第28話 滅びの雨が降る
ルナとツキは、並んで走っていた。
長い回廊。
崩れた壁。
燃え残る灯火の匂い。
施設の奥からは、なおも能力の衝突音が絶え間なく響いてくる。
その中で、二人の足取りだけは不思議なほど乱れなかった。
前方の曲がり角から、薬で強化された暴走能力者が飛び出してくる。
「ッ――!」
獣みたいな唸り声を上げながら、腕を肥大化させた男がツキへ突っ込んだ。
ツキは一歩も引かない。
床を滑るように間合いへ入り込み、
最小限の動きで身をずらす。
男の腕が空を切った瞬間、
ツキの掌から衝撃波が至近距離で叩き込まれた。
鈍い炸裂音。
男の身体が横殴りに吹き飛ぶ。
だが、それとほぼ同時に、
背後の壁から別の能力者が飛び出した。
ルナの目がそちらを捉える。
白い羽が、ふわりと舞った。
柔らかな見た目とは裏腹に、
その一枚一枚は鋭い刃のように軌道を描く。
能力者の足元と両腕を正確に裂き、
勢いを殺したところへ、ルナ自身が踏み込んだ。
「ごめんね」
やわらかな声とともに、
羽が縄のように絡みつく。
白い拘束具に全身を縛られ、相手は床へ崩れ落ちた。
二人は止まらない。
次の敵が現れる前に、もう走り出している。
右から来ればツキが打ち払う。
死角から来ればルナが先に気づく。
ルナの羽が動きを止め、その隙にツキが一撃で制圧する。
ツキが前へ出すぎれば、ルナの羽が自然にその背を守る。
二人でアガスティアを追っていたあの頃のように、連携は驚くほど噛み合っていた。
通路の先でまた一人、暴走能力者が叫びながら飛び出してくる。
ツキが前へ出る。
だがその瞬間、足元へ広がった粘つく液体能力が動きを止めようとした。
先に反応したのはルナだった。
羽が低く走り、床一面へ薄く広がる。
白い羽毛が液体の表面を覆い、その流動を一瞬だけ封じる。
ツキはわずかに目を見開いたが、
次の瞬間にはもう踏み込んでいた。
「――っ」
短い吐息。
衝撃波が直撃し、能力者は後方の壁へ叩きつけられる。
静かになる。
ルナは少し息を切らしながら、
隣のツキを見た。
ツキの横顔には、まだ緊張が残っている。
けれど、さっきまでよりずっと自然だった。
ルナは小さく笑う。
「やっぱり、わたしたち」
少しだけ弾んだ声。
「並んで戦った方がお似合いだね」
ツキはすぐには答えなかった。
けれど前を向いたまま、
ほんの少しだけ口元を緩める。
「……ふ」
笑った、というには小さすぎる変化だった。
それでもルナには分かった。
その時だった。
別の通路から、複数の足音がこちらへ近づいてくる。
二人が同時に振り向く。
現れたのは、黒い制服の隊員たちを率いた御堂と、華澄だった。
「御堂隊長、薄氷先輩!」
ルナの顔がぱっと明るくなる。
だが次の瞬間には、その表情が引き締まった。
御堂は短く周囲を見渡し、
制圧された能力者たちを一瞥する。
「……順調そうだな」
「はい」
ルナが頷く。
「この先の暴走能力者は、だいたい片づきました」
華澄の視線は、すぐにツキへ向いた。
冷たいというより、測るような目だった。
御堂もまた、ゆっくりとツキを見る。
アガスティア教団のボスの娘。
その事実は消えない。
作戦に協力しているからといって、
罪が消えるわけでも、立場が軽くなるわけでもない。
今はただ、教祖への最短経路を知る者として自由を許されているだけだ。
ツキはその視線を正面から受け止めた。
逃げもしない。
反発もしない。
御堂が低く言う。
「教祖、天羅木幻一の元へ向かう」
それから一拍置いて、名前を呼んだ。
「案内しろ、天羅木ツキ」
その呼び方に、ルナが小さく息を詰める。
ツキは一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに顔を上げる。
「――はい」
その返事は短く、静かだった。
御堂は頷く。
「行くぞ」
「はい!」
ルナがすぐに応じる。
華澄は無言のまま、わずかに歩を進めた。
ツキが先頭に立つ。
その背に、ルナが迷いなく並ぶ。
少し後ろに御堂と薄氷、さらに秩序機関の隊員たちが続く。
回廊の先は、ひときわ静かだった。
戦闘音が遠のいていく。
施設全体が、何かを隠すように奥へ奥へと沈んでいる。
高い天井。
細長い窓。
擦れた古い装飾。
その下を這う新しい配線。
信仰と実験。
祈りと暴力。
相容れないものを無理やり縫い合わせたような空間が、最後の中心へ続いていた。
ツキの足取りが、わずかに重くなる。
ルナはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ただ隣にいる。
やがて前方に、巨大な両開きの扉が見えてきた。
他の区画とは明らかに違う。
装飾だけがやけに古く、まるで最初からこの施設の核として作られていたみたいな扉だった。
その前で、ツキが止まる。
「この先です」
声は静かだった。
けれど、その一言に含まれた重みは、誰にでも分かった。
