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第8話 神さまの涙

雨は好きだ。


地面を叩く音も、窓を曇らせる湿った空気も、晴れた日には照らされてしまうものを、全部ぼやけさせてくれる気がする。

汚いものも、嫌なことも、言葉にできない何かも。

雨が降っている間だけは、少しだけ世界の輪郭がやわらかくなる。

だから嫌いじゃない。


……けれど、いくら何でも降りすぎだ。


ベランダの手すりに寄りかかりながら、藤野はぼんやりと空を見上げた。

朝からずっと、灰色の雲が空を塞いでいる。

細かい雨粒は止む気配もなく、街全体を薄い膜みたいに包んでいた。

軒先から滴る雫も、水たまりを打つ波紋も、見飽きるほどずっと同じ調子だ。


藤野は片方の手袋を外した。

伸ばした指先に、冷たい雨が落ちる。


その雫は指をつたい、音もなく流れ落ちていく。

一粒、また一粒。


そうして雨に触れるのが、藤野は好きだった。

最初から形を持たないこの水だけは、触れても壊れない。

何も怯えず、何も拒まず、無防備なまま触れさせてくれる。


昼休み。


窓の外は、相変わらず白く煙っていた。


教室中に、雨の音が薄く染み込んでいる。

外は昼なのに暗く、蛍光灯の白さだけが妙に浮いて見えた。


「ずっと降ってるな……」


藤野が机に頬杖をついたまま、うんざりしたように呟く。


「ほんとだよね」

凪沙が窓の外を見ながら言った。

「梅雨にはまだ早いし…十日連続はさすがに異常じゃない?」

「異常だな!」


朝日奈が無駄に勢いよく頷く。


その瞬間、指先からバチッと火花が散った。


「痛っ」

「うわ」

「また?」


近くの席の女子があからさまに身を引く。

「朝日奈くん、最近ずっとバチバチいってない?」


凪沙が苦笑する。


「雨の日は特にひどいんだ!」

朝日奈はなぜか誇らしげだった。

「空気中の電気がオレを呼んでいるのかもしれん!」

「クラスメイトは避けてるけどな」

藤野がぼそっと言う。


実際、朝日奈の周囲だけ微妙に席の間隔が広い。

本人はあまり気にしていないようだが、ノートを受け取ろうとした男子が二人連続で軽く感電してからは、みんな少し慎重になっていた。


「ヒナくん、今日も絶好調だね」

凪沙がくすっと笑う。

「うむ! この雨と共に、オレの力も高まりつつある気がする!」

「それ、周りからしたら迷惑では」

「なに、心配いらん! オレは正義のためにしか使わない!」

「日常生活に支障出てる時点でだいぶ使ってるだろ」

藤野が言う。


放課後。


三人はちょうど帰り支度をしていたところだった。

そのとき、朝日奈が勢いよく立ち上がり、びしっと窓の外を指さした。


「よし! こんな時こそ自主的な人助けだ! 雨にも負けず、町内を見回り、困っている者を――」

「いや、まず帰りたいんだけど」

藤野が即座に言う。

「フジくん、顔がもう完全にやる気ない」

凪沙がくすっと笑う。

「む、何を言う! こういう日ほど見落とされる困りごとがあるかもしれないだろう!」

「それっぽいこと言ってるけど、単に暇なんだろ」

「否定はしない!」


朝日奈は妙に晴れやかな顔で言い切った。


結局、いつもの押しの強さに流される形で、三人は部室を出た。

灰薔薇は窓際の席からちらりとこちらを見ただけだったが、特に何も言わなかった。


廊下を抜け、昇降口で靴を履き替える。


外は相変わらずの雨だった。

細かい雨粒が、校庭も道路も、町の輪郭まで白くぼかしている。


「よし、行くぞ二人とも!」

朝日奈が勢いよく傘を開く。

その瞬間、ぱちっと小さな火花が散った。

「うわ、今の見た?」

「見た」

「ヒナくんの傘、危なそう」

