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第5話 灰色の来訪者

藤野はゆるやかな坂を歩いて下っていた。


頬を撫でる風はまだ少し冷たい。

けれど、見慣れたこの道の先に広がる景色は、季節が巡ってもあまり変わらない。


遠くにそびえる、無数の煙突。

空へ突き刺さるように伸びた灰色の塔の群れ。

その足元には、巨大な工場群が街の端から端までを埋め尽くしている。


灰黒重工。


この街に住む人間なら、誰もが一度はその名前を口にしたことがある。

この街の経済の中心であり、生活の中心であり、ある意味では街そのものと言ってもいい存在だ。


道路も、電気も、水道も、建設も。

表に見えるものから見えないものまで、街のあちこちに灰黒重工の影がある。

市民の多くは、直接か間接かの違いこそあれ、あの企業に関わって生きている。


だからこそ、こんな噂も生まれるのだろう。


――灰黒重工の地下では、人間を使った超能力の研究が行われている。

――工場に連れ込まれた子どもが、そのまま戻ってこないことがある。


もちろん、そんな話に証拠はない。

表向きは、どれも根拠のない都市伝説として片づけられている。


藤野は視線を前へ戻した。


……まあ、どうでもいい。


自分には関係のない話だ。

少なくとも、そう思うことにしていた。


校門が見えてくる。


教室へ向かう途中で、ふと先日のことを思い出した。


猫目影道。

シャドウさまだの何だのと名乗っていた、隣のクラスの男子。


あの件のあと、依頼主の証言もあって、××部の働きは無事に御堂生徒会長に認められた。

そして正式に、部活動の立ち上げが許可された。

おかげで「仮」だった部活も、ようやくちゃんとした部として動き始めている。


……動き始めている、はずなのだが。


「見たまえ藤野くん!!」


朝から聞き慣れた大声が廊下に響いた。


「我らが超常秘密結社××部の新たなるチラシだ!!」


教室の前で、朝日奈が胸を張っていた。

その両手には、色とりどりのペンでやたら派手に飾られた紙が何枚も握られている。


『困っている人はいませんか!?』

『超常秘密結社××部、活動中!!』

『相談者求ム!!』


「……朝からうるさい」

藤野が眉をひそめる。


「なにを言う! 正式な部になった以上、広報活動は必要不可欠だ!」


「おはよ、ヒナくん。フジくん」

凪沙がくすっと笑いながら顔を出す。


「おお!凪沙くん!!おはよう!!」

「……おはよう」


最近、凪沙は朝日奈のことを「ヒナくん」、藤野のことを「フジくん」と呼ぶようになった。

彼女なりの、もっと仲良くなりたい相手との距離の縮め方らしい。

朝日奈は初めそのあだ名を、少し大げさなくらい喜んでいた。


凪沙は以前より、自然に笑うことが増えたと思う。


別に、藤野はそれを意識していたわけじゃない。

ただ、気づけば目に入るだけだ。

朝日奈の騒がしさに肩を揺らして笑う顔とか、誰かと話す時に少しやわらかくなる目元とか。

そういう何気ない変化が、いつの間にか気になるようになっていた。


「凪沙くん! その笑顔、実に素晴らしい! ぜひチラシ配り担当を――」

「やだ」

「即答!?」


朝日奈が大げさに肩を落とす。


その時だった。


「あーっ!! 朝日奈!!」


廊下の向こうから教師の怒鳴り声が飛んでくる。


見ると、朝日奈が勝手に壁やロッカーにチラシを貼りまくっていたらしい。


「校内にベタベタ貼るなって何回言えば分かるんだ!!」

「む!? これも正当な広報活動の一環で――」

「言い訳するな! 全部剥がせ!!」

「そんな!?」


朝日奈が連行されていくのを見て、凪沙が吹き出した。


「ふふっ……やっぱり怒られた」

「そりゃそうだろ」