ルナが小さく息を呑む。
御堂は扉を見据えたまま、
低く問う。
「間違いないな」
「……はい」
ツキの返答に迷いはなかった。
御堂は後方の隊員たちへ短く合図を送る。
華澄の周囲に、薄い硝子片が静かに浮かび始める。
ルナの羽も、音もなく背後へ展開した。
ツキは扉の前から半歩下がった。
それでも目は逸らさない。
扉の向こうにいるのは、教祖であり、父であり、
そしてもう戻れない場所へ行ってしまった男だ。
御堂が前へ出る。
「開けるぞ」
重い沈黙のあと、扉へ手がかかる。
その先にあるのは――教祖の間だった。
***
扉が開いた瞬間、
そこにいた全員が息を呑んだ。
「───!」
広い空間だった。
礼拝堂を思わせる高い天井。
奥へ向かって伸びる赤い絨毯。
両脇には古びた燭台と、崩れかけた石柱。
祭壇のような一段高い壇の上に、ひとりの男が立っている。
だが、皆の視線を奪ったのは、そこではなかった。
教祖の間へ先に到達していた何人かの黒服の隊員たち。
その隊員たちが、床に崩れていた。
倒れている、というより、
黒く侵され、途中で形を失ったような有様だった。
肉も骨も輪郭を失い、砂のように欠け落ちている。
床には黒ずんだ染みが広がり、砕けた装備の一部だけが、元は人間だったことをかろうじて示していた。
「……うそ……」
後ろの隊員のひとりが、小さく零した。
ルナの顔が強張る。
華澄は無言のまま目を細めた。
その表情は穏やかなままなのに、瞳の奥だけが冷え切っている。
御堂は前へ出た。
その横でツキの足が、わずかに震える。
壇上に立つ男――天羅木幻一は、ゆっくり娘を見下ろした。
深い色の礼装。
整った顔立ち。
年齢を感じさせない静かな威圧感。
その姿はひどく端正だった。
だからこそ、その足元に転がる黒い塊との落差が異様だった。
「……お父さん」
最初に声を出したのは、ツキだった。
ルナがはっとして隣を見る。
ツキは一歩、前へ出る。
その横顔は緊張でこわばっているのに、目だけは逸らしていなかった。
「もう、やめて」
その声は静かだった。
「こんなこと、続けても何にもならない」
幻一はしばらく何も言わなかった。
ただ、その視線がツキをなぞる。
値踏みするようでもあり、懐かしむようでもあり、
けれど最後には何の温度も残さない目だった。
「……何にもならない?」
幻一がようやく口を開く。
低く、よく通る声だった。
「本気でそう思っているのか、ツキ」
「……」
「お前も見ただろう」
幻一の視線が、教祖の間の天井近くへ向いた。
まるで、ここではないどこか遠い光景を見ているようだった。
「地が裂け、家屋が崩れ、人が潰れた」
「……」
「泣き叫ぶだけで何もできず、助けを求めるだけの群れ」
その声音は静かだった。
「弱い人間がいかに無価値か、お前も知っているはずだ」
ツキの唇が、わずかに震える。
地震。
あの日のことだ。
何もできず、ただ失うしかなかった時間。
あの無力感は、ツキの中にも今なお残っている。
だからこそ、一瞬だけ言葉が止まった。
けれど。
「……違う」
ツキは小さく首を振った。
その声はかすれていたが、はっきりしていた。
「お父さんは、そんなふうに言い切れる顔をしてない」
幻一の目が、わずかに細くなる。
ツキは続けた。
「私、知ってる」
「……」
「お父さんがいつも、女の子の写真を見つめてること」
ルナが息を呑む。
御堂も眉ひとつ動かさず、わずかに視線を寄せた。
ツキの声は静かだった。
「あれは……お父さんの本当の娘なんでしょ」
教祖の間の空気が、ほんのわずかに変わる。
後ろにいた隊員たちが緊張を強めるのが分かった。
ルナはツキの横顔を見つめる。
ツキは幻一から目を逸らさない。
「知ってるよ」
「……」
「いつも、苦しくて、悲しくて、辛そうだった」
その言葉が落ちた瞬間、幻一の表情がほんのわずかに揺れた。
怒りではない。
もっと深くて、ずっと古い傷が、不意に触れられた時みたいな揺れだった。
ツキは一歩、さらに前へ出る。
「……それが」
小さく息を吸う。
「淘汰したい存在に向ける目?」
幻一は答えない。
講堂のように広い教祖の間に、ひどく静かな沈黙が落ちる。
ツキはその沈黙を恐れなかった。
むしろ今、ここを越えなければ届かないと分かっていた。
「お父さんは、本当は信じたかったんでしょ」
その声は、祈るみたいにまっすぐだった。
「……弱い人間だって、生きてもいいって」
ルナの目が見開かれる。
「だから覚醒薬なんてものを作らせた」
ツキは続けた。
「弱い人も、見捨てたくなかったから」
その瞬間、御堂の視線がわずかに動いた。
覚醒薬。
能力を持たない者に、命を削ってでも一時的な力を与える薬。
それはたしかに、アガスティアの掲げる淘汰思想とは噛み合わない。
弱者に価値がないなら、わざわざ力を与える必要などない。
弱い者はそのまま切り捨てればいいはずだ。
なのに、幻一はそれをしなかった。