「なに、問題ない! 多少の帯電はヒーローの証だ!」

「周りからしたらただの迷惑だろ…」

藤野が言う。


そんなやり取りをしながら、三人は校門へ向かった。


そして、門を出ようとしたところで、朝日奈がふと足を止めた。


「……む?」

「どうした」

藤野が顔を上げる。


校門の脇。

雨の中に、ひとりの少年が立っていた。


中学生くらいだろうか。

制服ではない私服姿で、髪も肩も雨に濡れている。

なのに、傘をさしていない。


ただじっと、校門のところで下を向いていた。


凪沙が最初に眉を寄せた。


「……あの子、傘ない」

「ほんとだ」

藤野も言う。


朝日奈は少しだけ目を見開いたあと、迷わずそちらへ歩き出した。


「君! どうしたんだい! そんなところで!」

少年はびくっと肩を揺らした。

でも逃げなかった。


三人が近づくと、少年は少しためらうように口を開く。


「……あなたたち、超常秘密結社××部ですか……?」

「む!よくわかったな!いかにも!」

朝日奈が胸を張る。

「この街の平和を守る、正義の秘密組織だ!」

「秘密組織がそんな校門の前で名乗るなよ」

藤野がぼそっと言う。


少年は濡れた前髪の奥から、三人を見た。


「やっぱり……」

「やっぱり?」

凪沙がやわらかく聞き返す。


少年は小さく頷く。


「駅前で、チラシをもらったんです」

「チラシ!」

朝日奈の顔がぱっと明るくなる。

「やはり地道な広報活動は無駄ではなかったのだな!」

「どうせヒナくんが配ってたやつでしょ」

凪沙が言う。

「うむ! 雨の日も風の日も、正義の種は蒔かねばならないからな!」

「だいぶ胡散臭い種だけど」

藤野が言った。


少年はそんな三人のやり取りを少しだけ不思議そうに見ていたが、やがてぽつりと続けた。


「……頼れる人たちなら」

その声は少し震えていた。

「傘をさしてない子を、見つけてくれるんじゃないかって思って」


一瞬、三人とも黙る。


凪沙が先に吹き出した。


「……ふふ」

「なんだい?」

朝日奈が目を丸くする。

「試されてたわけだね」

凪沙が笑いながら言う。

「“困ってる人にちゃんと気づくか”って」

「なるほど!」

朝日奈が力強く頷く。

「素晴らしい観察眼だ!」

「褒めるところそこ?」

藤野が呆れる。


けれど、少年の顔は笑っていなかった。


その目だけが、ずっと必死だった。


藤野はそのことに気づいて、少しだけ声を落とす。


「……とりあえず、ここじゃ話しにくいだろ」

「え」

「場所、移そうか」

凪沙もやわらかく言う。

「そのままだと風邪ひいちゃうし」

「あ……」

少年は一瞬戸惑ったあと、小さく頷いた。


朝日奈が勢いよく校舎の方を指す。


「よし! では我らのアジトへ案内しようではないか!」

「部室な」

藤野が訂正する。

「秘密結社っぽくていいでしょ」

凪沙が笑う。


少年はまだ少し緊張した顔のままだったが、それでも三人の後について歩き始めた。


雨に濡れた校門の向こうで、灰色の空がどこまでも重たく広がっている。


その雨音だけが、妙に静かに耳に残っていた。


***


部室に入ると、外の湿気が一気にまとわりついてきた。


少年は遠慮がちに入口の近くで立ち止まる。

濡れた上着から、ぽたり、と雫が床に落ちた。


「とりあえず座って」

凪沙が言う。

「タオルとかあったよね?」

「たしかこの辺に――」

藤野が棚を開ける。


朝日奈はすでに少年の正面に陣取っていた。


「それで! 依頼とはなんだい!? 困りごとか!? 事件か!? 陰謀か!?」

凪沙が朝日奈の肩を引く。

「ヒナくん、落ち着いて」

「む」


藤野は見つけたタオルを少年へ差し出した。


「使えよ」