藤野も呆れたように息をつく。


正式な部活になったとはいえ、新しい依頼がぽんぽん来るわけでもない。

掲示板は静かなままで、最近の放課後は少し手持ち無沙汰だった。


だから朝日奈は、なおさら張り切っているのかもしれない。


結局、チラシを全部剥がし終えたらしい朝日奈が、少ししょんぼりした顔で机に突っ伏していた。


「困ってる人がいないってことは、世界が平和な証拠だな……」

「その割に顔が死んでるけど」

藤野が言う。


「オレはもっとこう、正義の味方らしく忙しくあるべきなのだ!」

「平和なら暇なくらいでちょうどいいでしょ」

凪沙が笑う。


その時、教室の前方がふとざわついた。


「え、なに」

「転校生?」

「また?」


生徒たちの視線が一斉に廊下へ向く。


藤野もつられて顔を上げた。


教室の入り口に立っていたのは、ひとりの男子生徒だった。


無駄のない立ち姿に、きつめだが整った顔立ち。

制服の着こなしも隙がなく、そこにいるだけで周囲の空気が少し張るような、そんな妙な存在感があった。


癖のない髪、涼しげな目元。

左目の下には、妙に目を引くふたつの涙ボクロ。

鋭さのある顔立ちなのに、そこだけが不思議とやわらかい印象を残していた。


そして何より、明らかに「自分はここにいる連中とは違う」と言わんばかりの態度。


女子たちが小さくざわめく。


「え、めっちゃかっこよくない?」

「しかも育ちよさそう……」

「なんか雰囲気すご……」


その男子は、そんな視線に慣れているのか、まるで気にした様子もなかった。


教師が教壇の前に立ち、軽く咳払いをする。


「今日からこのクラスに新しい生徒が入る。自己紹介してくれ」


男子は一歩前へ出た。


「灰薔薇 燐だ」


それだけ言って、口を閉じる。


教師が少し困ったように眉を寄せた。


「……以上か?」

「それ以上、何を話せと?」


教室の空気が少し止まる。


ざわ、と小さな笑いが起こったが、灰薔薇は一切気にしない。


すると前の方の男子が、遠慮のない声で聞いた。


「なあ、お前んちってあの灰黒重工の関係なんだろ?」

「お父さん重役なんだって!」

「すげぇ!」

「やっぱ家、豪邸なの?」


興味津々の声が飛ぶ。


灰薔薇はその全部を、どこか面倒くさそうな目で見下ろした。


「ふん……庶民が気安く話しかけないでもらいたい」


わあ、と半ば引いたような笑い声が上がる。


明らかに傲慢だ。

人を見下した物言いも隠そうとしない。


なのに、不思議と下品には見えなかった。

育ちの良さがそうさせるのか、それとも単に自信があるだけなのか。


「うわ、感じ悪……」

凪沙が小さく呟く。

「すげえのが来たな」

藤野も眉をひそめた。


朝日奈はというと、チラシを剥がし疲れたのか、机に突っ伏し寝息を立てていた。


休み時間。


灰薔薇が教室を見回し、こちらへ歩いてきた。


「……あ?」


藤野が思わず顔をしかめる。


灰薔薇はまっすぐ、藤野たち三人の前で足を止めた。


「貴様らが××部か」


朝日奈がぱっと顔を上げる。


「そうだ!!」

勢いよく立ち上がり、そのまま灰薔薇の手をぶんぶん振る。

「オレが社長の朝日奈零だ! よろしくな!!」


「なにが社長だ」

藤野が即座に突っ込む。


朝日奈は構わず続ける。


「こちらが副社長の凪沙くん! そして平社員の藤野くんだ!」

「いつ決まったんだ……しかも平社員って」

「よろしく」

凪沙はとりあえずにこっと笑った。


灰薔薇はそのやり取りをしばらく無言で見ていたが、やがてふっと鼻で笑った。


「聞いたところ、お前たちは“超能力”で事件を解決しているとか」

「うむ! その通り!」

「俺も少し興味があってね」


その言い方に、藤野はわずかに眉を動かした。


灰薔薇は三人を見渡し、淡々と言う。


