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第9話 雨を売る村

男は石段をゆっくり上がってきた。


雨の中だというのに、動きに無駄がない。

傘を差す手元ひとつ取っても妙に整っていて、笑顔も穏やかすぎるくらい穏やかだった。


「初めまして」

男は軽く会釈する。

「村を案内していた透真くんから、お話は聞いています。外からのお客人だとか」

「お前は?」

朝日奈が一歩前に出た。


男はにこりと笑う。


「この村で商いをしている者です」

「商い?」

凪沙が聞き返す。


「ええ。この村の特産を、外へ運ぶ役目を担っています」

男はそう言って、祭壇のまわりを一瞥した。

「ありがたい恵みを、必要としている方々へ届ける仕事ですよ」


藤野は小さく眉をひそめる。


その言い方だけで、もう嫌な感じがした。

善意に似せた言葉を使っているのに、温度がどこか不自然だ。


「必要としている方々、ね」

灰薔薇が低く呟く。

「随分と耳障りのいい言い方だな」

男は気を悪くした様子もなく、灰薔薇の方へ視線を向けた。


「事実ですので」

「……」

「この村の“雨草”は、外ではなかなか手に入らない貴重な品です。薬にも、香にもなる。多くの人が恩恵を受けています」

「雨草?」

凪沙が首を傾げる。


男は近くの畑を示した。


そこには、背の低い青白い草が群生していた。

雨を吸って鈍く光るその葉は、たしかに普通の草とは少し違って見える。


「しずく様の恵みを受けて育つ特別な草です」

男はうっとりするように言った。

「この村が再び息を吹き返したのも、すべてはあの方のおかげ」


朝日奈の顔が曇る。


「……それで、その“おかげ”の本人は、ずっとああして泣いているのか」

「神さまの御心など、人には測れません」

男は穏やかに返した。

「ですが、しずく様の悲しみすら、この村を潤す尊い奇跡であることは確かです」


その言葉に、凪沙がはっきり眉を寄せる。


「悲しみを奇跡って呼ぶの、私はあんまり好きじゃないな」

男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。

けれど次の瞬間には、また何事もなかったように整えられていた。


「白崎さん、でしたか」

「え、なんで私の名前」

「学校から来た部活の皆さんがいると聞いておりましたので」

男はやわらかく答える。

「この村に興味を持ってくださるのは、ありがたいことです」


藤野はそこで引っかかった。


「……誰から聞いた?」


男は少しだけ目を細めたが、すぐにまた笑う。


「さあ。小さな村ですから、噂はすぐ広まるものですよ」


灰薔薇が鼻で笑った。


「便利な言い訳だな」

「疑い深い方だ」

「慎重と言ってもらいたいな」

「では、そういうことにしておきましょう」


男はあくまで穏やかだ。

だが、その穏やかさの奥にあるものが、しずくの涙よりよほど冷たく感じられた。


しずくは、そのあいだもほとんど表情を変えなかった。

まるで自分の話をされているのに、自分のことではないみたいに、ただ静かに雨の中に立っている。


透真が一歩前へ出る。


「……しずくを、ひとりにしないでください」

男が視線を落とす。


「透真くん」

声は柔らかい。

柔らかいのに、そこに温度はなかった。

「村のためを思うなら、口を挟まない方がいい」

透真の肩がびくっと震える。


朝日奈の目つきが変わる。


「今の言い方は感心しないな」

男はゆっくりと朝日奈へ向き直った。


「感心するかどうかは自由です」

「脅したように聞こえた」

「そう聞こえたのなら、あなたの受け取り方でしょう」

「貴様……」

朝日奈の指先で、小さく火花が散る。


凪沙がそっと朝日奈の袖を引いた。


「ヒナくん」

「……」

「今はまだ」


朝日奈は一度だけ深く息を吸い、それ以上は踏み込まなかった。

男はそれを見て、少しだけ目を細める。


「どうか、村の空気を乱さないでください」

そう言って、しずくの方へ穏やかな視線を向ける。

「この子は、皆に愛されているのですから」


藤野は、その言葉に違和感を覚えた。


愛されている。