「あ……ありがとう」

少年は少し驚いたように受け取る。


それから、ぎゅっとタオルを握りしめたまま、俯く。


しばらくして、意を決したように顔を上げた。


「……雨を、止めてほしいんです」


部屋の中が、一瞬だけ静まり返った。


「……雨?」

凪沙が聞き返す。

「それって、天気の?」

「はい」


朝日奈の顔が、ゆっくり真剣になる。


「詳しく聞こう」

その声だけが、さっきまでよりずっと静かだった。


少年は頷く。


「おれの村、山の向こうにある小さな村なんですけど……ずっと雨が降ってるんです」

「ずっとって、どれくらい?」

凪沙が訊く。

「……もう、何週間も」


藤野が眉をひそめた。


「何週間?」

「天気予報でも、そんな話は出てなかったはずだ」

「うちの村、山の奥で……外からあまり分からないんです」

少年は言う。

「もともと雨の多い場所ではあるけど、こんなのは変で……なのに、村の人たちは誰も止めようとしない」


「止めようとしない?」

朝日奈が目を細める。


少年は少しだけ唇を噛んだ。


「みんな……これは恵みの雨だって言うんです」

「恵み?」

藤野が呟く。


「“神さまの涙”だから、ありがたいものなんだって」


その言葉が、妙に耳に残った。


凪沙も少しだけ表情を曇らせる。


「……神さまの、涙」

「はい」


少年は拳を握った。


「でも違う」

その声だけが、今まででいちばん強かった。

「あれは、そんな綺麗なものじゃない」


部屋の空気が静かに張る。


雨音だけが、窓の外で途切れず鳴っていた。


「村には、“しずく”って呼ばれてる女の子がいるんです」

少年は言う。

「みんな、その子のことを神さまの使いだって言ってる」

「……」

「でもおれは知ってる。あの子は神さまなんかじゃない」


少年は顔を上げた。


その目は、必死だった。


「雨が降るのは、あの子が泣いてるからなんです」

「……!」

凪沙が息を呑む。


朝日奈は何も言わないまま、少年を見つめている。


「一度だけ、見たことがあるんです」

少年の声が少し震える。

「あの子が、笑った時。ほんの少しだけ、空が晴れた」


藤野は思わず窓の外を見た。

灰色の空。止まない雨。白く煙る校舎。


「だから」

少年は立ち上がりそうな勢いで身を乗り出す。


「お願いです」

その声はかすれていた。

「しずくの涙を、止めてあげてください」


長い沈黙が落ちた。


最初に口を開いたのは、朝日奈だった。


「……分かった」

少年がはっと顔を上げる。


朝日奈は、真っ直ぐに頷いた。


「その依頼、我々××部が引き受けよう!」

「おい、早い」

藤野がすぐに言う。

「まだ話全部聞いてないだろ」

「だが、困っている者がいるのは事実だ!」

「それはそうだけど」

「しかも女の子が泣いてるんだろう!? 放っておけるものか!」


凪沙が小さく笑う。


「ヒナくんらしい」

「うむ!」

「でも、私も行きたいかも」

凪沙は少年に向き直る。

「その村、ちょっと気になる」


藤野は少しだけ考え込んだ。


怪しい話だ。

出来すぎている。

神さま、涙、笑えば晴れる少女――まるで昔話みたいで、現実味が薄い。


けれど、だからこそ気味が悪い。


窓を打つ雨音が、なぜかさっきより重く聞こえた。


「……で」

藤野が低く言う。

「その村、どこにあるんだ」

少年の表情が少しだけ明るくなる。


「ここから電車とバスで、半日くらいです」

「遠いな」

「連休だし、ちょうどいいんじゃない?」

凪沙が言う。

「ちょっとした遠征って感じで」

「遠征って言うには湿っぽすぎる依頼だけどな」


その時だった。


「行くのか」