御堂の瞳の奥で、ひとつの像が形になる。
淘汰ではなく、救済。
否定ではなく、未練。
この男の思想の核には、最初から矛盾が埋まっていたのかもしれない。
幻一は、ゆっくりとツキを見下ろした。
「……見誤るな、ツキ」
声は静かだった。
だが先ほどまでより、わずかに低い。
「それは救済ではない」
「じゃあ何なの」
「選別だ」
ツキは首を振る。
「違う」
「違わない」
「違うよ!」
その声が、教祖の間に響いた。
ルナがはっとする。
それほど感情を露わにするツキを見るのは、初めてに近かった。
「見捨てたかったなら、最初からそんなもの作らない」
ツキの目には、もう迷いがなかった。
「本当は、お父さんだって分かってたはずだよ」
「……」
「弱いからって、生きる価値がないわけじゃないって」
その瞬間。
床が、微かに軋んだ。
御堂の表情が変わる。
華澄の周囲に、透明な硝子片が走る。
ルナの羽が一斉に開いた。
幻一の足元から、ぞわりと重い圧力が広がる。
怒り。
あるいは、触れられたくなかったものに手を伸ばされた時の、拒絶。
幻一の目が、初めて明確な熱を宿した。
「……黙れ」
低い声だった。
けれど、その一言だけで空気が沈む。
後方の隊員のひとりが膝をつく。
別の者が喉を押さえてうめいた。
御堂が即座に片手を上げる。
「下がれ」
短く鋭い命令。
「これ以上前に出るな」
「御堂先輩」
華澄が静かに呼ぶ。
「私が先に斬りますか」
「まだだ」
御堂は前を見たまま答える。
「今は動くな」
「承知しました」
その返事は従順だった。
だが華澄の指先には、すでに透明な硝子刃が生まれかけている。
彼女にとって“待機”とは、いつでも首を断てる位置で止まることと同義だった。
ルナはツキのすぐ隣へ並ぶ。
守るためというより、支えるために。
ツキはなおも幻一を見る。
「お父さん」
「その名で呼ぶな」
初めて、幻一の声に明確な苛立ちが混じった。
ツキは怯まない。
「私は、あなたに救われた」
「……」
「だから今度は、私が――」
そこまで言いかけた瞬間、
御堂の声が割って入る。
「天羅木ツキ、下がれ」
低く、しかし明確な命令だった。
ツキがはっとする。
御堂は前へ出る。
その横に、華澄が音もなく並ぶ。
ルナの羽がさらに広がり、教祖の間に白い気配が満ちる。
御堂の目は、もう完全に任務のものだった。
「これ以上は対話ではない」
静かな声。
「教祖天羅木幻一。ここで制圧する」
幻一は壇上からそれを見下ろし、
ほんのわずかに笑った。
その笑みは冷たく、そしてどこかひどく空虚だった。
「制圧、か」
薄く目を細める。
「お前たち程度にできると思うか」
その瞬間、
教祖の間の空気そのものが軋み始めた。
***
教祖の間の中心から、黒いものが滲み出していた。
最初は泥のように見えた。
けれど次の瞬間には、それは砂のようにざらつき、さらにその次には槍のように鋭く収束する。
黒い。
ただ黒いだけなのに、見ているだけで本能が拒絶するような色だった。
「下がってください!」
ルナの声と同時に、白い羽が前方へ広がる。
だが遅い。
黒の槍が、前へ放たれた羽に触れた瞬間、純白だったそれが一気に濁った。
じゅ、と嫌な音がする。
焼けるのではない。
溶けるのでもない。
朽ちるみたいに、羽そのものが黒く崩れて落ちた。
ルナの目が見開かれる。
「な……」
「触れないでください」
華澄が静かに告げる。
声は穏やかなままだった。
次の瞬間、空気がきらりと歪む。
教祖の間の前方に、透明な壁面が幾重にも立ち上がる。
薄い硝子の障壁だった。
一見すれば何もない。
だが黒泥が触れた箇所から光が乱れ、そこにあると分かる。
ぱき、ではない。
もっと嫌な音だった。
透き通っていた硝子が、内側から黒く濁る。
そこから細かなひびが走り、そのまま脆く砕け散った。
華澄の目が細くなる。
「……厄介ですね」
礼儀正しい声色のまま、彼女は前へ出た。
指先がわずかに動く。
空中に細い硝子片がいくつも生まれ、黒泥へ正確に差し込まれる。
裂く。
切る。
流れを断つ。
人間相手なら、それで十分だったはずだ。
だが黒泥は止まらない。
砕けた先からまた滲み、量で埋め戻してくる。
「再生……?」
ルナが息を呑む。
「再生ではない」
御堂が低く言う。
「最初から量が多い」
その言葉通りだった。
壇上の天羅木幻一の足元から、崩蝕物質は絶えず湧き続けている。
液体のように流れ、砂のように舞い、槍にも刃にもなる黒。
触れたら終わり。
その理不尽さだけが、異様なまでに明確だった。
ツキが踏み込む。
「……っ!」
衝撃波が正面から炸裂し、黒泥の層を吹き飛ばす。
だがその隙間も一瞬で埋まる。
左右から再び黒が寄る。
槍の形を取った崩蝕が、ツキの死角から迫った。
「ツキ!」
ルナの羽が広がる。
だが、間に合わない。
華澄が前へ出た。
「失礼します」
穏やかな声のまま、音もなくツキの前へ滑り込む。