そう言うなら、どうしてこの村には“しずくを笑わせたい”大人が一人もいないんだ。


「……行こう」

藤野が低く言った。


凪沙と朝日奈が振り向く。

灰薔薇はすでに祭壇から目を離していた。


「ここにいても、まともな話は聞けなさそうだ」

「そうだね」

凪沙も頷く。


四人は透真を連れて、祭壇から少し離れた村道へ戻った。


雨は変わらず降り続いている。

土の匂いも、濡れた草の匂いも濃いのに、空気は妙に乾いていた。


「……ねえ」

凪沙が小声で言う。

「さっきの人、絶対変だったよね」

「変というか、あからさまだ」

藤野が答える。

「村の繁栄を支える善人です、みたいな顔してたけど」

「“しずく様の悲しみも尊い”とか、意味わかんない」

凪沙が顔をしかめる。

「悲しんでる人に対して言うことじゃないでしょ」

「だが、村人は受け入れているようだった」

灰薔薇が言う。

「外から見れば異常でも、中にいる人間には利益がある」

「……利益」

朝日奈が低く繰り返す。


透真がうつむいたまま言った。


「雨草が採れると、村にお金が入るんです」

「やっぱりな」

藤野が言う。


透真は小さく頷く。


「昔は、うちの村ほんとに貧しくて。若い人もどんどん出ていったし、畑も何度もだめになって……」

「でも、しずくが来てから変わった」

凪沙が言う。

「うん。雨が降って、草が育って、村の人たちも助かった」

「だから、しずくちゃんが苦しんでるのを見ても、止められない」

朝日奈の声が少し硬くなる。


透真は返事をしなかった。

その沈黙が、何よりの答えだった。


少し歩くと、村の外れに小さな小屋が見えた。

透真が自分の家だと言うので、ひとまずそこで話を整理することになった。


中へ入ると、雨音が少し遠くなる。

古いが丁寧に片づけられた室内。

壁際には手品道具らしき小さな箱や、色あせたトランプが置かれていた。


「……それ」

凪沙が目を留める。

「手品、まだやってるの?」

透真は少しだけ気まずそうに笑った。


「たまに」

「しずくちゃんに見せたやつ?」

「うん」


朝日奈がその箱を見つめる。


「もう一度、笑わせられると思うかい」

透真は少し考えてから、首を横に振った。


「昔みたいには、難しいと思う」

「どうして」

「今のしずくは、笑い方を忘れてる気がするから」


部屋の空気が静まる。


その時、藤野がふと窓の外を見た。


小屋の裏手、雨の向こうに、何人かの村人が集まっている。

全員が塔の方を向き、静かに何かを祈っていた。


「……なあ」

藤野が言う。

「この村、雨を止めたくないんじゃないか」

透真が目を伏せる。


「うん」

小さく答える。

「たぶん、そう」


その言葉が、妙に重く落ちた。


朝日奈は黙ったまま拳を握っている。

凪沙は膝の上で指を組み、少し考え込むように視線を落とした。

灰薔薇だけが、窓の外を見ながらつまらなそうに呟く。


「泣いていれば価値がある、か」

「……」

「くだらない話だ」


藤野はその横顔をちらりと見た。


灰薔薇なりに、何か思うところはあるらしい。

それ以上は何も言わなかったが、その一言だけは、やけに本音っぽく聞こえた。


雨はまだ止まない。


しずくは祭壇の奥で泣き続けている。

村人たちはその涙に縋り、商人はそれを利用している。


そして今、この村そのものが、あの涙を必要としている。


朝日奈がゆっくり顔を上げた。


「……なら」

「?」

透真が見る。


朝日奈の目は、もう迷っていなかった。


「止めるべきは、雨だけじゃないな」


その言葉に、凪沙が小さく頷く。

藤野も、腕を組んだまま息をついた。


たぶん、ここから先はもう、ただの聞き込みじゃ済まない。


村の“祈り”の形そのものを壊さなきゃいけない。

そんな予感が、雨音の向こうで静かに膨らんでいた。


***


透真の家を出たあと、四人はしばらく村の中を歩き回った。


雨は相変わらず降り続いている。

強くも弱くもならず、ただ同じ調子で、村全体に薄い膜をかけるみたいに降っている。


屋根の軒先。

畑の畝。

石段の隙間。

どこもかしこも濡れているのに、村人たちはそれを当然みたいな顔で受け入れていた。