「お前たちの部活、俺も入れてくれないか?」


「……は?」

「えっ?」

「む!?」


まさかの言葉に、三人とも固まる。


入部希望。

よりにもよって、今この場で。

しかもこの男が。


藤野は真っ先に眉をひそめ、朝日奈の制服の袖を引いた。

少しだけ距離を取って、小声で囁く。


「……あいつ、怪しいよ」

「そうだろうか?」

朝日奈はきらきらした目のまま首をかしげる。


「いや、どう考えても怪しいだろ。あのスペックで、よりにもよって××部に目をつけることなんてあるか? 裏があるとしか思えない」

「うーん……私もどっちかっていうと反対かな」

凪沙も声を潜める。

「なんか、ちょっと苦手かも」


朝日奈は腕を組み、少しだけ考えるような顔をした。


「まあまあ、落ち着きたまえお二人とも!」

「落ち着いてるのはこっちだ」

「人助けに参加したい仲間を拒む理由なんてないだろう!」

「……あんな奴が、人の役に立ちたいようには見えないけどな」


藤野が視線を向けると、ちょうどその時、灰薔薇は近くで騒いでいた男子たちを冷めた目で見下ろしていた。

わずかに歪んだ口元に、露骨な軽蔑が浮かんでいる。


凪沙が小さく眉を寄せる。


「それに、“灰黒重工”の重役の息子さんらしいよ」

「……」

「私、あの企業なんかこわくて好きになれないんだよね」


その言葉に、朝日奈の表情がほんの一瞬だけ強張った。


「……朝日奈?」

藤野が訝しげに見る。


だが、朝日奈はすぐにいつもの笑顔に戻った。


「まあまあ! まずは体験入部ということにしようじゃないか!」

「聞いてたか?」

「聞いていたとも! そのうえでの判断だ!」


朝日奈はそう言って、灰薔薇の方へ向き直る。


「灰薔薇くん!」

「なんだ」

「君の入部希望、ひとまず体験という形で受け入れよう!」

「は?」

藤野が顔をしかめる。

「勝手に決めるなよ」

「いいだろう! 人は話してみなければ分からない!」

「…ま、ヒナくんらしいけど」

凪沙が小さく笑う。


灰薔薇はそんな三人を眺め、わずかに目を細めた。


その表情の意味を、この時の藤野にはまだ読み取れなかった。


***


その日の放課後。


正式な部として割り当てられたばかりの部室は、まだどこか借り物みたいな空気が残っていた。

古い机と椅子、隅に寄せられたロッカー、少し埃っぽい窓際。

けれど、朝日奈が勝手に持ち込んだポスターやら、意味のないメモやら、手描きの部員募集チラシやらのせいで、すでに妙な生活感が出始めている。


「さあ灰薔薇くん! そこに座りたまえ!」


朝日奈が得意げに椅子を引いた。


灰薔薇は部屋の中をひととおり見回してから、ふん、と鼻を鳴らす。


「随分と安っぽい部室だな」

「第一声がそれかよ」

藤野が呆れたように言う。

「いやあ、だが秘密結社のアジトとしては悪くないだろう!」

「どこがだよ……」


凪沙は窓際にもたれながら、そんな三人を眺めていた。


「で?」

灰薔薇がゆっくり腰を下ろす。

「体験入部とやらは、何をすればいい?」


「うむ! まずは自己紹介といこうじゃないか!」

朝日奈がびしっと指を立てる。

「それじゃあ灰薔薇くん、君のことを教えてくれたまえ」


灰薔薇は頬杖をつき、どこか退屈そうに目を細めた。


「聞いたところ、お前たちは“超能力”とやらで事件を解決しているんだろう?」

「その通り!」

「……なら、お前たちの方こそ、自分のことを先に話すべきじゃないのか」


凪沙が小さく肩をすくめる。


「心開く気あんまりないって感じだね」

「相手の情報を得たいなら、まずは自分の手の内を明かすのが筋だろう」


その物言いに、藤野はわずかに眉をひそめた。


たしかに理屈としては間違っていない。