低い声がして、全員がそちらを見る。


部室の扉のそばで、灰薔薇が背を預けるようにして立っていた。


「灰薔薇くん?」

朝日奈が目を瞬く。


「教室の窓から、校門にいる貴様らが見えたので来てみれば――」


灰薔薇はつまらなそうに窓の外へ目を向けた。


「雨を止めてほしい、だの。神の涙、だの」

淡々とした口調だった。

「くだらない話だ」


少年の肩がびくっと揺れる。


藤野が小さく眉をひそめたが、灰薔薇は気にした様子もない。


「だが」

その視線だけが、わずかに鋭くなる。


「何週間も局地的に降り続く雨なんてものが本当にあるなら、少しは見てみる価値があるかもしれないな」


凪沙が目を丸くした。


「え、灰薔薇くんも来るの?」

「行くとは言っていない」

「言ってるようなもんだろ、それ」

藤野が言う。

「それで来なかったらびっくり」

凪沙が小さく笑う。


灰薔薇が露骨に顔をしかめた。


そのやり取りを、少年は少し呆然とした顔で見ていた。

たぶん、もっと得体の知れない秘密組織みたいなものを想像していたのだろう。


けれど朝日奈は、そんな空気ごと全部まとめて笑い飛ばすように立ち上がる。


「よし! 話は決まった!」

びしっと机を指す。

「××部、初の遠征任務だ! 神さまの涙を止めに行くぞ!!」


窓の外では、相変わらず雨が降っていた。


絶え間なく。

静かに。

まるで、どこか遠くで誰かがずっと泣いているみたいに。


***


少年の話を聞いたあと、××部はその依頼を引き受けることにした。


連休に入る初日。

朝から空は分厚い雲に覆われ、町の上には相変わらず細かな雨が落ち続けている。


駅のホームに立ちながら、藤野は小さく息をついた。


「ほんとに行くんだな」

「当たり前だ!」

朝日奈が胸を張る。

「泣いている少女がいるのだぞ!? 放っておけるものか!」

「うん、ちゃんと理由も調べないとね」

凪沙が傘をたたみながら言う。


依頼人の少年――名を透真というらしい――は、少し離れた場所で落ち着かなさそうに電車の到着を待っていた。

どこか、急かされるように何度も空を見上げている。


灰薔薇も来ていた。


「行くとは言っていない」とか何とか言っていたくせに、結局ホームの端で無言のまま立っている。

腕を組み、濡れた線路の先を見つめる横顔は相変わらず愛想がない。


「……来るんだ」

凪沙が横目で見る。

「見学だ」

灰薔薇は短く答えた。

「はいはい」

「お前、ほんと素直じゃないよな」

藤野がぼそっと言う。


灰薔薇は返事もしなかった。


やがて電車が滑り込んでくる。


雨粒に霞む車窓。

濡れた金属の匂い。

扉が開く音まで、どこか湿って聞こえた。


***


電車に揺られ、さらにローカル線へ乗り換え、最後は一時間に一本しか来ないような小さなバスに乗る。


街を離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていった。


背の高いビルは消え、住宅街はまばらになり、やがて山と田畑ばかりが窓の向こうに広がる。

それでも雨だけは途切れない。

ずっと、同じ調子で降り続いている。


「ほんとに止まないね」

凪沙が窓の外を見ながら呟く。

「村に近づくほどひどくなってる気がする」

「気のせいではないかもしれんな」

朝日奈が珍しく静かな声で言った。


藤野も同じことを感じていた。


雨そのものがおかしい、とはまだ言えない。

ただ、何かが重い。

空気に混じる湿気が、普通の雨の日よりずっと肌にまとわりつく。


藤野はバスの曇った窓に指先を近づけ、すぐに引っ込めた。

その癖を見ていたのか、凪沙がちらりと視線を向ける。


「フジくん、またそうやってすぐ手引っ込める」

