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第26話 零と玲緒

施設内部は、外から見た以上に広かった。


石造りを模した壁面。

高い天井。

礼拝堂にも、研究施設にも見える歪な造り。

通路のあちこちに古びた装飾が残っているくせに、足元には新しい配線や金属板がむき出しになっている。


信仰と実験が、無理やり同じ場所に押し込められたような空間だった。


朝日奈と灰薔薇は、先行する秩序機関の隊員たちに続いて内部へ突入していた。


すでに各所で戦闘が始まっている。


鈍い破砕音。

能力の炸裂する閃光。

短い怒号。

どこかで誰かが壁へ叩きつけられる音。


曲がり角の先では、黒い制服の隊員が暴走能力者を二人がかりで抑え込んでいた。別の通路では、薬で強化されたらしい男が床を這うように飛びかかり、それを隊員のひとりが光の縄で縛り上げる。


朝日奈は廊下を蹴りながら、その光景を横目で流した。


「派手にやっているな」

「感想を述べている場合か」

すぐ隣を走る灰薔薇が冷たく返す。

「貴様、前を見ろ。右」


言われるまま反射的に身を沈める。


次の瞬間、右手の部屋から飛び出してきた能力者の腕が、朝日奈の頭上を薙いだ。鋭く伸びた骨のような突起が壁を削る。


朝日奈はそのまま床に手をつき、低い姿勢から相手の懐へ潜り込む。


「邪魔だ!」


掌から青白い火花が爆ぜる。


電流を帯びた一撃が相手の腹部に突き刺さり、男の体が大きく痙攣した。

そのまま壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。


灰薔薇は振り返りもしない。


「遅い」

「今のは十分速かっただろう!」

「無駄口が多いと言っている」

「相変わらず嫌なやつだな君は!」


言い合いながらも、二人の足は止まらない。


作戦上、朝日奈たちの役目は幹部格能力者の制圧だ。

前線で暴れている一般暴走能力者の相手は秩序機関の一般隊員が担っている。こちらが引っかかっている暇はない。


だが、朝日奈の意識は、最初から別の一点に引っ張られていた。


幹部格の制圧。

それは建前だ。


本当に探しているのは、ひとりだけ。


兄さん。


胸の奥で、その言葉だけが熱を持つ。


期末テストの勉強会以来、兄はあからさまに朝日奈から距離を取るようになった。

見向きもされなくなった。

避けられていると分かるほどに、はっきりと。


何か事情があったのか。

何を抱えていたのか。


止めなくてはいけない。


本当なら、もっと早く向き合うべきだったのかもしれない。

聞くべきことがあった。

言うべきこともあった。


けれど、もう遅い。


いまさら綺麗な話し合いで済むはずがないことくらい、朝日奈にも分かっていた。


「……今は、兄さんだ」


走りながらこぼれた声を、灰薔薇が聞きとがめる。


「何か言ったか」

「いや」


朝日奈は短く答える。


嘘だった。

今は、ではない。

最初からずっと、そうだった。


通路を曲がる。

さらに奥へ進む。

崩れた壁の向こうから、別の隊員たちが交戦する気配が伝わってくる。


施設の内部は入り組んでいるのに、不思議とひとつの大きな中心へ収束していくような感覚があった。

まるでこの建物そのものが、重要なものを奥へ、奥へと隠しているみたいだった。


回廊に出る。


長く伸びた石の廊下。

高い位置に並ぶ細い窓から、冬の淡い月光がわずかに差し込んでいる。


その先に、人影があった。


朝日奈の足が止まる。