だが、こいつの場合は理屈よりも、こちらを試している感じの方が強い。


「よしきた!」

朝日奈はなぜか嬉しそうに胸を張る。

「オレは朝日奈零! 見ての通り、電気を操る能力者だ!」


バチッ、と小さな火花が指先に散る。


灰薔薇の目が、ほんのわずかに細くなった。


「そして――」

朝日奈が続けようとした瞬間、藤野はじろりと睨みつけた。


水の能力のことは、まだ朝日奈以外には明かしていない。

余計な人間に知られたくない。

それは最初から、はっきり言ってある。


朝日奈はその視線を受けて、一瞬だけ言葉を止めた。


「――そして、こちらの二人はなんの能力もない一般人だ!」

「おい」

藤野が低く突っ込む。


灰薔薇はふっと笑った。


「超常秘密結社とやらを名乗っておいて、実際に能力者は三人中一人だけか。拍子抜けだな」

「別に、能力がなきゃ入っちゃいけないなんて決まりないし」

凪沙が言う。

「そういうあなたこそ、どうなの?」


灰薔薇は答えない。


その沈黙を、朝日奈がぐいぐい詰める。


「君も超能力者なのかい!?」

「……さあ、どうだろうな」

「そこを教えてくれたまえ! 気になるではないか!」

「はしゃぐな、朝日奈」

藤野が呆れる。


灰薔薇はしばらく三人を眺めていたが、やがてゆっくりと右手を掲げた。


すると。


ざあっ、と、どこからともなく灰色の塵が舞い上がった。


「!」

凪沙が目を見開く。


空気中に散った細かな灰が、灰薔薇の手のひらの上へ吸い寄せられるように集まっていく。

渦を巻き、漂い、ゆっくりと形を持った煙のようにその場に留まる。


窓から差し込む夕方の光の中で、その灰だけが妙に冷たく見えた。


「俺は“灰”を操れる」


静かな声だった。


だが、その一言だけで十分だった。


朝日奈の目が輝く。


「おおっ!!」

「うわ……」

凪沙が思わず漏らす。

「…陰湿な能力」

「き、貴様……!」


灰薔薇のこめかみにぴくりと青筋が浮いた。


藤野は目を細める。


ただ火花が散る、とか、物が浮く、とか、そういう分かりやすい派手さとは違う。

もっと静かで、もっと不穏だ。

近づきたくないものが、形になって目の前を漂っているみたいだった。


灰薔薇は手のひらの上で灰をくるりと回す。


それは生き物みたいに滑らかに動き、ふっと散ったかと思えばまた集まり、細く伸びて刃のような輪郭を作る。

かと思えば、次の瞬間には跡形もなく崩れて、ただの塵へと戻った。


「……なるほど」

藤野が低く呟く。

「ただ舞わせるだけじゃない、か」


灰薔薇はわずかに口元を歪めた。


「理解が早いな」

「見れば分かる」

「ふふ」

凪沙が少しだけ首をかしげる。

「なんか、本当に性格が能力に出てる感じ」

「だから貴様は一言多いんだ」

「褒めてるようには聞こえなかった?」

「全くな」


朝日奈はそんなやり取りも気にせず、むしろますます楽しそうだった。


「素晴らしい! いやあ、実に素晴らしいではないか灰薔薇くん!」

「……何がだ」

「電気と灰! 実に相反する感じがして良い!」

「感想が雑すぎるだろ」

藤野が突っ込む。


灰薔薇が手を下ろすと、集まっていた灰は音もなく散っていった。

細かな塵が夕陽の中できらめいて、やがて見えなくなる。


部室に、少しだけ静けさが戻る。


その静けさの中で、灰薔薇は朝日奈だけを見ていた。


「……で?」


「む?」

「それだけか。お前の“超能力”の披露は」


朝日奈はにっと笑う。


「言っただろう? 電気を操れる!」

「それは見た」

灰薔薇の声音は淡々としていた。

「だが、それだけじゃ分からない。どこまでやれる?」


空気が少しだけ変わる。


藤野が眉をひそめた。

ただの好奇心にしては、声の温度が違う。


朝日奈もそれを感じたのか、一瞬だけ笑みを止める。