「ねえ、フジくん」

凪沙が小声で言う。

「この村の人たち、誰も傘さしてないね」

「……ああ」

藤野も気づいていた。


子どもも、大人も、年寄りも。

濡れることを嫌がる素振りすらない。

むしろ雨に打たれていることそのものが、祈りの一部になっているようだった。


灰薔薇が冷めた目でそれを眺める。


「信仰が生活に染みつくと、こうなる」

「詳しいんだね」

凪沙が言う。

「見れば分かる」

「灰薔薇くんのそういう“なんでも分かってます”みたいな顔、ちょっとずるい」

「光栄だな」

「褒めてないよ」

「分かっている」


朝日奈はそんな二人のやり取りを聞き流しながら、前を歩いていた。

珍しく声が少ない。


藤野はその横顔を一瞬だけ見た。


朝日奈が黙り込む時は、大抵ろくでもないことを考えている時か、怒っている時だ。

今回はたぶん、その両方だった。


村の奥へ進むと、少し開けた場所に出た。

古い井戸と、小さな祠。

その脇で、年配の女が濡れた布を絞っている。


凪沙が近づいて、やわらかく声をかけた。


「すみません、少し聞いてもいいですか?」

女は顔を上げる。

一瞬だけ警戒するような目をしたが、すぐにそれを消した。


「……よそ者さんかい」

「はい。しずくちゃんのことを、少し」

その名前が出た瞬間、女の表情がかすかに変わった。


「あの子は、ありがたい子だよ」

また同じだ。

誰に聞いても、最初に出てくるのはそればかり。


「この村に雨をもたらしてくれる」

「でも、ずっと泣いてますよね」

凪沙が静かに言う。


女は少しだけ口ごもった。


「……神さまの涙だからねえ」

「それ、本人はどう思ってるんでしょう」

「そんなことを考えるのは、傲慢だよ」


返ってきた声は強くはなかった。

でも、それ以上触れるなという線だけははっきり引かれていた。


朝日奈が口を開きかけた時、藤野が先に言う。


「しずくは、いつからこの村に?」

女は少し目を細めた。


「何年も前だよ。まだ小さかった」

「村の生まれじゃないんだな」

「……違う」


それだけ言って、女は布を絞る手に視線を戻した。

話は終わりだとでも言うように。


四人はその場を離れた。


「今の、やっぱり何か隠してたよね」

凪沙が小さく言う。

「完全に隠してたな」

藤野が答える。

「少なくとも、“どこから来たか”はこの村にとって都合の悪い話なんだろう」

「拾ってきたのか、押しつけられたのか、売られたのか」

灰薔薇が淡々と並べる。

「どれにせよ、今の村にとって重要なのは過去じゃない。“泣き続けること”だけだ」

「……」

朝日奈の指先で、小さく火花が散った。


凪沙がちらりと見る。


「ヒナくん」

「……分かってる」

朝日奈は短く答えた。

「まだ殴ってない」

「それ基準なの?」

藤野が呆れる。


しばらく歩いたあと、透真が小さな倉のような建物の前で立ち止まった。


「ここ」

「?」

「しずくが、前はここに住んでたんです」


雨の中に建つ、小さな木造の離れだった。

今は使われていないのか、戸は固く閉ざされ、窓も半分板で塞がれている。


「前は?」

凪沙が聞き返す。


透真は頷く。


「祭壇の奥に移される前」

「“神さまの使い”になってから、か」

藤野が言う。


透真は少しだけ唇を噛んだ。


「最初は、普通だったんです」

「普通?」

「泣いてばっかりいたけど、今みたいじゃなかった。ちゃんと喋ってたし、外にも出てたし……おれとも話してくれた」


透真は戸口の前を見つめた。

そこにまだ少女の影が残っているみたいに。


「家族を事故でなくしたって、誰かが言ってた」

その声は、もうほとんど独り言に近い。

「そのあと、この村に連れてこられて……ずっと泣いてて」

「それで雨が降るようになった」

朝日奈が言う。

「うん」


凪沙は少しだけ目を伏せた。


「悲しいから泣いてたのに、それを“恵み”だって言われたんだ」

誰に向けたでもない声だった。


藤野は黙っていた。

その構図が、やけに胸に引っかかった。


悲しみそのものが役に立ってしまった時、人はそれをやめさせられなくなる。