「……なんでもない」

「なんか気になる?」

「……少しだけ」


灰薔薇は前の席で、透真にだけ聞こえるくらいの声で言った。


「本当にこの村だけなのか」

透真が振り向く。

「え?」

「何週間も雨が降り続いてるのが」

「……はい。山を越えた向こうは、こんなに降ってません」

「ふん」


灰薔薇はそれ以上何も言わなかったが、その目だけは少し鋭くなった。


バスを降りると、そこは小さな停留所だった。


屋根付きの待合所も古びていて、時刻表は端が雨でふやけている。

山の匂いが濃い。

土と草と湿った木の匂い。


「ここから少し歩きます」

透真が言った。


道は細く、舗装も途中から怪しくなる。

左右には濡れた木々が立ち並び、雨に煙る山道の奥へと続いている。


朝日奈が先頭でずんずん進もうとして、すぐに泥にはまった。


「ぬおっ!?」

「だっさ」

藤野が即座に言う。

「ヒナくん、テンションだけで先に行くから」

凪沙が笑う。

「む、山道は都会の歩道とは勝手が違うようだ……!」


透真はそんな三人を、少し不思議そうに見ていた。

けれど、その顔にほんの少しだけ緊張がほどけたような色が混じる。


灰薔薇だけは無言のまま歩き続ける。

雨の中でも姿勢は崩れず、ただ、目だけがあたりを観察していた。


山道を抜けると、村が見えた。


小さな村だった。


古い木造の家々が、坂に沿うように並んでいる。

田畑はどれも濡れ、屋根からは絶え間なく雨水が滴っていた。

遠くに、細く高い塔のようなものが見える。

村の中央あたりに立っているらしい。


「……」

凪沙が足を止める。


「静かだね」

その声は、いつもより少し小さい。


たしかに静かだった。

村人の姿はある。

畑を見ている者、軒先を掃いている者、桶を抱えて歩いている者。

だが、誰も大きな声を出さない。


ただ雨音だけが、村全体を均一に覆っている。


「なんか……」

藤野が低く呟く。

「変だな」


透真がちらりと振り向いた。


「……みんな、雨が好きなんです」

「好き?」

朝日奈が眉を上げる。

「はい。恵みだから」

透真はそう言ったきり、それ以上は続けなかった。


村人たちは、よそ者である彼らをちらちらと見る。

だがその視線に露骨な敵意はない。

むしろ、どこか妙に落ち着いていた。

“外の人間が来ても、この村の何かは変わらない”と知っているような、そんな目だった。


道の脇には、小さな供物台のようなものがいくつも置かれていた。

花、果物、米、酒。

雨に打たれながらも整えられている。


凪沙がそれを見て、小さく言う。


「……祀ってるんだ」

「何かを、だろうな」

藤野が答える。


村の奥へ進むにつれ、その気配は濃くなった。


祈りの言葉が書かれた布。

雨粒を受けるための器。

しめ縄の張られた細い道。


そして、村の中央。


石造りの祭壇の向こうに、それはあった。


細く、高い塔。

村人たちが“祈りの塔”と呼ぶ場所だと、透真が小さく教える。


塔の前に立った瞬間、朝日奈も凪沙も、灰薔薇も言葉を失った。


祭壇の奥。

雨の中に、ひとりの少女が立っていた。


白い衣のようなものをまとい、長い髪はびっしょり濡れて背中にはりついている。

小柄で、年は凪沙たちより少し下くらいに見えた。


けれど、その表情だけがひどく大人びていた。


いや、違う。

大人びているというより、感情の動かし方を忘れてしまった顔だった。


少女はじっと前を見ている。

瞬きすら少ない。

その頬を、雨とは別の雫がゆっくり伝っていた。


「……あの子が」

透真の声がかすれる。


「しずくです」


藤野は息を呑んだ。


少女は泣いていた。

声もなく。

