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第29話 腕の中で、もう一度

壇上の幻一は、初めてはっきりと藤野を見た。


その目にはもう、先ほどまでの静かな余裕はなかった。


崩蝕物質が通じない。


正確には、通じる前に“別のもの”へ変えられている。


黒泥はなおも足元から噴き出し、滝のように押し寄せる。

けれど藤野の前へ入った瞬間だけ、輪郭を失い、ただの水へと変わって砕け散る。


死が、そこで止まっていた。


「……なるほど」


幻一が低く呟く。


「消すべきは、お前か」


藤野は右手をかざしたまま、荒い息を整える。

視界が少し揺れている。

それでも目だけは逸らさない。


そして、低く言った。


「あんたに、言ってやりたいことがある」


その一言に、朝日奈たちがわずかに目を向ける。


幻一は答えない。

ただ、続きを促すみたいに藤野を見る。


藤野は黒い濁流を受け止めたまま、言葉を吐き出した。


「アガスティア教団の思想は、強さが人の価値を決める――だったな」

「……」

「超能力がないから弱い。弱いから切り捨てる」

息を吐く。

「そんなの、白崎──俺の仲間には価値がないって言ってるのと同じだ」


凪沙の名が出た瞬間、

ルナが、ツキが、朝日奈が、わずかに表情を変える。


藤野は止まらない。


「あいつがいなきゃ、解決しなかったことがいくつあったと思ってる」

「……」

「逆に、力のある奴が他人を傷つけるところも見てきた」

その声は掠れていた。

けれど、はっきり響いた。

「能力だけで人の価値が決まるなら、そんな世界の方が間違ってる」


静かな沈黙が落ちる。


そのあとで、幻一がほんのわずかに口元を歪めた。


「青いな」


その声は低く、冷たかった。


「この力は神の選別だ」

足元の黒泥が脈打つ。

「弱者は生きる価値すらない」

「……」

「強きが弱きを守るなど、幻想にすぎない」


その言葉は、教義の復唱みたいに聞こえた。

けれど藤野には、どこか違って見えた。


本気で信じきっている人間の声じゃない。

誰かを裁くためというより、自分を誤魔化すための言葉に聞こえた。


藤野の目が細くなる。


「違う」

「……何がだ」

「あんたは」

藤野は歯を食いしばる。

右手の先で、なおも濁流が水へ変わり続けている。

「大事な奴を、自分の力で失ったんだろ」


教祖の間の空気が、一瞬だけ凍る。


ツキが息を呑む。

ルナの羽が小さく震える。


幻一の片目が、はっきりと細くなった。


「……ほう」

「守りたかったのに、触れた先で壊した」

藤野は言った。

「その現実と向き合えないから、弱者は淘汰されるべきだとか、神の選別だとか、そんな理屈で塗り潰してるだけだ」

「黙れ」


その一言と同時に、幻一の足元の黒泥が唐突に収束した。


流れが変わる。


前へ広がるのをやめ、一点へ、圧縮されていく。


「……っ」

御堂の目が鋭くなる。

「藤野、下がれ!」


次の瞬間。


黒い杭が撃ち出された。


質量を持った、圧縮された死の塊。


巨大な黒の杭が、一直線に藤野へ迫る。


「藤野くん!」

朝日奈が叫ぶ。


藤野は右手を前に出したまま動けない。

いや、動かない。


変える。


そう思った。


だが大きすぎる。

速すぎる。


全部を水へ落とし切る前に、届く。


その寸前。


灰薔薇の灰が横から噴き上がった。


黒い杭の側面へ絡みつき、軌道をわずかに押しずらす。


同時に、華澄の硝子片が斜めに差し込まれる。

透明な刃が、杭の先端を削るように走り、その角度をさらに変えた。

硝子の先端が、触れた箇所から黒く濁って砕け散る。


「朝日奈!」

御堂の声が飛ぶ。


雷光。


朝日奈が弾丸みたいに飛び込み、

黒い杭のすぐ脇へ青白い電撃を叩き込む。

爆ぜた雷圧が最後の押し込みとなり、杭の軌道を横へ弾いた。


