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第4話 君が家族になった日

翌日。


約束の時間より少し早く、三人は旧校舎裏に集まっていた。


夕方の校舎裏は、人の気配が少ない。

古い外壁に沿って細長い影が落ち、隅には雑草が伸び放題になっている。

風が吹くたび、窓枠のどこかがかすかに軋んだ。


「……いかにも何か出そうな場所だな」

藤野が低く言う。

「ふふ、怖い?」

凪沙が少しだけ笑う。

「別に」

「安心したまえ! オレがいる!」

「お前が一番安心できない」


朝日奈は旧校舎の壁際を見回しながら、腕を組んだ。


「来るなら、影の多い場所を使うはずだ」

「それっぽいこと言ってるけど、ほとんど全部影じゃない?」

凪沙が言う。

「む……たしかに」


三人は声を潜めつつ、校舎裏の隅で待った。


時計の針が、ゆっくりと進んでいく。


五分。

十分。


誰も来ない。


「……やっぱ来ないんじゃないか」

藤野が壁にもたれながら言う。

「まだ分からん。相手も様子を見ているのかもしれない」

朝日奈は真面目な顔で答える。

「でも、こんなあからさまな呼び出しに、そう簡単に――」


その時だった。


凪沙がすっと表情を変える。


「……ねえ」

「?」

「今、動いた」


彼女の視線の先。

旧校舎の壁際、配管の下に落ちる濃い影が、わずかに揺れた。


風ではない。

草でもない。


確かに、そこだけ輪郭がずれている。


藤野も目を細める。


「……いるな」

朝日奈が一歩前へ出る。

「出てこい! そこにいるんだろう!」


沈黙。


だが次の瞬間、地面の影がにじむように伸びた。


まるで墨汁を垂らしたみたいに、黒が静かに広がっていく。


「っ……」

凪沙が息を呑む。


影は壁から離れ、地面を這うように移動してくる。

人の足音はしない。

代わりに、何か冷たいものがすべってくるような、不気味な気配だけが近づいてきた。


そして、その中心からふっと人影が浮かび上がる。


黒いパーカー。

裾はぎざぎざに裂けたみたいな形で、全体のシルエットが妙に猫っぽい。

ふわふわした黒髪はところどころフードからはみ出し、跳ねた毛先が猫耳みたいに見えた。


三人と同じ制服のズボン。

同年代の男子生徒だった。


「……!」


藤野が目を見開く。


見覚えがある。

同じ学年の、ほとんど学校で見かけない生徒。


「…お前、見たことあるな」


だが、名前は思い出せなかった。


フードの少年は鼻で笑った。


「ふん、やっぱ名前は知らねぇんだな」


その声はどこか投げやりで、棘があった。


「オレのことはシャドウさまと呼べ」


「は?」

「……シャドウ…?」


凪沙も小さく呟く。


藤野は思わず眉をひそめた。

ずいぶん安直な名前だ、と思う。


朝日奈がびしっと指を突きつけた。


「君だな! 最近この辺りで猫を攫っている影の能力者というのは!」

「……はあ?」

シャドウは心底うんざりしたような顔をした。

「なに、その言い方」


凪沙は一歩前に出る。


「張り紙、見たんだよね」

「見たよ」


シャドウはあっさり認めた。


「“影色の猫”とか、気持ち悪い書き方しやがって」

「やっぱり、引っかかった」

凪沙が小さく言う。


シャドウは三人を順番に見て、最後に凪沙へ視線を止めた。


「お前が書いたのか」

「さあ、どうだろうね」

「……むかつく」


その一言に、朝日奈が「ほら見たか!」と言いたげに頷く。


シャドウはフードの奥から三人を睨みつけた。


「せっかく静かにやってたのに、余計なことしやがって」

「猫たちを返してもらおう」

藤野が低く言う。

「それに、勝手に攫っていい理由にはならない」


シャドウの足元で、影がじわりと広がる。


夕方の光がさらに傾き、旧校舎裏の影は濃さを増していく。


シャドウは、低く笑った。


「……お前らには、オレの楽園の邪魔なんてさせねえよ」


影が、音もなく揺れた。


***


次の瞬間、朝日奈が飛び出した。


「ならば力づくで止めるまでだ!」


バチッ、と指先に火花が散る。

一直線に間合いを詰める朝日奈に、シャドウは舌打ちした。