けれどすぐに、いつもの調子に戻った。


「気になるのかい?」

「少しな」

「なら、実戦で確かめるのが一番だ!」

「おい」

藤野がすかさず口を挟む。

「また面倒なこと言い出したぞこいつ」

「いいじゃん、ちょっと面白そう」

凪沙が笑う。

「ヒナくんと灰薔薇くんが並ぶと余計うるさそうだけど」


灰薔薇はふっと鼻で笑った。


「……そうだな。見せてもらうよ、お前たちの“ヒーロー活動”とやらを」


その言い方に、藤野はまた小さく引っかかる。


入部したいと言うわりに、どこか他人事だ。

見学者のようでいて、観察者のようでもある。


朝日奈だけはそんな違和感など気にした様子もなく、大きく頷いた。


「よし! では本日の放課後活動、灰薔薇くんの体験入部も兼ねて出発だ!!」

「……勝手に話進めんなよ」

「いいではないか藤野くん! 新たな仲間との第一歩だ!」

「まだ仲間って決まったわけじゃないだろ」

「えー、フジくんって案外慎重だよね」

「案外は余計だ」


凪沙がくすっと笑う。


灰薔薇はそんな三人のやり取りを黙って見ていた。

その視線だけが、少し冷たかった。


***


部室を出た四人は、そのまま駅前の通りへ向かった。


正式な活動といっても、いつものように「困っている人がいないか見回る」くらいのものだ。

朝日奈はそれを本気で“ヒーロー活動”と呼んでいるし、凪沙も最近では半分呆れながら付き合っている。

藤野はというと、結局なんだかんだ離れられずにいるだけだった。


「見たまえ灰薔薇くん! これが我らの主な活動拠点だ!」

朝日奈が大仰に腕を広げる。

「駅前、商店街、公園、河川敷! この街の平和は我々が守っている!」

「守れてるならチラシはいらないだろ」

藤野がぼそっと言う。

「細かいことはいいのだ!」


灰薔薇はそんな朝日奈の隣を、興味があるのかないのか分からない顔で歩いていた。

視線だけが時折、街のあちこちではなく、朝日奈の横顔へ向いている。


その少し前を、藤野と凪沙が並んで歩く。


「ねえ、フジくんってさ」

「……何」

「そのメガネ、伊達なんでしょ」


藤野は思わず足を止めかけた。


「……は?」

「え、違った?」

凪沙が首をかしげる。


藤野がかけているのは、大きめの黒縁メガネだった。

少し野暮ったく見えるそれは、昔からずっと変えていない。

実際、つけていてもいなくても困ることはない。

視力そのものに問題があるわけじゃないからだ。


ただ、その方が都合が良かった。


黒縁のフレームは、顔立ちを少しだけぼやかす。

人の印象に残りにくくなる。

こちらを見た相手の視線が、目そのものではなくメガネに引っかかる。

そういう小さな“存在感の薄さ”が、藤野には必要だった。


目立たないこと。

誰の記憶にも深く残らないこと。

それは藤野にとって、昔から大事な防御だった。


「……まあ、別に」

「やっぱり」

凪沙が少しおもしろそうに笑う。

「なんで?」

「なんでもいいだろ」

「えー、気になるじゃん」

「気にするな」

「外したりしないの?」

「しない」

「みてみたいな」

「……別に見ても面白くないだろ」

「そうかな」


凪沙はちらりと藤野の横顔を見る。


「フジくんって、たぶんメガネない方が目立つ顔してるよ」

「は?」

「なんとなく」

「適当だな……」

「でも、そういうの隠したいタイプでしょ」

「……」


藤野は答えなかった。


凪沙もそれ以上は追及せず、ただ「ふーん」とだけ言って前を向く。


その空気に助けられることが、最近少し増えた。

凪沙は人の懐にずかずか踏み込んでくるようでいて、ぎりぎりのところで止まる。

軽く見えて、その実ちゃんと距離を見ている。


「でも」

凪沙が何気なく続ける。

「フジくん、今のままでも十分目立ってる時あるけどね」

