第27話 あの日、残ったもの
朝日奈たちと別れ、灰薔薇は扉を抜ける。
その先にもまた、石の回廊が伸びていた。
この施設は、いくつもの通路が複雑に入り組んでいるらしい。
目の前に、炎の能力者がいた。
揺らめく火。
熱を孕んだ空気。
焦げつくような臭い。
その男が立っているだけで、回廊の温度がじりじりと上がっていくのが分かる。
灰薔薇は足を止めた。
目の前で、炎が揺れている。
熱を孕んだ空気が、じりじりと肌を焼く。
「……よりによって、火か」
炎の向こうで、男が口元を歪める。
その色が、灰薔薇の記憶を焼いた。
赤。
橙。
黒く崩れる柱。
息が詰まるほどの熱。
――あの日だ。
***
灰薔薇燐には、幼なじみがいた。
小柄で、たれ目がちで、
笑うと少しだけ頬がやわらかくなる、かわいらしい女の子だった。
重役の息子。
ただそれだけの肩書きのせいで、燐の周囲には最初から距離があった。
表向きは取り繕っていても、子どもというのは残酷なほど分かりやすい。
遠慮と、警戒と、打算。
そういうものが、幼い頃から自然と見えてしまっていた。
だから、友達と呼べる相手はその子だけだった。
「燐くん」
いつもそう呼んでくれた声を、今でも覚えている。
花冠を作った日。
木陰でぼんやり空を見上げた日。
大したこともない話を、延々と続けた午後。
燐にとって、あの子と過ごす時間だけが、
世界の中でちゃんと息ができる時間だった。
その日は、彼女の屋敷でかくれんぼをしようという話になった。
先に隠れるのは彼女だった。
「ふふ、ちゃんと見つけてね。待ちぼうけはいやだよ」
「わかってるって。さっさと行きなよ」
笑いながら駆けていく背中を見送る。
燐は鬼だった。
だから、見つけなければならなかった。
約束したから。
けれど、なかなか見つからない。
屋敷の廊下を歩き、階段を上り、部屋を覗いていく。
気配はある気がするのに、どこにもいない。
その時だった。
火が上がった。
最初は遠くの明かりみたいに見えた。
けれど次の瞬間には、それが台所から噴き上がった炎だと分かった。
誰かが叫ぶ。使用人たちが駆ける。熱気が一気に広がる。
燐は腕を掴まれた。
「逃げろ!」
「でも、まだあの子が――」
「このままでは巻き込まれるぞ!!」
強引に引きずられる。
けれど燐は諦めたくなかった。
見つけると約束した。
だから、見つけなければならない。
燐は大人の腕を振り払い、そのまま屋敷の中へ駆け戻った。
「――っ!」
名前を呼ぶ。
返事はない。
炎が壁を舐める。
天井が軋む。
煙が喉を焼く。
それでも、探した。
部屋を開ける。廊下を走る。階段を上がる。
また名前を呼ぶ。
返事はない。
視界がだんだん霞んでいく。
熱と煙で、意識が遠のく。
それでも見つけなければと思った。
待ちぼうけはいやだと、あの子は笑っていたから。
そして――そこで意識は途絶えた。
目が覚めた時には、病院だった。
後から知った。
あの子は床下の小さな物置に隠れていたこと。
すぐに炎が出口を塞ぎ、出られなくなっていたこと。
ほとんど原型も残らないほど、焼き尽くされてしまったこと。
焼け落ちた屋敷の前で、
燐はただ立ち尽くしていた。
「……」
黒く崩れた柱。
崩落した屋根。
灰だけになった庭先。
そこに、もうあの子はいない。
「……ごめん」
声が、出なかった。
喉が焼けついて、まともに息も吸えない。
「……ごめん……っ」
俺が見つけられなかったから。
苦しい思いをさせた。
待ちぼうけにした。
もし、先に自分が隠れると言っていたら。
もし、もっと早く見つけられていたら。
もし、あの時。
いくら考えても、もう遅かった。
会いたい。
もう一度だけ。
その時だった。
崩れた灰の中から、
黒い影が起き上がったように見えた。
ざあ、と音がする。
風もないのに、灰が揺れる。
「……」
燐は顔を上げた。
その灰の輪郭は、まるで小さな女の子みたいだった。
よろめきながら近づいてくる。
細い腕を伸ばしてくる。
燐は息を呑んだ。
「……」