黒い杭が、藤野のすぐ横を通り過ぎる。


背後の壁へ突き刺さる。


一拍遅れて、その壁が、音もなく黒く濁った。


そして、ぼろぼろと崩れる。


教祖の間の奥の石壁が、

まるで最初から脆かったみたいに、静かに崩壊していく。


「……っ」

ルナが息を呑む。


あれが直撃していたら、

藤野は跡形も残らなかった。


朝日奈がそのまま藤野の前に立った。


「大丈夫か!」

「……ああ」

「無茶するなよ」

「お前が言うな」

「今は言うぞ!」


短いやり取りだった。


だがその間にも、幻一の視線は藤野から逸れない。


もう分かっているのだ。


この場で最も厄介なのが、御堂でも朝日奈でもない。


藤野だと。


幻一が静かに息を吐く。


その周囲の黒泥が、これまでと違う動きを始める。


流れない。

飛ばない。

戻る。


壇上の足元から溢れていた崩蝕物質が、

逆に幻一自身へ集まり始める。


脚へ。

腰へ。

胸へ。

肩へ。

腕へ。


「……っ」

ツキの顔が強張る。

「お父さん……」


崩蝕物質が、幻一自身へまとわりついていく。


泥のように流れながら、硬質な光沢を帯びる。

肩口には棘のような突起が生まれ、腕は刃のように細く鋭く変形する。


鎧だった。


触れたものを崩す、死そのものの鎧。


朝日奈が低く吐き捨てる。


「……悪趣味だな」

灰薔薇の視線が鋭くなる。

「近接型に切り替える気か」

御堂が即座に言う。

「間合いへ入れさせるな! 藤野を守れ!」


次の瞬間、幻一の姿が消えた。


「――っ!」


朝日奈が雷を纏って前へ出る。


轟、と火花が散る。


幻一の拳が振るわれ、朝日奈の雷をまとった腕がそれを受ける。

だが受けた瞬間、朝日奈は自分から弾かれるように後ろへ跳んだ。


「触れたら終わる!」


床へ叩き込まれた幻一の拳の下で、石が黒く濁る。

遅れて、そこだけが音もなく崩れた。


ツキが横から踏み込む。


衝撃波。


至近距離で叩き込まれたそれが、幻一の体勢をわずかに揺らす。

そこへ灰薔薇の灰が足元から絡みつき、華澄の硝子刃が首元を狙って走る。


だが、通らない。


灰は触れた先から崩れる。

硝子もまた、刃先から濁って砕け落ちる。


「くっ……!」


ルナの羽が上から散り、幻一の視界を裂くように舞う。


一瞬だけ、その動きが鈍る。


御堂が見逃さない。


「朝日奈、左! 灰薔薇、足元! 華澄、上から切れ!」


指示が飛ぶ。


朝日奈が雷をまとって再加速する。

灰薔薇の灰が床を這い、幻一の足首へ絡む。

華澄の透明な刃が、死角から肩口へ落ちる。


三方向からの挟撃。


その瞬間だけ、黒い鎧の流れが偏った。


攻撃のために前へ寄る。

代わりに、脇と背の防御が薄くなる。


御堂の目が鋭くなる。


「見えた」

低い声だった。

「攻撃に寄せた瞬間、防御が偏る」


藤野はその言葉を聞きながら、息を整えていた。


胸の奥で、別の言葉が燃えている。


逃げるな。


その思いだけが、今の自分を支えていた。


「……俺は」

藤野が低く言う。

誰に聞かせるでもなく、

けれどはっきりと。

「この力で、母さんを失ったと思ってる」


朝日奈の目が揺れる。

ルナも、ツキも、息を止める。


藤野は前を見たまま続けた。


「本当にそうだったのか、今でも分からない」

「でも、あの時手を掴んだのは俺だ」

「何もできなかったのも俺だ」

「だからずっと、俺のせいだと思ってる!!」


その叫びは、幻一へ向けたものでもあり、

自分自身へ向けたものでもあった。


「……まだ、償えたなんて思ってない」

「どうすればいいかも、正直分からない」

「でも――」


藤野は両手を強く突き出す。


「俺はもう、逃げない」

「誰かが泣いてるなら、助けたい」

「この力で誰かを救うって、そう決めたから!!」


朝日奈零の背中を追いかけると決めたあの時。

泣いていたツキを見た時。

