそこで止まった。
全てを話したわけではない。それでも、大きな一歩だった。
尋問が終わり、私たちが出ようとした時、父が低く言った。
「ルシア」
私は振り返った。
「お前は、私を許さないのか」
まただ。
許すか許さないかを、私に決めさせようとする。
私は母の二通目の言葉を思い出した。
どの距離で生きるかを決めなさい。
「今は、許しません」
父の顔がこわばる。
「ですが、証言したことは記録します。それが、お父様の次の行動になるなら」
私は扉を出た。
廊下で、足が少し震えた。
ノア殿下が支えようと手を伸ばし、途中で止める。
「触れても?」
その確認が、なぜか泣きそうなほどありがたかった。
「はい」
殿下の手が、私の肘を支えた。
「よく言いました」
「怖かったです」
「はい」
「でも、謝りませんでした」
「はい」
その繰り返しだけで、私は歩けた。