「……どこが」

「たまに、すごい顔してる時ある」

「どんな顔だよ」

「こわい顔」

「失礼だな」

「ふふ」


凪沙が笑う。


その笑い声を、少し後ろから朝日奈の大きな声が追い抜いてきた。


「いやあ! 新しい部員が増えるというのは実に喜ばしいな! ××部はこれからもっと大きく――」

「ふん」


灰薔薇が、そこで小さく鼻を鳴らした。


朝日奈が顔を向ける。


「む?」

「随分と気楽なものだな、朝日奈くん」

「そうだろうか?」

「気楽すぎると言っている」


その声音は静かだった。

けれど、どこか棘が混じっている。


朝日奈は笑みを浮かべたまま首をかしげる。


「なにか気に障ったかい?」

「別に」


灰薔薇は少しだけ目を細めた。


「ただ、不思議なんだよ。貴様みたいな人間が、何も知らない顔でそうやって笑っていられるのがな」

「……なんのことかな?」


朝日奈の声色は変わらない。

だが、目からだけ、笑みが消えていた。


灰薔薇はそれを見逃さなかったように、口元をわずかに歪める。


「灰黒重工の名を聞いた時、顔色が変わっていた」

「……」

「知らないふりをするのは上手いらしい」


数歩先を歩いていた藤野は、後ろの空気が少し変わったことに気づいて振り返る。


朝日奈はまだ笑っていた。

いつもの、底抜けに明るい笑顔のまま。

なのに、その奥が妙に冷たい。


「……オレに後ろ暗い過去なんてないさ」


さらりとした口調だった。


灰薔薇はその返答を聞いても、特に驚いた様子はなかった。

むしろ最初から分かっていた答えを確認したみたいな顔で、視線を前へ戻す。


「……どうだか」


その短い言葉だけが、風の中に残る。


前を歩いていた凪沙が足を止めた。


「ねえ、なんか今――」

「おお! 見たまえ!」


朝日奈の声が、不自然なくらい明るく割り込んだ。


「困っているおばあさんがいるぞ! ヒーロー活動の時間だ!!」

「話そらしたな」

藤野が即座に言う。

「なんのことだ?」

「そういうとこだよ、ヒナくん」

凪沙が少しだけ笑う。


朝日奈は何事もなかったように駆け出していく。

その後ろ姿を、灰薔薇はほんのわずかに目を細めて見ていた。


藤野はその横顔に、さっきまでの傲慢さとは少し違うものを見た気がした。


試すような目だった。

観察する目。

そして、その奥にある、まだ名前のつかない何か。


「……やっぱり怪しい」

藤野がぼそっと言う。


凪沙も小さく頷く。


「うん。かなりね」


灰薔薇はそんな二人の視線を受けても、まるで意に介さなかった。


ただ静かに、朝日奈の背を追って歩き出す。


その足取りだけが、妙に迷いなく見えた。


***


朝日奈に半ば引きずられるようにして、四人は駅前から少し外れた通りへ入っていった。


商店街を抜け、住宅街を抜け、さらに人気の少ない道へ出る。

工場地帯に近づくにつれて、街の空気は少しずつ乾いていくようだった。

遠くでは、灰黒重工の煙突が相変わらず無言で煙を吐いている。


「今日も異常なし!」

朝日奈が両手を腰に当てて高らかに宣言する。

「平和だな! 実に喜ばしい!」

「その割には残念そうだけど」

凪沙が笑う。

「む……正義の味方としては複雑なのだ」

「知らないよ」


藤野は少し後ろを歩きながら、周囲へ目を配った。


放課後のこの時間帯、駅前ならまだ人通りも多い。

だがこの辺りまで来ると、急に世界が静かになる。

空き地、シャッターの下りた倉庫、閉鎖された事務所、古びた雑居ビル。

人目が減るぶん、妙なことが起きても気づかれにくい。


「なあ、もう少し人のいるとこ歩いた方がよくないか」

「む? だが、人の少ない場所ほど助けを必要とする者がいるかもしれないぞ!」

「その理屈で廃墟の方行くのやめろよ」