ただ、当たり前みたいに涙を流し続けていた。


その足元には雨水が溜まり、小さな波紋が何重にも広がっている。

空から落ちる雨と、頬を伝う涙の区別がつかない。


凪沙が小さく眉を寄せる。


「……ずっと、あのまま?」

透真が頷く。

「うん」


朝日奈の表情から、いつもの明るさが少しだけ消える。


灰薔薇は祭壇のしめ縄を見上げ、それから少女へ視線を戻した。


「神の使い、か」

その呟きは冷たかった。

「随分と都合のいい偶像だな」


その時、近くにいた年配の村人が振り向いた。


「おや、よそ者か」

穏やかな声だった。

だが、その目はどこか濡れた石みたいに冷たい。


「しずく様に、あまり近づかない方がいい」

「どうして?」

凪沙が聞く。


村人は、祭壇の奥で泣き続ける少女を見て、静かに微笑んだ。


「神さまの涙だからですよ」


その言い方が、妙に自然で、妙に気味が悪かった。


藤野は無意識に手袋の上から自分の指を握る。


雨は止まない。


村全体が、その涙を歓迎しているみたいだった。


***


祭壇の前を離れてからも、誰もしばらく口を開かなかった。


雨音だけが、ざあざあと一定の調子で耳を打っている。

村の中を歩いていても、その音がまるでどこからでも降ってくるみたいで、方向感覚が鈍る。


やがて、村のはずれにある小さなあずまやまで来たところで、透真がようやく足を止めた。


「……ここなら、たぶん大丈夫です」


朝日奈が透真の顔をのぞき込む。


「大丈夫かい?」

「……うん」

透真はそう答えたが、顔色は少し青いままだった。


凪沙が、濡れたベンチを軽く払って座る。


「さっきの子が、しずくなんだよね」

「うん」

「“神さまの使い”って、村の人たちは本気でそう思ってるの?」

凪沙が訊く。


透真は少しだけ迷うように目を伏せた。


「……思ってる、というより」

絞り出すように言う。

「そう思いたいんだと思う」


藤野が壁にもたれて腕を組む。


「どういう意味だ」

透真は雨の向こうの村を見た。


「この辺り、昔から雨が少ない年があるんです」

「干ばつか」

灰薔薇が短く言う。

「……うん」


透真は頷いた。


「雨が降らないと、畑がだめになる。作物も育たないし、水も減るし、村はすぐ苦しくなる」

「それで、しずくの雨が“恵み”になったってこと?」

凪沙が言う。


「そう」

透真の声は重かった。

「しずくが来てから、ずっと雨が降るようになった。村の人たちは喜んだんだ。これで助かるって」


朝日奈が眉をひそめる。


「だが、助かるからって、あの子が泣いていることまで放っておいていい理由にはならないだろう」

「ヒナくん、それはたぶんこの村じゃ通じない」

凪沙が小さく言った。


透真はかすかに頷く。


「村のみんな、あの子の涙を見るたびに“ありがたい”って言うんです」

「……っ」

朝日奈の表情が曇る。


「しずくが悲しんでるほど、雨は強くなる。雨が降れば、村は豊かになる」

透真は唇を噛んだ。

「だから、誰もあの子に泣くのをやめてほしいなんて言わない」


藤野は黙ったまま、あずまやの柱についた雨の筋を見ていた。


「一度だけ」

透真がぽつりと言う。

「あの子が笑ったことがあったんです」


朝日奈たちが顔を上げる。


透真はほんの少しだけ、遠くを見るような目になった。


「昔、おれが手品を見せた時」

「手品?」

凪沙が聞き返す。


「うん。そんな大したのじゃないけど。コインを消したり、花を出したり……」

透真は少しだけ照れくさそうに言って、すぐまた表情を曇らせた。

「その時だけ、しずくが笑った」

「……」

「そしたら、雨が止んだんです。本当に、一瞬だけだけど。雲の切れ間から光が見えて」