その手を取った時。


その想いが、今ここにあった。


けれど、見えた。


鎧そのものを変えるんじゃない。

それじゃ足りない。


幻一の周囲。

崩蝕物質が“そこに在る”ための境界ごと、書き換える。


部分じゃなく、

空間ごと。


「朝日奈!」

藤野が叫ぶ。

「一回、こっち向かせろ!」

朝日奈が振り向く。

その目はもう笑っていた。

「上等だ!」


雷光。


朝日奈が真正面から突っ込む。


「こっちだ!!」


幻一の視線がそちらへ動く。

ツキが横から衝撃波を重ねる。

灰薔薇の灰が足元を絡め取り、華澄の硝子片が視界を乱す。

ルナの羽が上方から散り、動きの読みを鈍らせる。


幻一が朝日奈を潰しにいく。


鎧が前方へ寄る。


その瞬間だった。


「――っ」


藤野が両手を突き出す。


一瞬、あの日の記憶が蘇る。


人には触れるな。

中の輪郭は保ったまま、

周囲の空間だけを――


視界が歪む。

空間が、見えない力でねじれたみたいに揺らぐ。


幻一の黒い鎧が、ぴたりと止まった。


「……なに」


初めて、幻一の声に明確な驚きが混じる。


肩から。

腕から。

胸から。


黒い鎧の輪郭が、ほどけていく。


崩れるのではない。

侵されるのでもない。


ただ、死の形を保てなくなっていく。


黒い砂と泥が、

そのまま透明な水へ変わって落ちた。


ざあっ、と音がした。


教祖の間に、

黒ではなく、透明な水が降る。


さっきまで絶対だった鎧が、

ただの水として床へ流れ落ちていく。


「――……!!」


誰も、すぐには動けなかった。


幻一が、初めて後退る。


ただの男として、地面に立たされる。


その顔には、

もはや神を名乗る者の静けさはない。


ただ、自分の罪と向き合わされた人間の、

剥き出しの動揺だけがあった。


「今だ、ツキ!」

ルナの声が響く。


ツキの目が揺れる。


目の前にいるのは、教祖であり、父であり、恩人だった。

けれど今、止められるのは自分しかいない。


「……終わりにする」


小さく呟いて、踏み込む。


衝撃波を拳へ集める。

広く撃たない。

一点だけ。


父を殺すためじゃない。

これ以上進ませないために。


「お父さん!!」


拳が幻一の胸へ叩き込まれた。


衝撃。


幻一の身体が後方へ吹き飛ぶ。

祭壇へ叩きつけられ、石段を砕きながら崩れ落ちる。


静寂が落ちた。


もう、黒は噴き出さない。


床を流れているのは、

崩蝕物質ではなく、水だけだった。


さっきまで死だったものが、

ただの透明な水となって、祭壇の段を静かに流れ落ちていく。


誰もすぐには喋れなかった。


藤野の膝が、遅れて折れる。


「……っ」


その身体が崩れる前に、

朝日奈が肩を掴んだ。


「藤野くん!」

「……うるさい」

声が掠れる。

「叫ぶな」

「叫ぶ! 今のは叫ぶだろ!」


その言葉に、藤野は苦く息を吐いた。


灰薔薇が黙ってそれを見下ろす。

ルナは羽を震わせたまま、まだ祭壇の方から目を離せない。

華澄は刃を下ろし、御堂はようやく小さく息を吐いた。


ツキだけが、祭壇の前に立ち尽くしている。


父が倒れている。


勝ったのかどうか、まだ実感がない顔だった。


教祖の間には、

もう水音だけが残っていた。


***


けれど――


終わらなかった。


祭壇へ叩きつけられた幻一の指が、わずかに動く。


ツキがはっと息を呑む。

ルナも顔を上げる。


倒れたままの幻一が、震える手で懐へ伸ばした。


「……お父さん?」


取り出したのは、小さなアンプルだった。


無色に近い液体。

けれどその奥に、どこか濁った光が揺れている。


御堂の顔色が変わる。


「まずい」

「何だ!?」

朝日奈が叫ぶ。


幻一は答えない。

そのまま薬液を自らの首筋へ突き立てた。


「――っ!」


ルナが声を上げる。


次の瞬間。