空気に透明な硝子障壁が幾重にも重なり、黒槍の軌道を受け止める。
一枚目が砕ける。
二枚目が黒く濁る。
三枚目が崩れる。
その瞬間、御堂が前へ出た。
「下がれ」
短く鋭い声。
華澄とツキをまとめて引き、自分がその前に立つ。
同時に放たれた光の矢が、黒槍の芯を穿つ。
軌道がわずかに逸れる。
――だが、殺しきれない。
砕けた黒泥の飛沫が、御堂の左前腕に散った。
ほんの一滴。
それだけだった。
だが次の瞬間、制服の袖口が黒く濁る。
「御堂隊長――!」
ルナが息を呑む。
御堂は顔色ひとつ変えなかった。
ただ一度だけ、自分の左腕を見た。
黒はもう、布の上で静かに広がり始めている。
判断は一瞬だった。
「切れ」
低い声。
その一言が落ちた時には、華澄はもう動いていた。
「はい」
返事も短い。
右手に生まれた硝子刃が、音もなく伸びる。
迷いはなかった。
肩の少し下。
黒が胴体へ届く前に、斜めに一閃。
鮮血が散る。
切断された左腕が床へ落ちるより早く、
付着していた崩蝕物質がそこから一気に侵食し、腕そのものを黒く崩した。
さらさらと。
砂のように。
人の一部だったものが、あまりにもあっけなく砕けていく。
教祖の間が一瞬、静まり返る。
ルナの顔が青ざめる。
ツキも息を失ったように固まっていた。
華澄だけが、切り下ろした姿勢のまま動かない。
その瞳は静かだった。
静かすぎるくらいに。
御堂の切断面から血が落ちる。
そこでようやくルナが我に返った。
「……っ、御堂隊長!」
白い羽が広がる。
治癒の光が、失われた左腕の根元を包み込む。
華澄はすぐに一歩下がった。
だが視線だけは御堂から離さない。
「止血を優先します」
穏やかな声だった。
「以後、左側の補助は私が担当します」
御堂は短く息を吐く。
「任せる」
「はい」
そのやり取りは静かだった。
静かなまま、異様だった。
左腕を失った直後とは思えないほど、
二人とも声を乱していなかった。
だが、誰の目にも明らかだった。
触れたら終わりだ。
盾も。
羽も。
硝子も。
隊長クラスの判断ですら、無傷では済まない。
幻一の足元で、黒い泥がまたひとつ波打つ。
それを見た瞬間、教祖の間にいた全員の背筋を、冷たいものが走った。
御堂が口を開く。
「総員、認識を改めろ」
低く、鋭い声だった。
「掠めた時点で終わりだ。防御は成立しない」
誰も返事をしない。
返事をするまでもなく、全員が分かっていた。
この敵は、今ここにいる誰よりも、
ずっと単純で、理不尽だった。
***
御堂は左腕の断面をルナの治癒に預けたまま、短く息を吐く。
もう弓は引けない。
少なくとも、この場で以前と同じ精度は望めない。
だが、その目はまだ死んでいなかった。
「俺は後方に下がる」
御堂が言う。
「指揮は続ける。華澄」
「はい」
「前衛の軸を任せる」
「承知しました」
華澄は穏やかに頷いた。
その声色はいつも通り落ち着いている。
だが、透明な硝子片がすでにその周囲を静かに巡り始めていた。
「ルナは治癒と後衛支援。ツキは前に出すぎるな」
「はい」
「……はい」
「黒泥の起点は壇上中央だ。だが単発では本体まで届かない。攻撃は必ず二重、三重に重ねろ」
その時だった。
脇扉の向こうから、轟音が響く。
次の瞬間、扉が内側から吹き飛んだ。
砕けた木片と石粉の向こうから、
二つの影が飛び込んでくる。
「朝日奈先輩!」
ルナが息を呑む。
青白い火花を散らしながら、朝日奈零が着地した。
その隣に、灰薔薇が静かに立つ。
朝日奈は教祖の間をひと目見渡し、表情を強張らせた。
床に残る黒い塊。黒服の隊員たち。
後方で指揮を飛ばす御堂と、その命令に即座に応じる華澄。
「……御堂会長?」
「薄氷先輩も……?」
灰薔薇の目も、わずかに細くなる。
ふたりがただの生徒会役員ではないことは、
もはや説明の余地もなかった。
「貴様ら……」
灰薔薇が低く呟く。
御堂はルナの治癒を受けながら、一瞬だけ二人へ視線を向けた。
左腕はすでになく、切断面だけが白い光に包まれている。
だが、その目は冷静だった。
「説明は後だ」
短く、それだけ言う。
「今は前を見ろ」
その声に、朝日奈ははっとしたように顔を上げる。
次の瞬間、幻一の足元で黒泥が大きく波打った。
「来るぞ」
灰薔薇が低く言う。
驚きも、疑問も、全部飲み込むしかない。
朝日奈は短く息を吸い、掌に雷を灯した。
「……後で聞くぞ、生徒会長!」
「生きていれば答える」
御堂は即座に返した。
華澄は何も言わない。
ただ静かに硝子片を展開し、すでに次の攻撃に備えていた。
次の瞬間、黒の槍が一斉に放たれた。
「散開!」
御堂の声が飛ぶ。
教祖の間にいた全員が、反射的に動いた。
華澄の前に、透明な硝子片が幾重にも走る。
空中に薄い板が斜めに差し込まれ、黒槍の軌道だけを逸らす。
ルナの羽が後衛の隊員たちを包むように広がり、ツキは身を低く沈めて正面へ衝撃波を叩き込む。
朝日奈も踏み込んだ。