彼は、そこにいた。


朝日奈玲緒。


深紅の礼服に身を包んだ兄が、回廊の奥に静かに立っていた。

場違いなほど華やかな色なのに、その姿は妙にこの空間に馴染んでいる。

それがかえって、朝日奈には嫌だった。


兄はずいぶん痩せて見えた。

頬の線が鋭く、目の下には薄い影が落ちている。

立ち姿そのものは崩れていないのに、表情は暗く淀んでいた。


こちらを見つけた瞬間、その目が明らかに変わる。


驚き。

憎悪。

そして、言いようのない焦りにも似たもの。


それらが一瞬で入り混じる。


玲緒の唇が、ゆっくりと吊り上がった。


「……くく」


喉の奥で、低い笑いが漏れる。


「お前は来ると思っていたよ、零――」


その呼び方に、朝日奈の表情が硬くなる。


玲緒の隣には、もうひとりいた。


長身の男。

黒を基調にした装束の上から、深紅の布を肩にかけている。

肌のあちこちには古い火傷の痕のようなものが走り、視線だけがぎらついていた。


ただ立っているだけで空気が熱を帯びる。


おそらく、幹部クラス。


灰薔薇もすぐにそれを察したらしい。

わずかに目を細め、前へ出る。


「あちらは俺が引き受ける」

朝日奈は兄から目を離さないまま言う。

「すまない」

「礼を言うな。気持ちが悪い」

「……変わらないな、君は」


その短いやり取りを聞いていたのか、玲緒の隣の男が口元を歪めた。


「随分と余裕だな」

熱を含んだ低い声だった。

「弟の方を庇うつもりか?」

「違う」

灰薔薇が淡々と言う。

「貴様が目障りなだけだ」


「……まあいい。仲良く兄弟喧嘩させてやろう、玲緒」


次の瞬間、空気が揺れた。


男の足元から噴き上がるように炎が走る。

それに応じるように、灰薔薇の足元から黒灰が波のように広がった。


熱と灰。


ぶつかる前から相性の悪さが分かる。


灰薔薇は一度も朝日奈を見ないまま、低く言い捨てた。


「死ぬなよ」

「そっちこそ!」

「ふん」


男が炎を纏った腕を振るうのと同時に、灰薔薇が横へ跳ぶ。

二つの影は回廊の脇にある大扉を蹴破り、そのまま別の空間へなだれ込んでいった。


轟音が響く。


扉の向こうで、すぐに次の衝突音が続く。

熱風が一瞬だけ流れ込み、朝日奈の頬を撫でた。


残されたのは、ふたり。


朝日奈零と、朝日奈玲緒。


回廊の先には半ば崩れた大講堂が続いていた。

高い天井。

割れたステンドグラス。

奥には祭壇のような一段高い壇があり、青白い月光が斜めに差し込んでいる。


二人はほとんど無言のまま、そこへ足を踏み入れた。


がらんと開けた空間だった。


足音だけが、やけに大きく響く。


向かい合って立つと、嫌でも分かる。

兄は変わった。

見た目だけじゃない。

纏う空気そのものが、もう昔とは違っていた。


それでも、面影は残っている。


自分を見下ろしていた目。

いつも少しだけ厳しくて、少しだけ遠かった声。

褒められた記憶はほとんどない。

それでも、他人を踏みつけるような人ではなかったはずだと、朝日奈はまだどこかで信じていた。


その全部が、目の前の男に繋がっている。


玲緒が先に口を開いた。


「変わらないな、お前は」

「……何がだ」

「その目だよ」


玲緒はわずかに笑う。


「まっすぐで、愚かで、諦めが悪い」

「兄さん」

朝日奈は低く呼ぶ。

「どうしてここにいる」

「今さらそんなことを聞くのか?」

「聞いているんだ」


玲緒はすぐには答えなかった。


講堂の天井近くで、風が割れた窓を鳴らす。

その音だけが、一瞬ふたりのあいだに落ちた。