「うっぜえな……!」


その身体が、すっと沈む。


「なっ――」

朝日奈の拳が届く寸前、シャドウの姿が足元の影へ溶けるように消えた。


「消えた!?」

「後ろだ!」


藤野が叫ぶ。


朝日奈が振り向いた瞬間、背後の壁際の濃い影からシャドウが飛び出してくる。


「遅えよ」

「くっ!」


咄嗟に身をひねった朝日奈の頬を、シャドウの爪先がかすめた。

すぐさま電撃を放つが、シャドウはまた影の中へ逃げ込む。


「ちょこまかと……!」

「朝日奈くん、真正面から追わないで!」

凪沙が叫ぶ。


藤野はその前に立つように位置をずらし、周囲の地面を睨んだ。


影が多すぎる。

旧校舎の壁際、木の根元、配管の下、花壇の縁。

夕方の校舎裏は、ほとんど影だらけだった。


「白崎、下がってろ」

「うん。でも、ちょっと待って」


凪沙は目を細め、地面を見比べる。

シャドウが消えた場所と、出てきた場所。

その色の違いを、必死に追っていた。


「……朝日奈くん!」

「なんだ!?」


また別の影から現れたシャドウを、朝日奈が蹴りで迎え撃つ。

火花とともに距離が開く。


その隙に、凪沙が早口で言った。


「見て。普通の影より濃いところ」

「濃いところ?」

藤野が聞き返す。


「うん。あれ、踏んだらやばいかも。気をつけて」


藤野は改めて地面を見る。


確かに、ただ夕日で伸びているだけの薄い影と、

不自然なくらい黒く沈んだ影がある。

壁際や物陰に溜まるそれは、まるで夜を切り取ったみたいに色が深かった。


「……あいつ、あの濃い影からしか出てきてない」

藤野が低く言う。

「たぶん」

凪沙が頷く。

「薄い影は通り道くらいには使えても、“取り込む”のはできないんじゃないかな」


「つまり!」

朝日奈が叫びながらシャドウの蹴りをかわす。

「濃い影こそが奴の本命ということだな!」

「しゃべってる暇あったら避けて!」

凪沙が怒鳴る。


直後、朝日奈の足元の濃い影が盛り上がる。


「っ!」

咄嗟に飛び退いたその瞬間、地面の黒が口を開くみたいに揺れた。


「……今の、踏んでたら吸われてたかも」

藤野の背筋に冷たいものが走る。


シャドウは少し離れた濃い影から顔を出し、にやりと笑った。


「へえ。気づいたんだ」

「やっぱり」

凪沙が呟く。


シャドウは両手をポケットに突っ込んだまま、気だるげに言う。


「濃い影を踏んだやつは、そのまま中に落とせる。猫も、お前らもな」

「……」

「オレは影の中を好きに移動できる。濃い影なら、どこからでも出入りできるんだよ」


朝日奈が顔をしかめる。


「実に厄介だな!」

「感想言ってる場合か」

藤野が返す。


だが、凪沙の目は逆に冴えていた。


「でも、それなら逆に言えば」

「?」

「濃い影さえ消せれば、あいつの出入り口を減らせる」


藤野がはっとする。


「……それをさっき、朝日奈に」

「うん」


凪沙は頷いた。


戦闘になった場合の作戦を考えていた時、朝日奈に聞いたのだ。

電気能力で、一瞬だけでも強い光を出せないかと。


普通の光じゃなくて、影の輪郭そのものを飛ばすような、閃光。

つまり、旧校舎裏にある濃い影を、まとめて浅くできるくらいの強い光。


「できるのか?」

空き教室で、藤野が問う。


朝日奈は口元を上げた。


「もちろんだとも! オレを誰だと思っている!」

「でも、タイミングが重要だね」

凪沙が静かに言う。

「使うとしても、相手が朝日奈くんから注意を逸らした時が、一番いいと思う」


そして、現在。


その時、シャドウがまた影へ沈んだ。


「来る!」

藤野が叫ぶ。


凪沙のすぐ横の濃い影から、シャドウが飛び出した。


「っ」

凪沙が息を呑む。


「させるか!」


藤野は声を張ると同時に、自分が凪沙の前へ滑り込む。


シャドウの手が空を切った。


「ちっ」


藤野は凪沙を背に庇うように立つ。


凪沙は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに前を見た。


「朝日奈くん! いま!」


その声と同時に、朝日奈が両手を打ち合わせた。


バチバチバチッ!!