そんなの、間違ってるに決まってる。

でも“助かってしまった側”は、それを簡単に間違いと言えない。


そこが、この村の気持ち悪さだった。


灰薔薇が古びた戸に目を向ける。


「笑ったのは、その頃か」

透真が顔を上げる。

「……うん」

「手品で?」

「そう」


凪沙が少しだけ笑う。


「すごいじゃん」

「そんな大したもんじゃないよ」

透真は首を振る。

「でも、その時だけ本当に、しずくが……」

言いかけて、止まる。


雨音の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。


四人が同時に振り向く。


あの商人だった。


傘を差し、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。

雨粒は傘の縁を伝って落ちていくのに、その人だけは不思議と濡れて見えない。


「熱心ですね」

男はやわらかく言う。

「村の中を、ずいぶん丁寧に見て回っていらっしゃる」


透真の顔が強ばった。


朝日奈が一歩前へ出る。


「監視のつもりかい?」

「まさか」

男は笑う。

「歓迎しているんですよ。外の方に、我々の信仰を理解していただけるのは」

「理解する気はないな」

灰薔薇が言う。

「少なくとも、今のところは」


男はその言葉にも表情を崩さなかった。


「それは残念です」

「残念なら、あの子を祭壇から降ろせ」

朝日奈の声は、もうだいぶ低かった。

「雨の中で、あんなふうに立たせ続ける理由がどこにある」

「村のためですよ」

商人は即答した。

「そして、しずく様ご自身のためでもある」

「本人のため?」

凪沙がはっきり眉を寄せる。

「泣いてるのに?」

「悲しみには意味があります」

男は穏やかに言う。

「人は苦しみから目を背けたがる。ですが、しずく様はその尊さを知っておられる」

「尊さ?」

朝日奈が繰り返す。

その声音には、怒りが混じり始めていた。


商人は気づいていないふりをするように続ける。


「悲しみを受け入れることで、人は他者を生かすこともできるのです」


雨音が、ひどくうるさく聞こえた。


「……は?」

凪沙が小さく言う。


商人は笑みを崩さない。


「しずく様は、ただ泣いておられるのではありません。ご自身の悲しみを、村の恵みへと変えてくださっている」

「それを、あんたは“尊い”って言うのか」

朝日奈の声が低く落ちる。


「ええ」

男はためらいなく頷いた。

「誰かの痛みが、誰かを救う。そこに価値を見出すことの、何が間違っているのでしょう」


藤野は思わず奥歯を噛んだ。


言っていることの形だけ見れば、どこか綺麗に聞こえる。

だから余計に気持ちが悪い。


凪沙が一歩前へ出る。


「でも、それって、その子が“ずっと悲しいままでいていい”って話になるよね」

「必要とされる形で在ることは、幸福の一種ですよ」

男はやわらかく言った。

「しずく様は、この村で愛されている」

「愛されてるなら、泣くのをやめていいって誰か言えばいいだろ」

朝日奈が言う。

「笑ってもいいって。晴れてもいいって」


商人は、そこでほんの少しだけ朝日奈を見た。


その目だけが、一瞬冷たくなる。


「あなたは優しい」

穏やかな声だった。

「ですが、優しさだけで人は生きられません」

「……」

「この村は現に救われた。雨で作物が育ち、雨草が実り、人が飢えずに済んだ。それを奇跡と呼ばずに何と呼ぶのです?」


藤野が口を開く。


「なら、その奇跡で儲けてるのは誰だ」

商人の視線が、ゆっくり藤野へ向く。


「雨草を売ってるんだろ」

藤野は続けた。

「外へ運んで、金にしてる。村が助かってるだけじゃない。誰かが得してる」

「商いとはそういうものです」

男はさらりと答える。

「価値あるものを、必要な場所へ届ける」

「その“価値あるもの”の元が、ひとりの泣いてる子でも?」

「ええ」

男は、今度こそはっきりと笑った。

「だからこそ、価値があるのです」


空気が凍る。


凪沙の目が見開かれる。

透真が息を呑む。

灰薔薇は無言のまま、男を見下ろしていた。


そして朝日奈の指先で、ばちっ、と火花が散った。