やがて玲緒は、わずかに首を傾ける。


「どうして、か」


その声音は静かだった。

けれど、その静けさがかえって不穏だった。


「この教団の教義そのものには、虫唾が走る」

「……」

「強い者が上に立ち、弱い者には価値がない。ずいぶんと下品で、安っぽい理屈だ」

「だったら、どうして――」

「だが」


玲緒は朝日奈の言葉を静かに遮る。


「力のある側にとって都合がいいのは事実だ」

「兄さん」

「綺麗事よりは、よほど分かりやすい」


朝日奈は眉を寄せた。


玲緒は薄く笑う。

その笑みには昔のような余裕がなく、どこか擦り切れたものが混じっていた。


「もっとも、俺がここにいる理由は教義への共感じゃない」

「……」

「お前を潰すためだよ、零」


朝日奈の表情が強張る。


「……は?」

「この力は、そのために手に入れた」

玲緒は静かに言う。

「お前みたいな、眩しくて目障りな光を地に堕とすための力だ」


朝日奈の喉がわずかに上下する。


玲緒の目が細くなる。


「……お前はいつも、勝手に人の中へ踏み込んでくる」


朝日奈は眉を寄せたまま、玲緒を見つめる。


「昔は、何もできないくせに人に縋るだけだった」

「……」

「今は少し力を持ったから、今度は勝手に救う側の顔をする」


朝日奈は何も言わない。


「そういう顔を見ると、思い出すんだよ」

玲緒の口元がゆっくり歪む。

「昔のお前を」


その言葉に、朝日奈の目がわずかに揺れた。


「弱いくせに、一丁前に誰かを見て。助けたいだの、守りたいだの」

玲緒の声は静かだった。

「……反吐が出る」


大講堂の空気が、わずかに軋んだ。


朝日奈はそれに気づいた。

床の細かな砂が、ふるふると震えている。

砕けたガラス片が、ありえないほどゆっくりと玲緒の足元へ引きずられていく。


重い。


まだ何もされていないのに、空気の密度だけが変わり始めていた。


「兄さん、やめろ」

「やめる?」


玲緒は笑った。

その笑いは、あまりに乾いていた。


「何をだ」

「こんなこと、兄さんらしくない!」

「らしい、だと?」


その瞬間。

玲緒の表情から笑みが消える。


「お前に、何が分かる」


低く落ちた声に、朝日奈の足が止まる。


「家で守られて、外では友人に庇われて、都合のいい時だけ真っ直ぐな顔をしているお前に」

「……っ」

「何が分かる」


朝日奈は思わず拳を握る。


目の前の兄は、確かに玲緒だった。

顔も、声も、立ち方も。

けれど内側に渦巻いているものは、もう抑えきれないほど膨れ上がっている。


「オレは」

朝日奈は低く言った。

「兄さんが、何を抱えてるのか全部は分からない」

「当然だ」

「でも」

朝日奈は顔を上げる。

「薬で命を削ってまで、こんなことをしていいはずがない!」


玲緒の目が、ほんのわずかに見開かれた。


その一瞬だった。


朝日奈が床を蹴る。

青白い火花が足元で弾け、一気に間合いを詰める。


玲緒は動かない。


だが、朝日奈の身体が踏み込んだ瞬間。

講堂の空気が、目に見えない手で押し潰されたみたいに沈んだ。


「っ――!」


全身が急激に重くなる。


肩に、背に、膝に。

見えない鉄塊が何枚も叩きつけられたみたいだった。


床がめきりと鳴る。

朝日奈の靴裏が石を削り、勢いが一気に殺される。


玲緒はその場から一歩も動かない。


「これが今の俺だ」


その声だけが、異様に静かだった。


朝日奈は歯を食いしばる。

全身に電気を走らせ、無理やり筋肉を動かす。


「兄さん……!」

「来いよ、零」