「廃墟?」

凪沙が顔を上げる。


朝日奈が誇らしげに指差した先に、古びたビルが見えた。


五階建てほどの雑居ビル。

壁面は煤け、ところどころコンクリートが剥がれている。

窓ガラスの割れた階もあり、入口には立入禁止のテープが半端に垂れ下がっていた。


「おお、実に怪しい!」

「怪しいっていうか普通に危ないだろ」

藤野が即答する。


灰薔薇はそのビルを見上げ、わずかに目を細めた。


「……人が寄りつかない場所、か」

「こういうところって、案外何かいるかもしれないよね」

凪沙が言う。

「なにそのホラーみたいな言い方」

「でも、誰か困ってたら嫌でしょ?」

「それはそうだけど……」


その時だった。


ガシャン、と、何か大きなものが落ちるような音がした。


四人の会話が止まる。


音は、廃ビルの中からだった。


「……今の」

凪沙が小さく呟く。

「聞こえたな」

藤野が眉をひそめる。


朝日奈はすでにきらりと目を光らせている。


「事件の予感!!」

「待て」

藤野が止めるより早く、朝日奈はビルの入口へ駆け出した。


「人命がかかっているかもしれん! 確認せねば!!」

「だからそういう時だけ判断早いんだよ……!」


仕方なく、三人も後を追う。


ビルの中は薄暗かった。

割れた窓から差し込む夕方の光が、埃っぽい床に斜めの筋を落としている。

空気はひどく淀み、鉄錆と湿気のにおいが鼻についた。


「うわ、埃っぽ……」

凪沙が軽く咳き込む。


朝日奈はそんなことも気にせず、前方を見据えていた。


「誰かいるのか!?」

その声が、がらんとした内部に反響する。


返事はない。


だが、確かに人の気配はあった。

奥の方で、複数の足音がばらばらと動く気配。


「ヒナくん、静かに」

凪沙が小声で言う。

「相手、逃げるかも」

「む、たしかに!」


急に声量を落とす朝日奈。


藤野は床を見た。

古びたフロアには、靴跡がいくつも残っている。

しかも一人分じゃない。


「……誰かいるな。しかも複数」

「やっぱり?」

凪沙が小さく言う。


灰薔薇は壁際に寄り、奥の暗がりを静かに見ていた。

その横顔には、妙に落ち着いた色がある。


「騒ぎの割に、助けを呼ぶ声はない」

「じゃあ何?」

凪沙が聞く。

「知らん」

灰薔薇は短く答えた。

「だが、普通ではないな」


その時、二階へ続く階段の方から、若い男の怒鳴り声が響いた。


「逃げんなって言ってんだろ!!」

続いて、何かが倒れる鈍い音。


朝日奈の目つきが変わる。


「行くぞ!」

「待っ――」

藤野の制止も聞かず、朝日奈は一気に階段を駆け上がった。


「だから早いっての……!」

藤野が舌打ちしながら後を追う。

凪沙もスカートを押さえつつ続き、灰薔薇は無言のまま最後尾についた。


二階へ上がると、廊下の先に男たちの姿が見えた。


三人ほどの若い男が、ひとりの少年を取り囲んでいる。

年は中学生くらいだろうか。

壁際に追い詰められ、顔をこわばらせていた。


「やめろ!!」


朝日奈が飛び出した瞬間、男たちが一斉に振り向く。


「は?」

「誰だよお前」


先頭の男が苛立ったように舌打ちする。

どうやら不良グループらしい。

廃ビルにたむろして、年下を脅して遊んでいたのだろう。


「弱い者いじめは良くない!」

朝日奈がびしっと指を突きつける。

「今すぐその子を解放したまえ!!」

「なにこいつ」

「ヒーローごっこ?」


男たちがげらげら笑う。


藤野はそのやり取りを見ながら、少年の顔を確認した。

青ざめてはいるが、大きな怪我はなさそうだ。


……なら、さっさと引き剥がして帰るだけだ。


そう判断しかけたところで、先頭の男が朝日奈に掴みかかろうとした。


次の瞬間。


バチッ!!