「ヒナくん」

凪沙が小さく呼ぶ。


けれど朝日奈は男から目を逸らさなかった。


「泣いてる誰かを見て、価値があるなんて言うな」

声は静かだった。

静かなぶん、怒りがよく分かる。


商人は少しだけ首を傾げる。


「感情的ですね」

「感情的にもなるだろ」

朝日奈が言う。

「あんたは今、悲しんでる子に“そのままでいろ”って言ったんだ」

「違います。役目を果たしていると言ったのです」

「同じだ」


また火花が散る。


藤野は横目で朝日奈を見た。

怒っている。

かなり、まずいくらいに。


「ヒナくん」

今度は凪沙が少し強めに言う。


朝日奈は一度だけ深く息を吸った。

それでも、目の奥の熱は消えない。


商人はそんな朝日奈を見て、むしろ興味深そうに目を細めた。


「ずいぶんと、他人の涙に敏感なのですね」

その言い方に、藤野の眉がぴくりと動く。


朝日奈の表情も、一瞬だけ止まった。


「……何が言いたい」

「いえ」

商人はすぐにまた笑みに戻った。

「ただ、そういう方ほど、時に現実を壊してしまうことがある」


灰薔薇が低く鼻を鳴らす。


「綺麗事で脅すな。見苦しい」

「脅しではありませんよ」

商人は言う。

「この村は、ようやく安定したのです。しずく様が泣いてくださる限り、皆が生きられる」

「……」

「そこへ外から来た子どもたちが“かわいそうだからやめさせろ”と言う。それがどれだけ無責任か、お分かりになりますか?」


その瞬間、透真が顔を上げた。


「無責任なんかじゃない!」

声が裏返る。

それでも透真は一歩前へ出た。


「しずくは、好きで泣いてるんじゃない!」

商人の視線が、すっと透真へ落ちる。


「透真くん」

「村が助かるからって、あの子がずっと苦しいままでいいわけないだろ!」

透真の拳が震えていた。

「しずくは神さまなんかじゃない。ただの……」


言い終わる前に、商人が一歩近づいた。


それだけで、透真の声が止まる。


「村のためを思うなら、余計なことは口にしないことです」

静かな声だった。

怒鳴っていない。

なのに、その場の温度だけが下がった気がした。


朝日奈が透真の前に立つ。


「……それ以上言うな」

商人が目を細める。

「私に言っているのですか?」

朝日奈はまっすぐに商人を見返した。

「そうだ。それ以上、この子を怖がらせるな」


しばらく無言の睨み合いが続いた。


雨は止まない。

しずくのいた祭壇の方角から、遠く鈴の音みたいなものが聞こえる。


やがて商人は小さく息を吐いた。


「……まあ、今日はこれくらいにしておきましょう」

「は?」

凪沙が眉を寄せる。


「皆さんには、まだ村の尊さが見えていないようだ」

商人は傘を持ち直した。

「無理に分からせるつもりもありません。ただ――」


その笑みが、少しだけ深くなる。


「祭りの夜までは、どうかおとなしくしていてください」

「祭り?」

藤野が聞き返す。


商人は答えない。

ただ、会釈だけ残して踵を返す。


「おい」

朝日奈が呼ぶが、男は止まらなかった。


雨の向こうへ消えていく背中を見送りながら、凪沙が小さく言う。


「……絶対ろくでもない」

「今さらだな」

藤野が返す。


透真はまだ強張った顔のままだった。


「祭り、って」

「何だ」

透真は唇を噛む。


「雨乞いの儀式です」

答えたのは、いつの間にか近くに来ていた村の老人だった。


全員が振り向く。


老人は濡れた蓑を肩にかけ、静かにこちらを見ている。


「今夜、祈りの塔で執り行われる」

「それ、しずくちゃんが関わるの?」

凪沙が訊く。


老人は少しだけ首を傾けた。


「もちろんだ。あの子は神さまの使いだからな」

「具体的には何をするんだ」

藤野が言う。


老人は雨の降る空を見上げる。


「祈るのさ。村がこれからも恵みを失わぬように」

「しずくちゃんは?」

朝日奈の声は硬かった。


老人はその問いにだけ、ほんの少し沈黙した。


「……神さまの使いは、祈りの中心にいる」

それだけ言って、老人は去っていく。


残された四人と透真の間に、重い沈黙が落ちた。


灰薔薇が最初に口を開く。


「祭りの夜、か」