激しい放電音。

次の瞬間、青白い閃光が旧校舎裏を真昼みたいに染め上げた。


「――っ!」


思わず目を細める。


壁の影も、木の影も、地面の濃い黒も、一瞬だけ輪郭を失う。

深く沈んでいた影が、薄く飛ばされた。


「なっ……!?」


シャドウの声が揺れる。


逃げ込もうとした足元の影が、浅くなっていた。出口が消えたのだ。


「もらった!!」


朝日奈が一気に踏み込む。

逃げ場を失ったシャドウは舌打ちして後ろへ飛ぶが、もう遅い。


「これが、ヒーローの一撃だ!!」


渾身の蹴りが決まり、シャドウの身体が地面を転がった。


「ぐ、うっ……」


朝日奈が勝ち誇ったように胸を張る。


「どうだ、見たか!」

「見てたけど、いちいちうるさい」

藤野が呆れたように返す。


凪沙も肩で息をしながら、ほっとしたように笑った。


「……やった、かな」


その瞬間だった。


うつ伏せに倒れていたシャドウの肩が、ぴくりと震えた。


「ふざけんな……」


低い声。


「勝手に……オレの楽園、壊そうとすんな……!」


地面のあちこちの濃い影が、一斉にざわついた。


「まずい!」

凪沙が叫ぶ。


シャドウは顔を上げ、半ば叫ぶように両手を広げた。


「全部まとめて、飲み込んでやる!!」


旧校舎裏の濃い影が、いっせいに口を開くみたいに広がった。


足元が揺れる。


「っ、下がれ!」

藤野が叫ぶが、遅かった。


凪沙の足元の影が崩れ、朝日奈の身体が沈み、藤野自身も足首から黒に呑まれる。


「うわっ!?」

「きゃっ!」

「くそっ……!」


視界が反転する。


落ちる。

どこまでも、冷たい黒の中へ。


音も、光も、重力も、全部めちゃくちゃになって。

身体が影の中を滑り落ちていく。


次の瞬間。


どさっ、と三人の身体が何か柔らかいものの上に投げ出された。


「いてて……」

「ここは……?」

「んん……」


顔を上げた凪沙が、ぽかんと口を開く。


「……え?」


そこは、六畳ほどの薄暗い部屋だった。


床には毛布やクッションが何枚も敷かれ、

壁際には猫用のトイレや食器、水皿が並んでいる。

棚の上にも、ベッドの下にも、窓辺にも。


猫。

猫。

猫。


何匹もの猫が、三人をじっと見ていた。


黒猫、茶トラ、白猫、三毛。

思い思いの場所でくつろぎながら、

突然落ちてきた侵入者たちを不思議そうに見つめている。


「にゃあ」

一匹が鳴く。


朝日奈が目を瞬かせた。


「……すごいな」

「いや、すごいで済ませるなよ」

藤野が呆然と呟く。

「猫まみれじゃねえか……」

「もふもふ天国……」

凪沙が思わず漏らす。


部屋の隅に積まれた教科書の上に、一冊のノートが見えた。

表紙には名前が書かれている。


『猫目 影道』


「……猫目、影道」

藤野が小さく呟く。

「……そっか。隣のクラスのやつか」


凪沙と朝日奈も、それを見ていた。


部屋の隅では、猫目がゆっくり立ち上がっていた。


ぼさぼさの黒髪の間から覗く目が、怒りと寂しさで揺れている。


「……ここが」

猫目は低く言った。


「オレの楽園だ」


***


朝日奈が眉をひそめる。


「猫たちを勝手に攫って、閉じ込めておく場所を楽園とは言わない!」