幻一の身体が大きく跳ねた。


祭壇の周囲に落ちていた水が、びり、と震える。

その中心で、黒いものが再び溢れ出した。


今度のそれは、さっきまでと違った。


制御されていない。


黒い泥とも砂ともつかない物質が、幻一の身体のあちこちから噴き出し、

腕を、胸を、肩を、背を、好き勝手に食い破るように膨れ上がっていく。


「……っ、あ……!」


幻一の喉から、初めて人間らしい苦鳴が漏れる。


崩蝕物質が暴れていた。


鎧として整うのではなく、

持ち主ごと食い潰しながら、ただ膨張し、うねり、周囲へ噛みつこうとしている。


「下がれ!」

御堂の声が飛ぶ。

「暴走だ!」


朝日奈が藤野を支えたまま歯を食いしばる。

「なんだよあれ……!」

灰薔薇の目も鋭くなる。

「制御を捨てたか」

「ああ」

御堂が低く言う。

「薬で出力だけを引き上げられている」


幻一の周囲で、黒が脈打つ。


それはもう能力ではなかった。

呪いに近い。


柱を侵し、祭壇を砕き、水すら黒く濁らせていく。


藤野の呼吸が揺れる。


「……あれじゃ」

掠れた声だった。

「全部、変えきれない――」


その言葉に、全員の顔が強張る。


再び押し寄せる。

今度こそ、本当に終わる。


誰もがそう思った、その時だった。


ツキが駆け出した。


「ツキ!!」

ルナが叫ぶ。


止まらない。


祭壇へ。

黒く暴れる崩蝕物質の中心へ。

父のもとへ。


「……もう、やめて」

掠れた声だった。

「お父さん」


黒がツキの腕を掠める。

肩を裂く。

服を、皮膚を、容赦なく削っていく。


それでも止まらない。


「やめてよ……!」

ツキは泣きそうな声で叫んだ。

「もういい、もういいから……!」


その声に、暴れる黒が一瞬だけ揺らぐ。


ツキはそのまま、幻一を抱きしめた。


「――─」


教祖の間の空気が止まる。


黒が、ツキの背を這う。

腕を侵す。

肩を喰う。


それでもツキは離さない。


「ひとりで、苦しまなくていい」

その声は小さかった。

でも、はっきり届いた。

「もう誰も傷つけなくていい……」


幻一の片目が、かすかに見開かれる。


その瞬間。


記憶が、閃いた。


***


かつて、自分も弱かった。


飢え。

寒さ。

病。

暴力。


母は病で弱り、ほどなく死んだ。

父は地位の低い労働者だった。

過労と圧力に潰され、あっけなく死んだ。


幼い幻一は、その時すでに理解していた。


この世界の摂理は、弱肉強食だと。


弱いものから死ぬ。

価値のないものから消える。

泣こうが祈ろうが、誰も救ってはくれない。


自分もまた、飢えの中で死にかけた。


視界が霞み、意識が遠のく。

その死の間際に、力が芽生えた。


黒い砂。

触れたものを崩す死の力。


その時、幻一は思った。


――神に選ばれたのだ、と。


弱者ではない。淘汰される側ではない。選ぶ側に立つのだと。


そうして生き延び、大人になった。


そしてある日、小さな存在に出会った。


いつも栗色の髪をふたつに結んだ、かわいらしい子供だった。


あの小さな手。

あの笑い声。

自分の名を呼ぶ声。


初めてだった。


守りたいと思ったのは。

この手で、失いたくないと思ったのは。


けれど――

抱きしめた瞬間だった。


自分の腕の中で、

その小さな身体が崩れた。


黒く。

脆く。

あまりにもあっけなく。


「――─っ」


声も出なかった。


ただ、腕の中から零れ落ちていくものを見ていることしかできなかった。


触れられない。

守りたかったのに、触れた瞬間に殺してしまう。


その時、幻一の中で何かが完全に壊れた。


弱き者に、生きる価値などない。


そうでなければ、自分はもう立っていられなかった。


***


「……あ」


祭壇の前で、幻一の喉が小さく鳴る。


腕の中にいるツキの重み。

ぬくもり。

震え。