「嫌な予感しかしない」

藤野が言う。

「うん」

凪沙も頷く。

「絶対あの子に何かさせるつもりだよね」


朝日奈は雨の向こう、祈りの塔を見つめていた。


「……今夜だな」

その声は、決めてしまった人間の声だった。


透真がはっとする。


「行くの?」

「行く」

朝日奈は迷わず言った。

「しずくちゃんが何をさせられてるのか、ちゃんと見て――」

そこで一度、言葉を切る。


指先に、小さな火花が散った。


「必要なら、止める」


凪沙が静かに息を吐く。

藤野は腕を組み直した。

灰薔薇はつまらなそうに見えて、その目だけは冴えている。


雨降り村の夜が、もうすぐ来る。


そしてたぶん、その夜にこの村の本当の形が見えることになる。


***


透真の家へ戻る頃には、空はさらに暗くなっていた。


雨脚は変わらない。

ただ、昼間よりも音が近い。

屋根を打つ音も、地面を叩く音も、村全体が静かになったぶんだけ、やけにはっきり聞こえる。


小屋の中に入ると、透真が戸を閉めた。

外の雨音が少し遠くなる。


凪沙は濡れた髪を軽く払い、火の消えた囲炉裏のそばへ腰を下ろした。


「ねえ」

「……うん」

透真は向かいに座る。


凪沙の声はやわらかかった。


「しずくちゃんのこと、もう少し教えて」

「……」

「さっきの人の前じゃ、話しにくかったでしょ」


透真はしばらく黙っていた。

でも、やがて小さく頷く。


「しずくが村に来たのは……たぶん、五年くらい前」

「たぶん?」

藤野が聞き返す。


「はっきり知ってる人が、あんまりいないんです」

透真は言う。

「村の外れで倒れてたのを見つけたとか、山道で保護したとか、色んな話があって……」

「証言が曖昧だな」

灰薔薇が言った。

「拾った経緯をぼかしてる」

「うん」

透真は苦い顔で頷く。

「でも、しずくが来たばかりの頃は、まだ今みたいじゃなかった」


朝日奈が顔を上げる。


「どう違ったんだい」

「……泣いてはいたけど、ちゃんと人を見てた」

透真は言葉を探すように視線を落とした。

「今は、誰かと話してても、半分くらい遠くにいる感じだけど……昔は、もっと、ちゃんとここにいたんです」


その言い方が、妙に胸に残った。


「最初は村の人も、あの子をどう扱っていいか分からなかったんだと思う」

透真は続ける。

「でも、しずくが泣いた日に雨が降って、それが何日も続いて……その年、畑がすごくよく育った」

「それで“神の使い”になったのか」

藤野が言う。


透真は頷く。


「最初は“ありがたい子”くらいだった」

「……」

「でも、雨草がよく育って、外から人も来るようになって、それで……だんだん、しずくは“しずく様”になった」


凪沙が小さく眉を寄せる。


「最初から閉じ込められてたわけじゃないんだ」

「うん。最初はまだ、村の中を歩いたりしてた。おれとも話してくれたし」

「どんな子だった?」

凪沙が訊く。


透真は少しだけ笑う。

ほんの少しだけ、昔を思い出した顔になる。


「静かで、あんまり喋らなくて……でも、ちゃんと見てた」

「見てた?」

「たとえば、おれが変な顔したら、ちょっとだけ目が動くとか。花を見てる時だけ、ほんの少し近づくとか」

透真は言う。

「笑わなかったけど、全然何も感じてないわけじゃなかった」


朝日奈は黙って聞いていた。

いつもの勢いはない。

ただ、真剣に。


「手品を見せたのは?」

「何回か」

透真は答える。

「最初は全然反応なくて。でも、一回だけ……うまくいった日があった」


凪沙が身を乗り出す。


「どんなの?」

「すごいのじゃないよ」

透真は少し気恥ずかしそうに言う。

「古いトランプで、間から小さな花を出すやつ」

「ずいぶん素朴だな」

藤野が言う。

「うるさいな」

透真が少しだけむっとする。


そのやり取りに、凪沙がくすっと笑う。

空気が少しだけゆるむ。


「でも、その時」

透真の表情がまた静かになる。

「しずくが、ちょっとだけ笑ったんです」

「……」

「ほんとに、一瞬だけ。ふって」


朝日奈が小さく息を呑む。


「そしたら、雨が止んだ」

透真は窓の外を見る。

「雲が切れて、光が差して……村の人もすごく驚いてた」