「はあっ!」
掌から青白い雷が奔る。
灰薔薇の足元からは灰が這い出し、床を舐めるように前方へ広がった。
一斉攻撃。
本来なら、どれかひとつ当たるだけでも相手を崩せるだけの圧だった。
だが――届かない。
朝日奈の雷が黒泥へ触れた瞬間、光そのものが砕けた。
打ち消されたのではない。
弾けるように、粒になって散った。
「なっ……!」
朝日奈の目が見開かれる。
ほとんど同時に、華澄の硝子刃も黒に触れた先から濁った。
透明だった刃先が、墨を流したみたいに黒く染まり、
そのまま細かくひび割れて砕け落ちる。
ツキの衝撃波だけは、正面の流れを一瞬だけ押し開いた。
黒泥の層が左右へ割れ、壇上までの細い道ができる。
「今!」
ルナが叫ぶ。
朝日奈が踏み込む。
灰薔薇の灰も、その裂け目へ流れ込む。
だが次の瞬間には、もう埋まっていた。
左右から寄った黒泥が、さっきまでの隙間を何事もなかったみたいに塞いでしまう。
灰は包み込んだ先から侵され、
ざら、と乾いた音を立てて崩れた。
灰薔薇の眉がわずかに寄る。
「……量が多すぎる」
後方の隊員たちも攻撃を重ねる。
光弾が飛ぶ。
鎖が伸びる。
圧縮された風が前方を削り取るように走る。
けれど結果は同じだった。
当たる。
触れる。
崩れる。
それだけだ。
壇上の幻一は一歩も動かない。
ただ足元から黒泥を溢れさせながら、
こちらの攻撃が届く前に、すべてを呑み込んでいく。
「まずいな……」
御堂が低く言う。
「このままでは防戦一方だ」
その声に、誰も返せなかった。
分かっていたからだ。
攻めても届かない。
防ごうとしても、盾ごと崩れる。
避け続けるしかない。
その現実が、もう全員の動きに影を落としていた。
その時だった。
右後方にいた隊員のひとりが、一歩だけ前へ出た。
「隊長、このままじゃ――」
言い終わるより先に、
床を這っていた黒泥が跳ね上がった。
黒い飛沫みたいだった。
あまりにも速くて、最初は何が起きたのか分からない。
次の瞬間、隊員の右足首に黒が貼りついていた。
「……え」
本人が、ぽかんとした声を漏らす。
その一拍のうちに、足首から先が黒く濁った。
靴が崩れる。
布が崩れる。
その内側の肉も、骨も、形を保ったまま砂みたいに落ち始める。
「う、あ……っ」
隊員の膝が折れる。
だが倒れるより早く、侵食は脛へ、膝へ、腿へと駆け上がっていった。
「うあああああっ!!」
絶叫が教祖の間に響く。
隣にいた別の隊員が反射的に手を伸ばす。
「おい!」
肩を掴む。
「触るな!」
御堂の声が飛ぶ。
けれど、遅い。
掴んだ手の指先に、黒が移る。
隊員の表情が凍る。
「っ……!」
今度は手からだった。
指先が黒く濁る。
皮膚が崩れる。
手の甲が、手首が、肘まで一気に侵される。
二人分の悲鳴が重なった。
ルナが思わず前へ出る。
羽が開きかける。
けれど足が止まる。
治癒しても追いつかない。
触れれば自分まで呑まれる。
それが分かってしまったからだ。
「……っ」
ルナの喉が詰まる。
二人の隊員は、もう人の形を保てなかった。
脚から、腕から、胸へ。
黒が走る。
輪郭が崩れる。
さらさらと、砂のように床へ落ちていく。
最後に残ったのは、ひしゃげた装備の一部と、
人の形をした黒い塊が二つだけだった。
静まり返る。
誰も、すぐには動けなかった。
ルナが息を呑む。
ツキの顔が強張る。
朝日奈の目も、はっきり揺れた。
誰も助けられない。
その事実が、場の空気をさらに一段深く冷やした。
壇上の幻一の足元で、黒泥がまたひとつ波打つ。
終わりが見えない。
攻めても届かない。
防いでも崩れる。
触れたら死ぬ。
その理不尽だけが、静かに全員を追い詰めていた。
「……っ」
ツキが、わずかに唇を噛む。
父を見つめる目に、迷いが走る。
あの男は敵だ。
分かっている。
目の前で隊員たちが崩れていくのも見た。
それでも、なお。
父だった。
その瞬間。
幻一の足元で、黒泥がひときわ大きく脈打った。
壇上から溢れていた崩蝕物質が、
今度は床を這うだけではなく、内側から圧を持って膨れ上がる。
「……っ」
華澄の目が細くなる。
「形が変わります」
次の瞬間。
黒泥が爆ぜた。
槍のように前へ伸びるだけではない。
無数の飛沫となって、上へ、横へ、一気に噴き上がる。
天井へ。
柱へ。
割れた高窓の縁へ。
黒い泥とも砂ともつかないものが、
教祖の間の高い位置一帯にべったりと張りついた。
全員が一瞬、動きを止める。
嫌な静寂だった。
そして、その一拍のあと。
天井から、黒い粒が落ちた。
ぽつ。
またひとつ。
それはすぐに数を増やす。
高所に付着した崩蝕物質が、
今度は重さに耐えきれなくなったように、
ぽたぽたと垂れ、さらさらと零れ、
やがて雨みたいに降り始めた。
「上です!」
ルナが叫ぶ。
「散開しろ!」
御堂の声が飛ぶ。
黒い雨が降る。
ざあ、と。
ただの液体ではない。
砂のように細かく、泥のように粘り、