「うるせえ……!」


猫目が睨み返す。


「ここは、オレだけの場所なんだ」

猫目は歯を食いしばる。


「誰にも邪魔されない。誰にも奪われない。猫たちとだけ一緒にいられる場所だ」


言葉の最後が、少しだけ震えていた。


藤野は黙ったまま、部屋の中を見回した。


猫たちは怯えてはいない。

むしろ慣れた様子で猫目の足元に集まり、すり寄っているものさえいる。

乱暴に扱われている気配はなかった。


けれど、だからといってこれが正しいわけでもない。


凪沙が一歩前に出る。


「……どうして、こんなことしたの」


猫目はすぐには答えなかった。


猫の一匹がその足元で小さく鳴く。

猫目はそれを見下ろし、やがてぽつりと呟いた。


「……お前らには、分かんねえよ」


その声は、さっきまでの棘とは少し違っていた。


「オレの気持ちなんか……分かるわけねえ」


部屋の空気が、少しだけ変わる。


凪沙は急かさなかった。

朝日奈も、珍しく口を挟まない。

藤野はただ、猫目の次の言葉を待った。


やがて、猫目は壁にもたれるように座り込んだ。


「……三ヶ月前の夜だった」


その目は、もう三人ではなく、どこか遠くを見ていた。


「月が出てなくて、すげえ暗い日で。道も、家も、全部ぼんやりしてて……」


ぽつり、ぽつりと話し始める。


「オレ、その日もクロと一緒に外にいたんだ」


その名前を口にした瞬間だけ、声が少しやわらいだ。


「クロは、オレの猫だった。……いや、猫っていうか」


猫目は小さく息を吐く。


「大事な、家族だった」


部屋の猫たちが、静かに耳を動かす。


「……オレ学校だって、ほとんど行ってなかったし、行っても誰も話しかけてこなかった。別にそれでいいと思ってたけど……」


自嘲するように笑う。


「でも、クロだけは違った。オレがいても逃げねえし、くだらない話してても隣にいたし、呼べば来た」


言葉を切る。


「……ずっと、クロだけでよかった」


朝日奈の表情が少し曇る。


猫目は続けた。


「その日も、いつもみたいに遊んでた。ボール投げて、追いかけて、戻ってきて……ただそれだけだった」


拳が、少しずつ強く握られていく。


「でも、暗かったんだよ。ほんとに何も見えないくらい」


部屋の空気が重く沈む。


「車が来たのも、気づかなかった」


凪沙が小さく息を呑む。


「オレも、クロも、夜の中にいた。向こうからしたって見えなかったのかもしれない。……でも」


猫目の声が掠れた。


「轢かれた」


一言だけで、十分だった。


「オレは、生きてた。……しばらく入院したけど、ちゃんと家には帰ってこられた」


でも、と続ける声がうまく出ない。


「クロは……死んだ」


長い沈黙が落ちる。


「オレのとこには、

……もう、帰ってこなかった。」


猫目はうつむいた。


「その時、思ったんだよ。外なんかに出したのが間違いだったって。オレが一緒にいても駄目だった。目の前にいたのに、守れなかった。

……だったら、最初からどこにも行けない場所にいさせればいいって。」


「……そしたらいつの間にか、この力手に入れてた」


藤野は眉をひそめた。


「だから猫を攫ったのか」

「攫ったんじゃない!」


猫目が顔を上げる。


「守ってたんだ! 