朝日奈が静かに言う。


「だから君は、“涙を止めてほしい”と」

「うん」

透真は今度ははっきり頷いた。

「しずくは神さまなんかじゃない。ただの女の子なんです」


その言葉だけが、妙にまっすぐだった。


しばらく沈黙が落ちる。


やがて藤野が口を開いた。


「……で、その村の人間は、しずくをどこから連れてきた」

透真がはっとしたように顔を上げる。


「分からない」

「分からない?」

「しずく自身も、あまり話さないんです。昔のこと」

透真は言う。

「気づいた時にはもう、この村にいたから」


灰薔薇が鼻で笑う。


「都合が良すぎる」

「灰薔薇くん」

凪沙がたしなめるように言う。

「事実だ」

灰薔薇は淡々としていた。

「泣けば雨が降る少女。干ばつに苦しむ村。神の使いとして祀ることで利益を得る。出来すぎている」

「利益?」

朝日奈が目を向ける。


藤野も同じところに引っかかっていた。


「村の規模にしては、供物が多い」

藤野が言う。

「祭壇も、塔も、妙に金がかかってる」

凪沙が振り返る。

「あ……たしかに」

「誰かが“神格化”を後押ししてるってこと?」

「さあな」

藤野は短く返した。

「でも、村だけで自然にあそこまでなる感じはしない」


透真は不安そうに四人を見た。


「……助けられますか」

その声は小さかった。


朝日奈がすぐに答える。


「もちろんだ!」

「軽い」

藤野が即座に言う。

「でも、そういうとこ今は助かるかも」

凪沙が苦笑した。


朝日奈は透真の前にしゃがみ、まっすぐ目を見る。


「オレたちが、ちゃんと確かめる」

「……」

「しずくちゃんが本当に泣き続けたいのか、それとも泣かされているのか」

「……うん」

「だから君も、もう少しだけ待っていてくれ」


透真は小さく頷いた。


***


そのあと、四人は村を分かれて歩くことになった。


朝日奈と凪沙が人当たりよく聞き込みに回り、藤野と灰薔薇は村の中をざっと見て回る。

その分け方を提案したのは凪沙だった。


「ヒナくんと私は話聞く役ね」

「む、適材適所というやつだな!」

「フジくんと灰薔薇くんは……その、威圧感あるし」

「褒めてないだろ、それ」

藤野が言う。

「全然」

凪沙はにこっと笑った。


村の家々は、どこも古いが手入れはされていた。

軒先には見慣れない草や束ねた枝がいくつも吊るされ、家の前には雨を受ける甕が並んでいる。

村人たちはよそ者に警戒しつつも、露骨に拒絶はしなかった。


「しずく様のおかげで、今年も作物が育ちます」

年配の女は、そう言って穏やかに笑った。

「ありがたいことです」

「泣いてるのに?」

朝日奈が思わず聞く。

女は少しだけ不思議そうな顔をした。

「神さまの涙ですから」


また別の老人も、ほとんど同じことを言った。


「昔はこの村も苦しかった。だが今は違う。しずく様が来てから、村は守られている」

「……本人は幸せそうには見えなかったけど」

凪沙が静かに言う。

老人は少しだけ口を閉ざし、それから目を逸らした。


「神さまのことを、人のものさしで測るものではないよ」


その言い方に、凪沙は少しだけ眉を寄せた。


一方、藤野と灰薔薇は祭壇の周辺を見て回っていた。


「……どう思う」

藤野が低く訊く。

「気持ち悪い村だ」

灰薔薇は即答した。

「感想じゃなくて」

「感想以外も大差ない」


灰薔薇は雨に濡れた供物台を見た。


「信仰そのものが悪いとは言わん。だが、あれは信仰というより依存だ」

「……」

「しかも全員が、どこまで本気で信じているのか分からない。救われたから縋っているのか、縋っているふりをして利益を守っているのか」

「両方だろうな」

藤野が言う。


祭壇の奥をもう一度見る。