触れたものをその場で侵す死の雨だった。
華澄の硝子片が上方へ走る。
透明な膜が何枚も重なり、降ってくる黒粒の一部を受ける。
だが、触れた先から濁る。
ひびが走る。
一枚、二枚、三枚。
あっという間に砕け散る。
ルナの羽が後衛を包むように広がる。
朝日奈が雷を足へ流して急加速し、ツキの腕を掴んで強引に引く。
灰薔薇の灰が上へ噴き上がり、黒雨の一部を包み込む。
だが、包んだ先から灰ごと崩れた。
「ちっ……!」
灰薔薇が舌打ちする。
一粒。
二粒。
三粒。
黒い雨が床へ、壁へ、隊員たちの肩口へ降り注ぐ。
後方で誰かが叫んだ。
「避けろ!!」
「下がれ! 下が――」
言葉の途中で、声が途切れる。
振り向いたルナの目に映ったのは、
肩へ落ちた黒粒を払おうとして、その腕ごと崩れていく隊員の姿だった。
「……っ!」
そこから一気だった。
幻一を中心に噴き上がった崩蝕物質は、
床だけではなく、教祖の間全体を侵食し始めていた。
柱の上部に張りついた黒が垂れる。
高窓の縁に、黒がじわじわと溜まっていく。
御堂の顔が険しくなる。
「外へ落ちるぞ」
その一言で、全員の表情が変わった。
教祖の間だけでは収まらない。
このままでは、外で戦っている隊員たちにも降る。
「止めろ!」
御堂が叫ぶ。
「少しでも上への拡散を抑えろ!」
朝日奈の雷が高窓付近へ奔る。
華澄の硝子板が上方の亀裂を塞ごうと立ち上がる。
灰薔薇の灰が梁を這い、黒の流れへ横から絡みつく。
だが止まらない。
黒はなおも幻一を中心に増殖し、
高く、高く噴き上がり、
そこからまた雨になって落ちる。
そして、その一部はついに高窓の外へ零れた。
黒い雨が、外へ落ちる。
***
施設の外縁部、その外。
搬出口らしき広い通路を抜けた先、
半ば崩れた荷捌き場のような空間で、藤野たちは別の暴走能力者を制圧していた。
砕けたコンテナ。
傾いた照明塔。
むき出しの鉄骨。
そしてすぐ目の前には、黒々とした施設の外壁がそびえている。
「……はっ」
藤野が短く息を吐く。
少し離れた場所では、さっきまで暴れていた能力者が隊員たちに取り押さえられていた。
その隣で、凪沙が肩で息をしながら顔を上げる。
「今の、だいぶ危なかったね」
「のんびりしてる場合じゃない」
藤野が言う。
「中の音、さっきから変だ」
たしかに、妙だった。
壁一枚隔てた向こうで続いている戦闘音に混じって、
さっきから別の音がしている。
軋み。
崩落。
そして――
何かが擦れ合い、流れ落ちるような、ざらざらした不快な音。
藤野が眉をひそめた、その時だった。
「……え?」
凪沙が小さく声を漏らす。
見上げた先。
すぐ目の前の施設の上部、搬出口の庇と外壁の継ぎ目あたりから、
黒いものが夜気の中へ噴き上がっていた。
泥のような。
砂のような。
光を吸うみたいな、異様な黒。
それは一度、空へ散る。
そして次の瞬間には、夜空から落ちてくるみたいに、二人の上へ降り始めた。
「避けろ!!」
藤野が凪沙の袖を掴んで引き寄せる。
黒の飛沫が、さっきまで二人のいたコンクリート床へ降り注いだ。
じゅ、と嫌な音がする。
床が一瞬で黒く濁り、
そこからぼろぼろと崩れ落ちた。
藤野の目が見開かれる。
「……何だよ、これ」
答える者はいない。
だが、考えるまでもなかった。
中で何かが決壊した。
しかも、ただの能力じゃない。
触れたら終わりだと、本能が即座に理解する種類の何か。
さらに、もう一波。
施設の上から噴き上がった黒が、
今度ははっきりと雨の形を取った。
ざらざらと、空そのものが崩れ落ちてくるみたいに、
黒い雨が降り始める。
「フジくん……!」
凪沙の声が強張る。
藤野は手袋を脱ぎ捨て、むき出しの両手を前へ突き出した。
落ちてくる黒の一滴。
それが凪沙の肩へ届くより先に、
触れたその部分だけを水に変える。
黒が水へ崩れる。
だが次の瞬間、別の一滴。
また別の一滴。
さらにその次。
量が多すぎる。
触れた場所だけを変えても、追いつかない。
藤野の喉が詰まる。
間に合わない。
このままじゃ、どれかひとつが凪沙に当たる。
後ろには凪沙がいた。
逃がす時間もない。
抱えて飛び退くにも、もう遅い。
――絶対に死なせない。
その瞬間、
藤野の脳裏に、あの路地裏の光景が蘇る。
白瀬。
朝日奈。
逃がさなければならない一瞬。
あの時、自分はどうやっていた。
触れたところだけじゃなかった。
輪郭が解けるみたいに、
境界が失われるみたいに、
あの路地の空間そのものが水へ変わった。
どうやったのかなんて、理屈は覚えていない。
ただ必死だった。
朝日奈を逃がすことだけを考えていた。
けれど――今も同じだ。
やるしかない。
藤野は両手を、降り注ぐ黒い雨へ向かって突き出した。
「……っ」
呼吸が浅い。
鼓動がうるさい。
頭の奥で、何かがきしむ。
それでも、止めない。
「──フジくん!!」
凪沙の声が背中で震える。
たのむ……!!