この部屋にいれば、車も来ねえし、雨にも濡れねえし、誰にも踏まれねえ! 一緒にいて、あったかくて、腹いっぱいで……それの何が悪いんだよ!」


感情が溢れたみたいに、声が大きくなる。


「オレはもう、あんなふうに失うの嫌なんだよ……!」


その叫びのあと、部屋はしんと静まった。


猫たちだけが、何も知らない顔で毛づくろいをしている。


凪沙は猫目を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。


「……でも」


猫目が睨むように顔を上げる。


「この子たちの気持ちは?」


「……は?」

「君は、ここなら安全だって思ってるのかもしれない。でも、この子たちにも帰る場所があったんだよ」


凪沙の声は責めるというより、静かに問いかけるようだった。


「待ってる人がいて、ごはんをくれる人がいて、名前を呼んでくれる人がいた」

「……」

「急にいなくなったら、寂しいのは飼い主だけじゃないと思う」


猫目の目が揺れる。


凪沙は部屋の猫たちを見渡した。


「この子たちだって、きっと君と同じだよ」

「……」

「離れ離れになった家族に、会いたいはずだよ」


その言葉が落ちた瞬間、猫目の表情が強張った。


何かを言い返そうとしたのか、唇がわずかに動く。

でも、声は出なかった。


代わりに、部屋の隅にいた白猫が小さく鳴く。


「にゃあ」


猫目はその声に目を向け、やがて俯いた。


肩が小さく震える。


「……お前らには、分かんねえって……思ってたのに」


声はもう、怒りの音ではなかった。


「……クロがいなくなってから、部屋、静かで……」

「……」

「一人でいると、何も聞こえなくて……だから、猫がいれば平気だと思ったのに」


猫目は両手で顔を覆う。


「……だって、ひとりになるの嫌だったんだよ……!」


その叫びは、怒鳴り声というより泣き声に近かった。


朝日奈が一歩前へ出る。


「だからといって、攫っていい理由にはならない」


いつもの大声ではなかった。

真っ直ぐで、静かな声だった。


「君の悲しみは本物だ。だが、他の誰かから大切なものを奪っていいわけじゃない」


猫目は唇を噛んだまま、何も言わない。


藤野がゆっくり口を開く。


「……クロを失ったのが辛かったのは分かる」

猫目が少しだけ顔を上げる。

「でも、それを理由にしたら駄目だ」


藤野の声は低く、淡々としていた。


「事情があっても、痛みがあっても、やっていいことと悪いことはある」

「……っ」

「誰かを失うのが怖いからって、別の誰かから家族を奪ったら、同じことになる」


猫目は何も返せなかった。


ただ、膝の上の手が小さく震えている。


その時、一匹の茶トラが立ち上がり、のそのそと猫目の足元へ歩いていく。

そして当然みたいに、その膝に前足を乗せた。


「にゃあ」


猫目が目を見開く。


その声に、もう耐えきれなくなったみたいに肩を落とした。


「……っ、くそ……」


手の甲で目元をこする。

けれど涙は止まらない。


「……分かったよ」

ようやく、絞り出すように言った。

「返す……返せば、いいんだろ……」


朝日奈が小さく息を吐く。

凪沙はほっとしたように、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「ありがとう」


その一言に、猫目はますます気まずそうに顔を背ける。


「礼なんか言うなよ……」


***


しばらくして、三人は猫目と一緒に猫たちを元いた家へ返して回った。


最初の家では、玄関が開いた瞬間、白い足先の黒猫が勢いよく飛び込んでいった。


「ノア!?」

飼い主の女性が目を見開く。

「ノア……ノア! ああ、よかった……!」


しゃがみこんで猫を抱きしめる腕が震えていた。

猫も、その胸に顔をうずめるようにして喉を鳴らしている。


その光景を見て、猫目は何も言わずに目を逸らした。

それでも帰り際、視線を落としたまま、小さく頭を下げる。


「……ごめんなさい」


飼い主の女性は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、何も言わず、ただ腕の中のノアを強く抱きしめた。