名前を呼ぼうとして、声にならなかった。
その灰の影が、燐を抱きしめるみたいに腕を伸ばし――
次の瞬間、腕の中で崩れた。
さらさらと、何もかもがこぼれ落ちていく。
「……っ、行かないでくれ」
その日からだった。
燐が灰を操れるようになったのは。
灰を動かせる。
集められる。
形にできる。
けれどそれは、能力というより、ずっと奇妙な感覚だった。
――本当に、自分が操っているのか。
灰に触れるたび、胸の奥で同じ考えがよぎる。
これは、あの子の灰なんじゃないか、と。
そんな感覚が、ずっと消えなかった。
あの日以来、
世界への苛立ちと、諦めと、無関心だけが残った。
大嫌いだった。
こんな世界も。
守れなかった自分も。
大事なものは、腕の中で崩れ去るだけだ。
それなら、もう何に期待しても仕方がない。
能力が発現してからは、灰黒重工へ定期的に通わされた。
研究協力だとか、経過観察だとか、そういう名目で。
別に、どうでもよかった。
そこで、あの白い男に出会った。
しばらくして指示された。
朝日奈零を監視しろ、と。
そして白い男に報告しろ、と。
どうでもよかった。
命令されたなら従うだけだ。
だが、心のどこかで興味があった。
朝日奈零。
唯一研究所から脱走した個体。
灰黒重工の最高傑作。
この目で見てみたかった。
どんな化け物か。
どれほど歪んでいるのか。
どれほど壊れているのか。
結果は、完敗だった。
それでも朝日奈零は、自分を追い払わなかった。
理解できなかった。
あんな過去を持ちながら、どうしてあいつはあんなふうにまっすぐ立っていられるのか。
この世界に、そんな価値があるはずないだろう。
そう思っていた。
……けれど。
××部で過ごすうちに、
藤野や朝日奈や白崎のそばにいる時間が、
自分でも驚くくらい、嫌いではなくなっていた。
踏み込めない。
完全には混ざれない。
それでも、もうどうでもいいとは思えなかった。
***
目の前に、炎の能力者がいる。
相手は火。
こちらは灰。
相性は最悪だ。
そのはずなのに、灰薔薇は静かに目を細めた。
揺らめく炎の向こうで、男が肩を鳴らす。
「どうした」
炎が低く笑う。
「怖じ気づいたか?」
灰薔薇は短く鼻を鳴らした。
「まさか」
「ならいい」
男は腕に炎を纏わせる。
「焼かれて終われ」
熱気が一気に膨れ上がる。
回廊の空気が揺らぐ。
壁に残っていた古い装飾が、ぱき、と小さく音を立てた。
灰薔薇はその炎を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。
この炎を越えることは、ただ目の前の敵を倒すことじゃない。
あの日の火を越えることだ。
守れなかった記憶を。
腕の中で崩れた灰を。
何もできなかった自分を。
そのすべてを、越えていく。
灰薔薇の足元で、鈍色の灰が静かに広がった。
靴底の下から這い出るように、床をなぞり、壁を舐め、
空気の中へ細かな粒子が漂い始める。
男の目が細くなる。
「……は」
口元が歪む。
「面白い」
炎が膨れ上がる。
それに応じるみたいに、灰がざわりと鳴く。
灰薔薇は一歩、前へ出た。
「燃やしてみろ」
その声は低く、静かだった。
「今度は、消させない」
次の瞬間。
炎が走る。
同時に、灰の波が床を這い、二つの力が真正面からぶつかった。
轟、と音がした。
爆ぜる火粉。
巻き上がる灰。
回廊の空気が一瞬で飽和し、熱と煤が視界を濁らせる。
灰薔薇はすぐに横へ跳んだ。
次の瞬間、さっきまで立っていた床を炎の奔流が舐め上げる。
石床が赤く焼け、遅れてひびが走った。
「……っ」
熱い。
ただ熱いだけではない。
皮膚の表面を舐めるような生ぬるい火ではなく、
骨の内側まで焼きに来るような熱だった。
男が笑う。
「灰ごときで火を止められると思ったか?」
「止めるなどと言った覚えはない」
灰薔薇は低く返す。
「……むしろ、貴様は燃やしすぎだ」
足元から灰がせり上がる。
床を覆っていた黒灰が、細い槍のように何本も立ち上がり、
男の足元へ一斉に走った。