その瞬間。
空間そのものが、見えない何かに触れられたみたいに揺らいだ。
降り注いでいた黒い雨が、
藤野と凪沙の周囲だけで、ふっと質を失う。
黒が、ほどける。
泥でも砂でもなくなる。
境界をなくして、
ただの水へ変わっていく。
ざあ、と音がした。
死を運んでいたはずの黒い雨が、
二人の周囲だけで透明な水となって降り注ぐ。
コンクリートを打つのは、ただの雨音だった。
「……!!」
凪沙が息を呑む。
藤野は両手を突き出したまま、歯を食いしばっていた。
腕が軋む。
視界が揺れる。
けれど止めたら終わると分かっている。
黒い雨はなおも、すぐ目の前の施設上部から噴き上がり、夜空で散って、二人の上へ降り続ける。
けれど藤野と凪沙の周囲へ入った瞬間だけ、
空間ごと干渉されたみたいに、
すべてが水へ変わっていく。
「……フジくん……」
凪沙の声は、驚きと、息を呑むような何かで震えていた。
***
凪沙は目を見開いたまま、
目の前の光景を見つめていた。
黒が水に変わる。
一滴ずつではない。
自分たちを包む空間ごと、性質そのものが書き換えられているみたいだった。
「フジくん」
声をかける。
けれど藤野は返事をしなかった。
できなかった。
両手を突き出したまま、
歯を食いしばっている。
肩が震えていた。
腕も、指先も、小さく痙攣している。
額から汗が伝う。
夜気は冷たいはずなのに、呼吸は熱く荒い。
凪沙はそこでようやく気づいた。
これ、たぶん。
すごく無茶をしている。
「フジくん!」
凪沙は思わず身を乗り出す。
「大丈夫!?」
「……へいき」
「全然平気そうじゃない!」
藤野の声は掠れていた。
目の焦点がわずかに揺れている。
それでも視線だけは、降り続く黒い雨の向こうを睨みつけていた。
止めれば終わる。
そのことだけで、どうにか立っているような顔だった。
どれくらいそうしていただろうか。
やがて、黒い雨の勢いが少しずつ弱まっていく。
ざらざらと降っていた黒が、粒の数を減らし、
やがて、ぽつ、ぽつ、と間遠になる。
藤野はなおも両手を下ろさなかった。
完全に止まったことを確認するまで、わずかにも気を抜けなかった。
最後の一滴が、二人のすぐ横で水に変わって落ちる。
それを見届けて、ようやく。
藤野の腕が、ゆっくり下がった。
「っ、……は……」
膝が折れかける。
凪沙が慌ててその肩を支えた。
「フジくん!」
「……大丈夫」
「全然大丈夫じゃない!」
藤野は荒い息のまま、施設の方を見る。
夜の中で、巨大な外壁は変わらずそこにある。
けれど内側で何かが決壊したことだけは、もう疑いようがなかった。
「中で……何か起きてる」
凪沙も同じ方を見る。
「うん……」
「しかも、たぶん相当やばい」
近くでは、黒い雨から逃れていた隊員たちがようやく動き出していた。
負傷者を引きずり、安全な位置へ運んでいる。
その中には、逃げきれずに崩れた者もいる。
現場はまだ混乱のただ中だった。
凪沙はその様子を見て、藤野へ向き直る。
「フジくん」
「ん」
「わたし、隊員さんたちの方に行く」
藤野の目がわずかに動く。
「一人じゃ動けない人もいるし、ここにいたらまた降ってくるかもしれない」
「……ああ」
「だから、少し離れた場所まで連れていく」
藤野は短く頷いた。
それが正しいと、すぐに分かった。
自分のそばにいさせる方が危ない。
また黒い雨が来たら、今度も守り切れる保証はない。
凪沙は続ける。
「フジくんは」
その先を言いかけて、少しだけ唇を噛む。
「……やっぱり、行くの?」
藤野は黙ったまま、視線を落とす。
このまま外にいても、中にいる朝日奈たちを助けられない。
さっきの感覚が、まだ両手に残っている。
空間ごと水へ変えた、あの無茶な干渉。
たぶん今なら、中でも少しは道を作れる。
「……行かないといけない」
低く言った。
凪沙の目が揺れる。
けれど、止めなかった。
止めても無駄だと分かってしまったからだ。
その代わり、小さく息を吸って言う。
「じゃあ約束して」
「……」
「ちゃんと帰ってきて」
藤野は少しだけ視線を逸らす。
怖くないわけじゃない。
むしろかなり怖い。
でも、行かないという選択肢はもうなかった。
「……帰る」
今度はちゃんと言う。
「絶対、とは言わないけど」
「言って」
「……帰るよ」
凪沙はそれを聞いて、ようやく少しだけ笑った。
でも目はまだ不安で揺れている。
「うん」
「隊員の人たちと離れろ」
「うん」
「また降ってきたら、すぐ逃げろ」
「うん」
「無理すんな」
「それ、そっくりそのまま返す」
藤野は苦く息を吐く。
凪沙は最後に一歩だけ近づいて、
それから小さく言った。
「フジくん」