しずくはまだ、雨の中に立っていた。


微動だにしない。

ただ、泣いている。


「近づくか」

藤野が言う。


灰薔薇は一瞬だけ目を細めた。


「触れるなよ」

「……分かってる」

「そういう意味じゃない」

灰薔薇は冷たく言った。

「この手の役割を背負わされた奴は、他人の言葉ひとつで簡単には壊れん」


藤野は返事をしなかった。


たしかに、しずくの顔には“助けて”という分かりやすい叫びはない。

むしろ、泣くことそのものがもう習慣になってしまったような、静かな諦めがあった。


その時、凪沙と朝日奈も戻ってきた。


「どう?」

凪沙が小声で聞く。

「ろくな話は聞けなかった」

藤野が言う。

「そっちもか?」

「うん。みんな“ありがたい”しか言わない」

凪沙は祭壇の方を見た。

「でも、誰も楽しそうじゃなかった」


朝日奈がしずくをまっすぐ見つめる。


「……行ってみよう」


四人は祭壇の石段を上がった。

雨が石を濡らし、足元は少し滑りやすい。


近づくにつれて、しずくの姿がはっきり見える。


濡れた睫毛。

色のない唇。

頬を伝う、絶えない涙。


朝日奈が少しかがんで、できるだけやわらかい声を出した。


「こんにちは」

しずくの睫毛が、ほんの少しだけ揺れる。


凪沙も隣でしゃがみ込んだ。


「私たち、ちょっとお話ししに来たの」

「……」

「しずくちゃん、で合ってる?」

少女はゆっくりとこちらを見た。


その目は、思ったよりずっと澄んでいた。

ただ、澄みすぎていて、どこか空っぽにも見えた。


やがて、小さく口が開く。


「……そう呼ばれています」


その声は、驚くほど静かだった。

雨音に紛れそうなほど小さい。


朝日奈が目を丸くする。


「呼ばれています?」

「はい」

しずくは答える。

「みんな、そう呼ぶので」


凪沙がほんの少しだけ表情を曇らせた。


「……あなたは、なんて呼ばれたいの?」

しずくは答えなかった。


代わりに、またひとすじ、涙が頬を伝う。


「雨は、嫌い?」

凪沙がさらに訊く。


しずくは少しだけ首を傾けた。

その仕草は、人の質問の意味を確かめる子どもみたいだった。


「……分かりません」

「分からない?」

「泣いていれば、みんな喜ぶから」

しずくは静かに言った。

「だから、これでいいんだと思います」


その言葉に、朝日奈の顔色が変わる。


藤野も思わず息を止めた。


これは“泣かされている”というより、もっと厄介だ。

泣くことが、役割として身体の中に入り込んでしまっている。


凪沙だけが、表情を崩さなかった。


「それ、本当に“あなたがそうしたい”こと?」

しずくの瞳が、初めてほんの少しだけ揺れた。


「……そう、しなきゃ」

「誰がそう言ったの?」

「……」

「しずくちゃん」


凪沙の声は、やわらかかった。


しずくの唇がわずかに動く。

けれど、その時だった。


「そこまでにしていただけますか」


背後から、あまりにも穏やかな声がした。


四人が振り向く。


石段の下に、傘を差した男が立っていた。

――その後ろには、透真の姿もあった。


年齢は三十前後だろうか。

男は上等そうなスーツに身を包み、口元には人のよさそうな笑みを浮かべている。

雨の中でも靴ひとつ汚れていないのが、かえって不自然だった。


「しずく様は繊細なお方です」

男はにこやかに言う。

「あまり、心を乱すようなことを吹き込まれては困る」


その笑顔を見た瞬間、藤野の背中に薄い悪寒が走った。


灰薔薇が、わずかに目を細める。


雨は、まだ止まない。

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