炎の能力者は舌打ちし、腕を横薙ぎに振るう。
炎の壁。
灰の槍は触れた瞬間に焼け、
ぼろぼろと崩れて落ちる。
「無意味だな」
男が嗤う。
「灰は所詮、燃えたあとの残り滓だ」
「……」
「火に勝てる道理がない」
その言葉が、妙に耳に残った。
残り滓。
燃えたあとのもの。
灰薔薇の足が、一瞬だけ止まる。
その隙を逃さず、男が踏み込んだ。
炎を纏った拳が振り下ろされる。
灰薔薇はとっさに身を捻るが、避けきれない。
肩口を掠めた熱だけで、制服の布が焼け、皮膚が爛れる。
鈍い痛み。
遅れて、焼けるような熱。
「っ……」
男の蹴りが腹に入る。
灰薔薇の身体が壁へ叩きつけられた。
石壁が割れる。
肺から空気が抜ける。
「どうした」
炎の能力者がゆっくり近づいてくる。
「さっきの威勢は」
灰薔薇は壁に手をつき、血の混じった息を吐いた。
目の前で炎が揺れている。
赤い。
熱い。
喰らいつくような色。
――あの日の火だ。
焼け落ちる屋敷。
崩れる柱。
煙。
熱。
間に合わなかった呼吸。
灰薔薇の目の前で、炎がわずかにぶれた。
その向こうに、幼い日の光景が重なる。
探しても、探しても見つからなかった背中。
名前を呼んでも返らなかった声。
腕の中で崩れていった灰。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
男はそれを怯えと受け取ったらしい。
口元を歪めた。
「思い出でもあるのか?」
「……」
「そうだろうな。そういう顔だ」
炎が男の腕を這い上がる。
まるで生き物みたいに、ゆらゆらと肩まで広がっていく。
「火を恐れる目だ」
低い笑い。
「焼かれた記憶でもあるんじゃないか?」
灰薔薇の指先が、ぴくりと動いた。
灰が足元で揺れる。
だが、まだまとまらない。
男は見下ろしたまま続けた。
「ならちょうどいい。もう一度、目の前で燃やし尽くしてやる」
「黙れ」
声は低かった。
けれど、わずかに掠れていた。
男が眉を上げる。
「聞こえなかったな」
「黙れと言った」
灰薔薇はゆっくり顔を上げる。
その目には、怒りより先に、
自分でもどうしようもなかった古い痛みが滲んでいた。
男はそれを見て、ますます嗤う。
「図星か」
「貴様に」
灰薔薇は壁から身を起こす。
「……あの日をなぞられる筋合いはない」
足元の灰が、ざわりと鳴いた。
男が踏み込む。
今度は両腕から炎を噴き上げ、真正面から叩き潰しに来る。
灰薔薇は退かない。
炎が目前まで迫る。
熱で睫毛が焦げる匂いがする。
皮膚が悲鳴を上げる。
それでも一歩も引かなかった。
「また守れないと思ったか?」
男の声が炎の向こうから響く。
その瞬間、
灰薔薇の中で何かが静かに切り替わった。
守れなかった。
そうだ。
あの日、自分は何もできなかった。
見つけられなかった。
届かなかった。
抱きしめることもできず、最後には灰しか残らなかった。
だからどうした。
今も同じだと、誰が決めた。
灰薔薇の足元から、
灰が一気に噴き上がる。
炎とぶつかるのではない。
包む。
渦を巻く灰が炎の周囲を取り囲み、
流れを乱し、酸素ごと呑み込むように圏を狭めていく。
男の目が見開かれた。
「なに……」
「灰は」
灰薔薇の声は、驚くほど静かだった。
「燃えたあとの終わりじゃない」
炎がぶれる。
灰が火を消すのではなく、火が立つための空間そのものを侵食していた。
視界が黒く霞む。
熱の流れが読めなくなる。
火の勢いが、わずかに鈍る。
灰薔薇は前へ出る。
「残ったものだ」
その一歩に合わせて、灰の密度が増す。
「喪われたあとでも、ここにあるものだ」
男が舌打ちし、力任せに炎を爆ぜさせた。
回廊の両壁へ熱波が叩きつけられる。
灰の一部が焼け、吹き散る。
だが全部は消えない。
消えた先から、また湧く。
床の隙間。
砕けた壁材。
自分の後ろに残った焼け跡。
あらゆる場所から黒灰が立ち上がり、
男の周囲をぐるぐると回り始める。
「っ……鬱陶しい!」
男が拳を振り抜く。
炎の鞭がうなりを上げて走る。