玲緒の唇が歪む。

「お前の言うヒーローらしく」


朝日奈は掌を突き出す。


雷光。


青白い電撃が一直線に奔る。

だが玲緒の目の前で、その軌道は不自然に沈んだ。


叩き落とされるように床へ引かれ、石床を裂いて火花を散らす。


轟音。

砕けた石片が跳ね散った。


朝日奈の目が見開かれた。


「何だ、今の……」

「分からないか?」

玲緒は片手を上げる。

その周囲で、空気が陽炎みたいに揺らいでいた。


床に散った金属片が、じり、と引き寄せられる。

砕けたステンドグラスの破片が、祭壇の前でかすかに浮き上がり、また落ちる。


「堕ちるんだよ」

玲緒は言う。

「何もかも」


次の瞬間。

講堂全体の重力が、さらにひとつ深く沈んだ。


朝日奈の膝が落ちる。


「ぐ、っ……!」


石床に亀裂が走る。

肩の関節が軋む。

肺が押し潰されるみたいに息が浅くなる。


玲緒はゆっくり歩き出した。

その一歩ごとに、朝日奈の周囲の空気は重くなる。


「《落陽》──太陽すら引きずりおとす重力」


「地に堕ちろ、零」

「兄さん……!」

「お前みたいなやつは、最初から空なんか見上げるべきじゃなかった」


朝日奈は無理やり顔を上げる。


玲緒の礼服の裾が、重い空気の中でほとんど揺れない。

その姿は、異様に静かで、異様に強かった。


「弱くて、泣き虫で、何もできなかった」

玲緒の声が講堂に響く。

「そんなお前が、どうして今さらそんな顔をする」


朝日奈は答えず、床に手をつく。

指先から火花が走る。

全身に電気を巡らせ、重圧の中で筋肉を無理やり引き起こす。


玲緒の目が細くなった。


「まだ立つのか」

「立つ!」

朝日奈は唸るように言った。

「兄さんを止めるまでは!」


玲緒の顔から、最後の薄い笑みも消えた。


「止める?」

その声は低い。

「お前が俺を?」

「そうだ!」

「……そうか」


その瞬間、玲緒の背後で空気が歪み、崩れた石柱が宙に浮いた。


重力そのものに掴まれて、持ち上げられたみたいに。


朝日奈の目が鋭くなる。


「兄さん!」

「見せてやるよ」


玲緒が手を振る。


石柱が叩き落とされる。


とっさに朝日奈が横へ跳ぶ。

だが重圧で動きは鈍い。

砕けた石塊が肩を掠め、床へ転がった。


鈍い痛み。

制服が裂ける。


朝日奈はすぐに立ち上がる。

立ち上がりながら、雷を足元へ走らせ、一気に加速した。


玲緒はそれを冷ややかに見た。


「速さだけか」


次の瞬間。

朝日奈の進路の空気が、ぐにゃりと沈む。


身体ごと、下へ引きずり落とされる感覚。


「っ!」


朝日奈は空中で姿勢を崩し、半ば叩きつけられるように着地した。


玲緒の能力圏に入った瞬間、速度が殺される。

ただ重いだけじゃない。

動きそのものが、地面へ吸われていた。


「兄さん……!」

「お前の雷は、地へ落ちる」

玲緒は言う。

「どれだけ走っても、最後は地を這うだけだ」


朝日奈は息を吐く。

掌を開く。

再び雷光を放つ。


今度は一発ではない。

複数の電撃を時間差で撃ち出し、軌道を散らす。


青白い閃きが講堂を裂く。


だが、そのすべてが、玲緒の目前で不自然に沈んだ。


床に。

壁に。

柱へ。


まるで空間そのものに斜面を作られたみたいに、電流が勝手に道を変えられていく。


「……なっ」


朝日奈の表情が歪む。


玲緒はその顔を見て、ほんのわずかに口元を上げた。


「ようやく気づいたか」

「何をした」

「大したことじゃない」


玲緒の周囲で、微かな火花が散る。