その感触が、遠い日の記憶と重なる。


まただ。


また、自分は。


守りたかったものを、腕の中で失う。


「やめろ……」

その声は、もう教祖のものではなかった。

「やめてくれ……」


黒の暴走が、わずかに鈍る。


ツキは抱きしめたまま、目を閉じる。


「……お父さん」


その呼びかけに、黒い物質のうねりがもう一度だけ大きく震え、

それから明らかに弱まった。


だが。


遅い。


ツキの背が、肩が、腕が、黒く侵されていく。


ルナの顔が真っ青になる。


「ツキ!!」

駆け出そうとする。

けれど、その足を朝日奈が止めた。


「だめだ!!」

「でも……!」

「触れたら君も死ぬ!」


ルナの目から涙があふれる。


ツキはもう、幻一の腕の中で崩れ始めていた。


肩口から。

指先から。

まるであの日の娘の再現みたいに、

少しずつ、少しずつ。


それでもツキは最後まで離さない。


「……だい、じょうぶ」

かすれた声。

誰に向けたのかも分からないほど小さい。

「これで……いい」


幻一の目が揺れる。


腕の中で、またひとつの命が崩れていく。


「やめろ」

今度こそ、声が震えていた。

「やめろ……!」


けれど止まらない。


黒はツキを喰っていく。


その瞬間。


御堂の目が鋭くなる。


「華澄」

低い声だった。

「弓を」

「はい」


華澄はすぐに動いた。


失った左腕の代わりに、御堂の弓を支える。


御堂は片腕で、矢を番える。

まともな射形ではなかった。


けれど彼の目は、寸分もぶれていなかった。


ルナが気づく。

「抑制薬……!」


御堂は答えない。


ただ、狙いを定める。


暴走の中心。

幻一の胸元へ。


華澄が静かに支える。

その横顔に余計な感情はない。

けれど指先だけは、わずかに強く弓を押さえていた。


御堂が息を吐く。


「――射抜く」


光の矢が放たれた。


一直線。


教祖の間を裂き、

崩れゆくツキと幻一の間を寸分違わず抜け、

抑制薬の注射器が幻一の胸へ深く突き立つ。


「――っ!!」


幻一の身体が跳ねた。


黒が、今度こそ大きく乱れる。


暴走しかけた崩蝕物質が、

行き場を失ったみたいに空中で震え、

それから一斉に崩れ落ちた。


けれど、もう遅かった。

崩蝕は、抱きしめたその瞬間にはすでにツキの深くまで回っていた。


黒い砂となって。

ただの泥となって。

力を失った残骸となって。


祭壇の上に、静かに降り積もっていく。


そして、幻一の腕の中から、最後の欠片がこぼれ落ちた。


「……あ」


幻一の口から、空虚な音が漏れる。


また、失った。


また、腕の中で。


***


祭壇の上。


ツキの姿は、もうそこになかった。


残っているのは、崩れた衣服の切れ端と、

まだ温もりだけが残っていそうな空白だった。


「ツキ……?」


ルナの声が、ひどく小さく響く。


信じていない声だった。

まだそこにいるはずだと思っている声だった。


一歩、祭壇へ近づく。

また一歩。


床に散った水を踏む。

崩れた石片を蹴る。

それでも目は、ただ幻一の腕の中だけを見ていた。


「……ツキ」

もう一度呼ぶ。

「ツキ」


返事はない。


ルナの羽が、小さく震える。

その震えはすぐに全身へ広がった。


「……うそ」


かすれた声だった。


「うそだよ」


さらに一歩、踏み出す。


朝日奈が何か言いかけた。

けれど言葉にならなかった。


ルナは祭壇のすぐ手前で立ち止まる。


そこにツキはいない。

もう、どこにもいない。


崩れた白い水の音だけが、

やけに静かに響いていた。


「……やだ」


ルナの喉が震える。


「やだ……やだよ」


涙が、ぽろ、と落ちた。


「やっと……」

声が詰まる。

「やっと、ちゃんと隣に立てたのに……」


その言葉に、

朝日奈も藤野も動けなかった。