灰薔薇は半歩下がってそれを避ける。
頬を熱が掠める。
すぐ横の石壁が溶けるように焼け爛れる。
それでも灰薔薇の目は、もう揺れていなかった。
あの日の火は消えない。
記憶も消えない。
喪失も、後悔も、きっと一生消えない。
でも。
それを見た瞬間に立ちすくむだけの自分は、
もう終わりにしたかった。
男が再び炎を振り上げる。
その動きに合わせて、灰薔薇は指をわずかに動かした。
黒灰が、一斉に沈む。
「……?」
男の眉が寄る。
次の瞬間、床を這っていた灰が男の足首に絡みついた。
細く、柔らかく、頼りなく見えたそれが、
一気に密度を増す。
「なっ」
引き剥がそうとした瞬間には遅かった。
灰は足元だけではない。
背後にも、頭上にも、壁にも天井にも回り込んでいる。
逃がさないための配置。
熱を奪い、視界を断ち、呼吸を鈍らせるための檻。
男が炎を爆発的に膨らませる。
だが、灰薔薇はその真正面へ踏み込んだ。
「貴様は火しか見ていない」
「……っ!」
「だから浅い」
灰が、男の右腕へ集中する。
炎を纏ったその腕を、
肘から先ごと黒灰が包み込む。
一瞬、炎が燃え上がる。
けれど燃えるほどに周囲の酸素が削がれ、
熱の逃げ場が失われ、火勢が不自然に鈍った。
男の目が、初めて明確な焦りに揺れる。
灰薔薇はその懐へ入り込む。
「俺は」
低い声だった。
「もう、あの日の俺じゃない」
右手を振るう。
灰の塊が槌のように収束し、
男の腹部へ叩き込まれる。
鈍い衝撃。
男の身体が浮き、後方の柱へ激突した。
石柱がへし折れ、炎が大きく揺らぐ。
「が、っ……!」
追撃。
灰薔薇は止まらない。
床を蹴る。
足元の灰が噴き上がり、背を押す。
二撃、三撃。
灰で形を与えた質量の塊が、
男の炎の間合いへ踏み込むたび、重く、鋭く叩き込まれる。
男はなおも炎を放とうとする。
だが灰が先に腕へ絡み、肩へ絡み、喉元近くまで這い上がる。
「くそ、っ……離れろ!」
「離れない」
灰薔薇は静かに言う。
「今度は」
男の首元で、灰が刃のように尖る。
「見失わない」
その声が落ちた瞬間、
灰の刃が男の喉元すれすれで止まった。
ぴたり、と。
あと数ミリで裂ける距離。
男の炎が、そこで完全に止まる。
講堂の外から遠く轟音が響く。
別の場所では、まだ戦いが続いているらしい。
だがこの回廊だけは、妙に静かだった。
灰薔薇は男を見下ろす。
男の顔には、怒りより先に動揺があった。
自分の火が押し負けたことが信じられない、そんな顔だ。
灰薔薇は淡々と言う。
「終わりだ」
「……殺さないのか」
「興味がない」
「……っ」
「それに」
「作戦の目的は制圧だ」
その時だった。
回廊の奥から、秩序機関の隊員たちが駆けてくる足音が響いた。
「灰薔薇さん!」
灰薔薇は振り向きもせず、短く告げる。
「生きている。拘束しろ」
男はそれ以上動かなかった。
灰薔薇はゆっくり手を下ろす。
それに従って、男を取り囲んでいた灰も崩れ、床へ落ちた。
さらさらと。
燃え尽きたあとの雪みたいに。
回廊に残るのは、焼けた石の臭いと、まだ少し熱を持つ空気だけだった。
灰薔薇はそこで、ようやく小さく息を吐く。
肩口が痛む。
頬も熱い。
肺の奥にまだ焦げたような空気が残っている。
けれど、足は止まらなかった。
足元の灰を見下ろす。
鉛色。
汚れている。
触れればすぐに崩れる。
それでも、さっき確かに自分の意思で動いた。
あの日、腕の中で崩れていったものとは違う。
同じ灰でも、今は違う。
「……見ていたか」
誰へともなく、そう呟く。
返事はない。
当然だ。
それでも、ほんのわずかだけ、
昔より呼吸がしやすい気がした。
灰薔薇は顔を上げる。
講堂の方角から、まだ微かに重い衝撃音が響いてくる。
朝日奈零と玲緒。
あちらもまだ終わっていない。
「まったく……」
灰薔薇は小さく鼻を鳴らした。
「世話の焼ける連中だ」
そう言って、焼け跡の残る回廊を再び走り出す。
灰がその足元に寄り添うように追い、
炎の残り香だけが、その背を遠く見送っていた。