空気が低く唸っていた。


「重力は、あらゆるものを引き寄せる」

玲緒は淡々と言う。

「場が歪めば、落ちる先も変わる」

「……」

「お前の雷は、もう俺の前では好きに走れない」


朝日奈は息を呑む。


電気に勝つための力。


その言葉が、遅れて脳裏をよぎる。


玲緒は最初から、自分を叩き落とすための力を手に入れたのだ。


「どうした、零」

玲緒の声が降る。

「お前の得意な電気は」

「……っ」

「その程度か」


次の重圧が来る。


朝日奈はとっさに両腕を交差させる。

目に見えない塊が全身を打ったみたいに、身体が後方へ弾き飛ばされた。


石床を削りながら滑る。

肺から息が抜ける。

背中に鈍い衝撃が走る。


「が、っ……!」


玲緒は立ったまま、朝日奈を見下ろしていた。


「やはり変わらないな」

「……何がだ」

「守られる側だということだ」


朝日奈の目が揺れる。


玲緒はゆっくりと、その言葉を噛み締めるみたいに続けた。


「昔もそうだった」

「……」

「今もそうだ」


講堂の高みで風が鳴る。

割れたステンドグラスから差し込む淡い月光が、玲緒の深紅の礼服を鈍く染めていた。


「お前はいつも、誰かに庇われてばかりだ」

玲緒の声音は静かだった。

「そして、自分が救う側になれると勘違いしている」


朝日奈はゆっくり立ち上がる。

足元はふらついた。

それでも目だけは逸らさない。


「兄さん」

「ああ?」

「オレは」

朝日奈は息を整える。

「たしかに、庇われてきた」

「……」

「でも、それでも」

握った拳に青白い火花が散る。

「今は、兄さんを止めたい」


玲緒の表情が、わずかに歪んだ。


怒りか、嘲りか、あるいは別の感情か。

自分でも分からない色だった。


玲緒の顔から、最後の薄い笑みも消えた。


「その顔が、気に入らないんだよ」


重力場がさらに強まる。

講堂の床が低く唸り、祭壇の上の石像がひび割れる。


朝日奈は息を呑んだ。


玲緒の目は、たしかにこちらを見ている。

けれどその奥には、もっと別のものが揺れていた。


***


八年前――


「うっ……ひっく……うっ……」


弟が泣いていた。


まただ、と玲緒は思った。

こいつはいつも泣いている。


弱いくせに、何もできないくせに、ただ肩を震わせて耐えているだけだ。


「はぁ……勉強もだめ、運動もだめ、芸術もだめ。零、お前はいったい何ができるんだ?」

「うっ……ひっく……ごめんなさい……」


「……まったく、将来が不安だよ」

「……うっ、ひ、ヒーロー……」

「はあ?」


「ヒーローに……なるんだもん……っ」

「………は?」


その目が嫌いだった。


何もできないくせに、どうしてそんなふうに眩しいものを見上げるのか分からなかった。

見ていると、苛立った。

落ち着かなかった。

自分の知らないものを、あいつだけが信じているみたいで、腹が立った。


弱くて、泣き虫で、何もできない。

頭も悪くて、足も遅い。


そのくせ一丁前にヒーローなんかに憧れて、まっすぐ前を見ようとする。


そんな姿が、どうしようもなく癇に障った。


やがて父は、零を灰黒重工へ預けると決めた。

価値を与えるためだ、と言っていた。


その言葉の意味を、玲緒は深く考えなかった。

考えたくもなかった。


ただ、せいせいしたと思った。

やっと離れられる、と。


父に腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして車へ乗せられていく零を、玲緒は遠くから見ていた。