少し前まで、たしかに二人は並んでいた。


初めてちゃんと隣に立って、

同じ方を向いて、同じ敵を見ていた。


その光景を、皆が見ていた。


だからこそ、

今目の前にある喪失は、あまりにも残酷だった。


ルナは、その場に膝をついた。


「ツキ……」

もう声になっていない。

「ツキ……っ、ツキ……!」


白い羽が大きく揺れる。

感情に引きずられるみたいに、何枚も床へ散った。


朝日奈が唇を噛む。


拳を握る。

けれど、その拳をぶつける相手すら今は曖昧だった。


怒りも、悔しさも、悲しさも、

全部が一度に来すぎて、言葉にならない。


灰薔薇は目を伏せた。


床に流れる水を見る。


腕の中で崩れていく。

その光景だけは、見たくないほど覚えがあった。


だから何も言えなかった。


華澄は静かに刃を下ろしたまま、

御堂の半歩後ろに立っていた。


表情は変わらない。

けれど、その沈黙だけが普段よりずっと重い。


御堂もまた、しばらく何も言わなかった。


片腕を失ったまま、ただ祭壇の上を見つめている。


任務は終わった。

教祖は制圧した。

それだけなら報告できる。


けれど、今この場で失われたものは、

そんな言葉では到底片づかなかった。


そして。


幻一だけが、まだ動けずにいた。


腕の中は空なのに、

抱きしめる形のまま固まっている。


「……違う」


その声は小さかった。


誰に向けたものでもない。

自分へ向けた否定だった。


「違う……」


視線が落ちる。

水を見る。

黒い欠片を見る。

何も残っていないことを見る。


「違う……!」


今度ははっきり声になった。


「私は……私は……!」


神を名乗った男の声ではなかった。

教祖の声でもなかった。


ただ、自分のしてしまったことに耐えきれない

ひとりの人間の声だった。


「守りたかっただけだ……!」

その言葉は悲鳴に近かった。

「救いたかった……」

「失いたく、なかった……!」


声が割れる。


「なのに、どうしてだ……!!」


祭壇を叩こうとして、

幻一の手が止まる。


叩いた先に何もないからだ。

壊す相手も、

言い訳する先も、

もうどこにもなかった。


「……どうして」


その一言だけが、

ひどく弱く落ちる。


答える者はいない。


ルナの嗚咽だけが響いていた。


やがて、幻一の肩が崩れる。


立っていられなくなったみたいに、その場に、ゆっくり膝をつく。


もう崩蝕物質は噴き出さない。

もう神でもない。

もう選別する側でもない。


ただ、最後まで守れなかった男だけが、

そこに残っていた。


御堂が、静かに口を開く。


「……制圧完了だ」


任務としては、それが正しい言葉だった。

けれどその声は、普段よりずっと低かった。


華澄が小さく頷く。


朝日奈は藤野を支えたまま、祭壇を見ている。

藤野もまた、息も絶え絶えのまま目を閉じなかった。


ツキがいなくなったその場所を、

全員が見ていた。


水だけが流れている。


さっきまで死だったものも。

さっきまで人だったものも。

全部を呑み込んで、

ただの水音だけが、教祖の間に残っていた。


ルナは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、

小さく震える声で呼んだ。


「……ツキ」


もう返事はない。


それでも呼ばずにはいられなかった。


その声を聞きながら、

藤野は重い瞼をわずかに伏せる。


守れなかった。


間に合わなかった。


勝ったはずなのに、

何も救えていない気さえした。


けれど、それでも。


この痛みから目を逸らしてはいけないと、

どこかで分かっていた。


教祖の間には、

嗚咽と、水音と、

取り返しのつかない静けさだけが残っていた。

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