「ん」
「ヒーロー、してきて」
藤野は一瞬だけ目を見開く。
それから、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「柄じゃないな」
そう言って、
施設の方へ向き直る。
凪沙はすぐに踵を返し、近くの隊員たちの方へ駆けていった。
負傷者に肩を貸し、他の者へ安全圏まで下がるよう声をかけている。
それを横目で確認してから、
藤野はむき出しの両手を見る。
まだ行けるかは分からない。
でも、行くしかない。
朝日奈がいる。
灰薔薇も、ルナも、ツキも、中にいる。
「……待ってろ」
誰へ向けたのか、自分でも分からないまま呟く。
そして藤野は、施設の中へ向かって駆け出した。
***
教祖の間。
もう、限界だった。
床には黒い染みと、砕けた石片と、血が散っている。
崩れた隊員たちの残骸が、まだ人の形をかろうじて留めたまま転がっていた。
朝日奈は肩で息をし、雷の火花ももう細い。
灰薔薇の灰は何度も崩され、足元に鈍い色で積もっている。
ルナの羽は裂け、白よりも傷の色の方が目立っていた。
ツキも膝をつきかけ、衝撃波の出力は明らかに落ちている。
華澄は片腕を失った御堂を支えるように位置を取り、それでも前を見据えていた。
御堂は後方から指揮を飛ばし続けている。
それでも、押し返せない。
壇上の幻一の足元から、
黒い泥が、砂が、槍が、絶え間なく溢れ続けている。
終わらない。
削られる一方だ。
御堂が低く息を吐く。
「……下がれ」
声は冷静だった。
けれど、そこに混じる疲労までは隠しきれていない。
「これ以上は持たない」
誰も反論しない。
できなかった。
その時だった。
幻一の前で、黒が大きく脈打った。
これまでとは違う。
槍でも、刃でも、雨でもない。
濁流だった。
壇上から溢れた崩蝕物質が、
一気に質量を持った塊となってうねる。
泥であり、砂であり、
それでいて生き物みたいに脈動している。
教祖の間の中央から、
隊員たちのいる後方へ向けて、
滝のように押し寄せてきた。
「――っ!」
ルナの羽が広がる。
華澄の硝子片が走る。
朝日奈が雷を起こす。
灰薔薇の灰が床を這う。
ツキが衝撃波を放つ。
けれど、分かっていた。
止まらない。
受ければ崩れる。
触れたら終わる。
終わる。
誰もが、そう思った、その時だった。
教祖の間の入口から、
ひとりの少年が駆けつけた。
「――藤野くん」
朝日奈が目を見開く。
息を切らし、手袋もなく、
それでも藤野はまっすぐ前を見ていた。
そのまま誰より前へ出る。
御堂の前を。
華澄の前を。
朝日奈たちの前を。
黒い濁流と味方たちのあいだへ、
迷いなく歩いていく。
「待て、藤野くん!」
御堂が叫ぶ。
「下がれ! 触れたら――」
藤野は止まらない。
一歩。
また一歩。
押し寄せる死を前にして、
ただ静かに前へ出る。
そして。
右手を、前へかざした。
その瞬間。
空間が、揺れた。
目には見えないはずの何かが、
そこだけ静かに歪んだみたいだった。
押し寄せてきた黒い濁流が、
藤野の手の先で、ふっと輪郭を失う。
「――!!」
誰かが息を呑む。
泥でも、砂でもなくなっていく。
侵すための形を失って、死の色を失って、
そのまま透明な水へ変わった。
ざあっ、と音がした。
崩蝕物質だったはずの黒が、一斉に水しぶきとなって弾ける。
教祖の間に、透明な飛沫が舞った。
ルナも、ツキも、朝日奈も、灰薔薇も、思わず息を呑む。
後方の隊員たちも、その光景を前に言葉を失っていた。
その光景は、あまりにも異様だった。
なのに誰も、目を離せなかった。
藤野は右手をかざしたまま、前を見ている。
押し寄せる濁流は止まらない。
けれど藤野の前へ入った瞬間だけ、
そのすべてが境界を失い、透明な水へと書き換わる。
黒い滝が、水の滝へ変わる。
死が、ただの水音になる。
「……藤、野……」
朝日奈が、信じられないものを見る声で呟く。
灰薔薇の目が細くなる。
ルナの羽が、わずかに震える。
ツキは何も言えないまま、ただ藤野の背を見つめていた。
御堂だけが、最初に我に返った。
「……総員、彼の後ろへ下がれ!」
鋭い声が飛ぶ。
「今だ、立て直せ!」
その声で、止まっていた時間が動き出す。
華澄が即座に位置を取り直す。
ルナが負傷者を庇うように羽を広げる。
朝日奈は藤野のすぐ後方へ踏み込み、雷を掌に灯した。
灰薔薇の灰が低く這い、ツキも息を整えながら前を見据える。
けれど藤野だけは、まだ前を見ていた。
右手をかざしたその姿勢のまま、
ただ黒を、水へ変え続けている。
「……通すかよ」
その声は小さかった。
小さいのに、誰よりもはっきり響いた。