――あの時の顔は、今でも忘れられない。


「……に、兄さん……っ」


見るな。

そんな顔で俺を見るな。


「た、たすけて、兄さん……っ」


その声に、玲緒の足がほんの一瞬だけ止まった。


けれど、動けなかった。


「……っ」


助けを求めるな。


玲緒は背を向けた。

そのまま自室へ駆け込み、扉を閉める。

耳を塞いだ。


知らない。

あいつが弱いからいけないんだ。

あいつが、何もできない役立たずだから。


そう思おうとした。


そう思ってしまえば、楽だったから。


***


その記憶だけが、喉に刺さった棘みたいに残っている。


だから零を見るたび、腹が立つ。


あいつにじゃない。


――守れなかった自分にだ。


玲緒の指先が、わずかに震える。


だが次の瞬間には、それすら押し潰すように手を振り下ろした。


「役たたずが!!!」


重力が爆ぜた。


講堂の天井近くに浮いていた石塊も、祭壇の装飾も、割れた窓枠も、すべてが一斉に朝日奈へ叩き落とされる。


空間そのものが潰れてくるみたいな圧力。


朝日奈は目を見開く。

逃げきれない。


――だが、その瞬間だった。


玲緒の足元で、床が大きく軋んだ。


怒りに任せて広がりすぎた重力が、わずかに制御を外れる。

浮いていた巨大な石材のひとつが軌道を逸らし、玲緒自身の真上へ傾いた。


「……っ」


玲緒の目が揺れる。


朝日奈は考えるより先に動いていた。


青白い雷光。

電気をまとった身体が、重力圏の中を無理やり跳ぶ。


玲緒の前へ滑り込み、そのまま全身で兄を庇う。


轟音。


落下した石材が砕け散り、衝撃が講堂全体を震わせた。


朝日奈の背へ、肩へ、破片と重圧が容赦なく叩きつけられる。

膝が折れる。

口の端から血が落ちる。


玲緒は目の前の背中を、ただ見ていた。


自分へ向かってきた破滅を、零が受けた。


その事実だけが、異様に鮮明だった。


守られる側になるつもりなんてなかった。


見下していたはずだった。

叩き潰すはずだった。

今度こそ、自分が上だと証明するはずだった。


なのにまただ。


あの日と同じだ。


結局、自分は何もできないまま、目の前で誰かに背負われる。


玲緒の呼吸が乱れる。


――役たたず。


さっき吐き捨てたその言葉が、遅れて自分の内側へ突き刺さる。


その一瞬、

《落陽》の圧がほんのわずかに緩んだ。


朝日奈はそれを感じた。


今しかない。


もう雷は撃たない。

撃てば逸らされる。

落とされる。


なら――


「兄さん」


朝日奈は血を吐きながら、低く言った。


「オレは――地を這わない」


全身の神経へ、一気に電気を流し込む。


視界が研ぎ澄まされる。

音が遠ざかる。

筋肉の一本一本が、焼けるみたいに悲鳴を上げる。


《閃駆》───脊髄反射すら追い越す超加速。

筋繊維を電気で最適化し、身体そのものを弾丸へ変える。


痛みが何倍にも膨れ上がる。

視界の端が白く焼ける。

それでも朝日奈は止まらない。


玲緒の目が見開かれた。


朝日奈の姿がぶれる。

残像が幾筋にも重なり、複数の零が一斉に重力圏へ飛び込んだように見える。


玲緒は反射的に圧を増す。

だが、本体を見極めるのが一瞬だけ遅れる。


その隙だった。


床の金属板に走った電流が、一直線の導線を描く。


朝日奈の身体が、雷鳴とともに射出される。


電磁加速。


重力に堕とされる前に、

空を跳ねる雷の一撃。


玲緒の重力場を真正面から貫き、朝日奈の拳がその懐へ届く。


衝撃。


「────ッ!!!」


玲緒の身体が宙へ浮く。

次の瞬間、祭壇前の石床へ激しく叩きつけられた。


重力場が乱れる。

講堂を覆っていた圧が崩れ、割れたガラス片や石塊が一斉に床へ散った。


朝日奈も、その場に膝をつく。


「っ、……は……!」


全身が痺れていた。

神経が焼き切れそうな痛み。

視界が二重に揺れる。

吐き気と血の味が喉にせり上がる。


それでも、倒れない。


玲緒の方を見る。


瓦礫の向こうで、兄がかすかに身じろぎする。


朝日奈はふらつく足で近づいた。


崩れた祭壇の前。

砕けた石片の中に、玲緒は仰向けに沈んでいた。

深紅の礼服は裂け、頬に血が伝っている。

呼吸は浅い。

それでも意識は残っていた。


朝日奈は兄のそばにしゃがみ込む。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


先に口を開いたのは、玲緒だった。


「……すまない、零……」


その声は弱く、かすれていた。


朝日奈は一瞬だけ目を伏せる。

それから、小さく笑った。


「いいよ、兄さん。オレはヒーローだからな」


玲緒の唇が、かすかに歪む。

笑ったのか、痛みに顔をしかめたのか分からない。


朝日奈は続ける。


「……でも」

「……」

「その言葉を向ける相手は、オレじゃない」


玲緒の眉がわずかに寄る。


「記憶がないって話だろ」

かすれた声で言う。

「そんなの、分かって――」

「ちがう」


朝日奈は静かに首を振る。


「オレは、兄さんの知ってる“零”じゃない」

「……なにを」

「だから」

朝日奈は兄をまっすぐ見る。

「ちゃんと、その人に言ってやってほしい」


玲緒の目が揺れる。


意味が分からない、という顔だった。

当然だと朝日奈も思う。


それでも、今はこれ以上言えない。


講堂の外では、まだ戦いの音が続いていた。

遠くで炎が爆ぜ、どこかで金属が軋む。


朝日奈は立ち上がろうとして、膝から崩れかける。


「おい」

玲緒がかすかに声を出す。

「零」

「……へいきだ」

「嘘をつくな」


朝日奈は苦笑した。


「兄さんが言うのか、それ」


玲緒は答えなかった。

ただ、目を閉じる前に、ひどく疲れた顔で小さく息を吐く。


その横顔は、戦いの前より少しだけ年相応に見えた。

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