青白い火花が散り、男が悲鳴を上げる。


「ぎゃっ!?」

その腕を振り払うように、朝日奈が身体をひねる。

続けざまに、もう一人の足元へ小さな電撃が走った。


「うわっ!?」


男たちがたたらを踏む。


「なっ……今の……!?」

少年が目を見開く。


朝日奈は胸を張った。


「正義の味方を侮るな!」

「いや、余計なこと言うなよ」

藤野が呆れて言う。


凪沙が少年の方へ駆け寄る。


「大丈夫? 立てる?」

「う、うん……」

「じゃあこっち。離れよう」


少年の手を取るでもなく、肩を支えるでもなく、凪沙は自然に寄り添うように誘導する。

そのやり方が妙に上手くて、少年も素直に従った。


その様子を見て、藤野は一瞬だけ感心した。


灰薔薇は少し離れた位置で、その全部を黙って見ていた。


男たちは完全に怯えたらしく、捨て台詞もそこそこに逃げていく。


「く、くそっ、覚えてろ!」

「そういうの、逃げる側の台詞じゃないだろ」

藤野がぼそっと返す。


「ふっ、正義の前に悪は退いたか」

朝日奈が満足げに言う。


その時だった。


上の階から、何かが倒れるような大きな音が響いた。


ガンッ、と鈍い衝撃音。

続けて、慌ただしい足音がばたばたと走る。


「……上か」

藤野が低く言う。


どうやら、このビルは不良のたまり場ってだけじゃないらしい。


凪沙も表情を引き締めた。


「まだ誰かいるね」

「うむ!」


朝日奈は即座に階段の方へ顔を向けた。


「オレが灰薔薇くんと上へ行く!」

「は?」

藤野が眉をひそめる。


朝日奈は振り返り、少年を見た。


「藤野くんと凪沙くんは、その子を連れて別ルートから外へ回ってくれ。戻ったら支援を頼む!さっきから怯えているし、このまま連れ回すのは危険だ」

「……」

「灰薔薇くんはオレと来たまえ。能力者同士の方が、何かあっても動きやすいだろう」

「それで構わない」

灰薔薇はあっさり頷いた。


その指示は咄嗟に見えて、実際は最初から決めていたみたいだった。


「いや、勝手に――」

「フジくん」

凪沙が静かに声をかける。

「今はあの子が先」


藤野は舌打ちしたい気分のまま、少年を見る。

怯え切ったその様子を見れば、反対しきれなかった。


「……無茶すんなよ」


朝日奈はにっと笑った。


「大丈夫だ」


その言葉の意味が、

“少年のことは任せた”なのか、

“灰薔薇はオレが見る”なのか、

藤野には両方に聞こえた。


その横で、灰薔薇だけがわずかに目を細めていた。

それが満足なのか、別の何かなのか、藤野には読み切れない。


藤野はなおも引っかかるものを抱えたまま、凪沙と少年を連れて反対側の通路へ向かった。


その背を見送ってから、朝日奈は階段へ足をかける。


「さて! それでは行くとしようじゃないか、灰薔薇くん!」

「……ああ」


灰薔薇もその後ろに続く。


薄暗い階段を上る足音が、コンクリートの壁に反響する。


一段、また一段。


やがて、凪沙たちの足音が完全に遠ざかった頃。

廊下に差し掛かった所で朝日奈がふと足を止めた。


「……ところで灰薔薇くん」

「なんだ」

「さっきから、妙にオレの動きを見ているね」


明るい声のままだった。

けれど、その目だけは笑っていない。


灰薔薇は一拍置いてから、ゆっくり口元を歪めた。


「気のせいじゃないのか?」

「だといいんだけどな」


朝日奈がそう言って振り返りかけた、その瞬間。


ざあっ、と。


灰色の塵が、音もなく廊下に舞った。


「――!」


次の瞬間、灰薔薇の攻撃が真正面から襲いかかった。

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