次の家でも、その次の家でも、猫たちはそれぞれの家に帰っていった。


泣きながら名前を呼ぶ人。

何度も礼を言う人。

猫を抱きしめて、もう離すまいと背を撫で続ける人。


そのたびに凪沙は少しだけ目を細め、朝日奈は満足そうに頷き、藤野は黙ってその様子を見ていた。


「白崎くん、今回はすごかったな! まるで名探偵だった!」

帰り道、朝日奈が楽しそうに言う。


「えへへ、ミステリードラマすきなんだ」

凪沙が少し照れたように笑う。


「……俺、あんま活躍してないな」

藤野がぼそっとこぼす。


「ふふ。でも藤野くん、守ってくれたじゃん」

凪沙がやわらかく言う。


「!!!」


「どうした!? 藤野くん!!お腹が痛いのか!?」

朝日奈がぎょっとして身を乗り出す。


三人がそんなふうに話しながら歩いていく、その後ろで。


猫目は、自分の部屋の前にぽつんと立ち尽くしていた。


扉を開けても、もう猫たちはいない。


毛布も、食器も、クッションも、そのまま残っているのに。

そこにあったはずの温かさだけが、きれいに消えていた。


しん、と静まり返った部屋の中で、猫目はゆっくり膝をつく。


「……クロ」


誰もいない部屋で、その名を呼ぶ。


「ごめんな……」


目を伏せたまま、掠れた声で続ける。


「オレ、またひとりぼっちだよ……」


その時だった。


「にゃあ」


小さな鳴き声がした。


猫目がはっと顔を上げる。


開けっぱなしの窓辺に、一匹の黒猫が座っていた。

まだ小さい。身体も細く、毛並みも少しぼさぼさだ。

けれど、その目だけは妙にまっすぐだった。


「……え」


黒猫はためらいなく部屋に入ってくると、猫目のそばまで歩いてきた。

それから、当然みたいな顔で彼の膝に前足をかける。


「にゃ」


猫目はしばらく呆然としていたが、やがておそるおそる、その小さな体を抱き上げた。


あたたかい。


確かに、生きている重みだった。


「……野良、か?」


黒猫は答える代わりに、腕の中で小さく喉を鳴らした。


猫目の口元が、ほんの少しだけ緩む。


「……お前、名前どうしよっか……」


腕の中の黒猫を見下ろしながら、小さく呟く。


「……クロ……じゃなくて、ちょっと違うのがいいな……」


少し考えて、それから照れくさそうに笑った。


「シャドウ」


黒猫が耳をぴくりと動かす。


猫たちを攫っていた時、自分のことをかっこつけて、そう呼んでいた。

でも、その響きは案外気に入っていた。


「この名前、お前がもらってくれるか?」


黒猫は何も言わない。

ただ、気に入ったみたいにその胸元へ顔を埋めた。


翌日。


休み時間、藤野が何気なく隣のクラスの方へ目をやると、見慣れない光景があった。


窓際の席に、猫目が座っている。


隣のクラスの生徒だが、学校ではほとんど見かけない。それが今日は、ちゃんと教室にいる。


「……いた」

藤野が小さく呟く。


「ん?」

朝日奈が顔を上げる。


藤野が顎で示した先を見て、朝日奈も「あっ」と声を上げた。


「猫目くん!」

「……その呼び方、普通で逆に落ち着かねえな」


隣のクラスの扉のところまで来た三人に、猫目は面倒くさそうに返す。


凪沙が少し笑って近づいた。


「もう大丈夫なの?」

「……まあ」

猫目は視線を逸らしたあと、ぼそっと言う。

「シャドウがいるから」

「え」

「また誘拐を始めたのか!?」

朝日奈が食いつく。


猫目は露骨に顔をしかめた。


「ちげーよ。子猫のことだよ」

「ああ……びっくりした」

凪沙がほっとして笑う。


そして、少しだけやわらかい目で言った。


「そっか……よかった」

「……」

「あたらしい家族と、出会えたんだね」


猫目は何も言わなかった。

でも、少しだけ耳が赤くなっているように見えた。


その少し離れた場所で、藤野はそのやり取りを静かに見ていた。


家族、か。


その言葉に、凪沙がほんの少しだけ遠くを見るような顔をしたことに、藤野は気づいていた。


凪沙はすぐに、いつものように笑ったけれど。


その一瞬だけ落ちた影を、藤野だけは見逃さなかった。


一方、その頃。


薄暗い部屋の中で、ひとりの人物が静かに電話をしていた。


傍らには、藤野たちと同じ学校の制服が掛けられている。

逆光に沈んだ顔はよく見えない。


「……はい」


低い声が、短く返る。


「ええ。分かっています」


少しの間を置いて、その人物は静かに復唱した。


「『朝日奈零を監視しろ』……ですね」


感情の見えない声だった。

けれど、そのあとほんのわずかに視線が揺れる。


そして、小さく目を伏せる。


「……了解しました」

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