藤野は腕を組んだまま考え込む。


「つまり、悲しみで雨が強くなって、笑えば止む」

「単純に言えば、そう」

凪沙が言う。

「でも今は、笑えないようになってるんだね」

「……うん」

透真は頷いた。


「どうして?」

朝日奈が聞く。


透真はその問いに、すぐには答えなかった。

代わりに、窓の外をぼんやり見つめる。


「村の人たちが、気づいたからだと思う」

「何に?」

「しずくが笑うと、雨が止むってことに」


部屋が静まる。


「それから、誰も笑わせようとしなくなった」

透真の声はひどく小さかった。

「“泣いててくれた方がありがたい”って、直接は言わなくても、みんなそういう顔になった」


凪沙が唇を引き結ぶ。


「ひどい」

「……」

「笑った方が怒られるって、分かったら」

透真は膝の上で拳を握った。

「しずくは、たぶん自分から笑わなくなった」


朝日奈の指先が、また小さく火花を散らした。


灰薔薇が壁にもたれたまま目を閉じる。


「泣くことを求められ、笑うことを禁じられたわけか」

「……」

「壊れるには十分だな」


その言い方は冷たかった。

でも、妙に事実だけを突いていた。


藤野は窓の外を見た。


村のあちこちに、提灯のような灯りが点り始めている。

祭りの準備だろう。

雨の中でも、それは着々と進んでいた。


「今夜の儀式」

藤野が言う。

「いつもやってるのか?」


透真は首を横に振った。


「大きいのは年に一回です」

「大きい?」

凪沙が聞き返す。


「収穫の前にやる、一番大事なやつ」

透真は答える。

「村の外からも人が来る。あの商人の人が、えらい人たちを連れてくることもある」

「見世物かよ」

朝日奈が低く言う。


透真は否定しなかった。


「今夜はたぶん、いつもより大きい」

「どうして分かる」

灰薔薇が目を開く。


「昼に見たんです」

透真が言う。

「祭壇の奥に、いつもはない飾りが運ばれてた。白い布と、大きい供物と……」

「“特別な儀式”ってわけだね」

凪沙が言う。


透真は小さく頷く。


「たぶん、もっと泣かせる」

その一言で、部屋の温度が下がった気がした。


朝日奈が顔を上げる。


「どういう意味だ」

「分からない。でも、祭りの前はいつもしずくの様子がおかしくなる」

透真の声が震える。

「村の人たちが、しずくの前でずっと祈って……あの商人の人が、何か話して……そのあと、もっと雨が強くなる」


藤野は眉をひそめた。


「感情を煽ってるのか」

「そうかもしれない」

透真は言う。

「しずく、昔はまだ泣き方にも波があった。でも今は、祭りの前になると、ずっと同じ顔で涙を流すんです」

「……」

「まるで、“そうしなきゃいけない”って思い出したみたいに」


凪沙は静かに息を吐いた。


「完全に役割になっちゃってるんだ」

「うん」


しばらく誰も喋らなかった。


雨音だけが続いている。

外では祭りの準備が進んでいる。

村は、今夜しずくをもっと神様にするつもりだ。


朝日奈が立ち上がった。


「行くぞ」

「え」

透真が顔を上げる。


「今夜の祭りを見る」

朝日奈の目は、もう決まっていた。

「何をするつもりなのか、ちゃんとこの目で確かめる」

「で、必要なら止める」

藤野が言う。


朝日奈は頷いた。


「うむ」

「ちょっと無計画だけど、まあそういうことだね」

凪沙が立ち上がる。


灰薔薇も壁から背を離した。


「祭りで何か起きるなら、その時が一番分かりやすい」

「来るのか」

藤野が見る。

「ここまで来たらな」


透真はそんな四人を見て、少しだけ迷うような顔をしたあと、小さく言った。


「……しずくを、連れ出せますか」

朝日奈が振り返る。


「できるかどうかじゃない」

静かな声だった。

「やるんだ」


その言葉に、透真は目を見開いた。

それから、何かをこらえるみたいにぎゅっと口を閉じる。


窓の外では、祈りの塔の方角に灯りが増えていく。


祭りの夜が来る。


たぶん、ここから先はもう引き返せない。

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