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第30話 君が星になった日

作戦は終わった。


アガスティア教団は壊滅。

暴走能力者も幹部も鎮圧され、残党の掃討も進んでいた。


藤野の能力は危険視された。

あの場で見せた力は、秩序機関にとっても到底看過できるものではなかった。


だが、即時拘束には至らなかった。


教祖・天羅木幻一の制圧において、藤野の力が甚大な貢献を果たしたこと。

そして、母を水に変えてしまった件についても、朝日奈の強い弁明があり、事故性が高く、決定的な証拠にも欠けていたこと。

それらを踏まえ、現時点では断定不能と判断された。


結論として、藤野は“監視対象”となった。


朝日奈玲緒は、一旦秩序機関の保護下に置かれた。

暴走薬の使用と教団への加担、その両方を無視はできない。


それでも、以前とは違った。


後日、朝日奈が面会に行った時。

鉄格子越しでもなく、拘束具もなく、ただ簡素な部屋で向かい合った兄は、もうあの日みたいな目をしていなかった。


「なんだその顔は」

玲緒が言う。

「久しぶりに会った兄に向ける顔じゃないだろう」

「いや、兄さんがそんなこと言うんだなって思って」

「……可愛くないな」

「はは」


少し沈黙があって、朝日奈が椅子の背にもたれる。


「なあ、兄さん」

「なんだ」

「今度時間があったら、ヒーロー映画を一緒に見にいかないか」

玲緒は一瞬だけ黙った。


それから、ほんのわずかに目を逸らして言う。


「……考えておく」


それだけだった。

でも朝日奈は、なぜか少し嬉しそうに笑った。


***


夜は静かだった。


アガスティア教団壊滅戦のあと。

焼け跡の匂いも、血の匂いも、まだ空気の奥に残っている。


恋羽ルナは、その瓦礫の近くにひとり座っていた。


少し離れた場所で、藤野と凪沙はしばらく立ち尽くしていた。

声をかけるべきなのかもしれない。

何か言うべきなのかもしれない。


けれど、どんな言葉も今は違う気がした。


軽い慰めは届かない。

励ましも、たぶん傷になる。


藤野はやがて低く言った。


「……いまは、そっとしておこう」

「……そうだね」


凪沙も小さく頷く。


二人はそれ以上何も言わず、その場を離れた。


ルナは、ひとり夜の底に沈んでいた。


白い羽は、もう出していない。

出せなかった。


片翼を広げる意味が、今はどこにもなかった。


ツキが死んだ。


その事実だけが、何度考えても現実の形を取らないまま、胸の奥を圧し潰していた。


助けるつもりだった。

守るつもりだった。

ずっと。


なのに結局、何もできなかった。


まただ、と思う。


飛行機事故の時もそうだった。

自分だけが生き残った。


今度もそうだ。


大事な誰かがいなくなって、

自分だけが残る。


「……っ」


声にもならない息が漏れる。


泣く力すら、もうあまり残っていなかった。


ルナはゆっくり顔を上げる。


夜空が広がっていた。


黒く澄んだ空の高いところに、星がいくつも瞬いている。

冷たくて、遠くて、手を伸ばしても届かない光だった。


空は飛ぶためのものだった。

ルナにとって、ずっとそうだった。


けれど今は、飛び立つためではなく、

ただ喪ったものが遠すぎると知るためだけに、そこにあった。


「こんなところにいたんだね」


静かな声がした。


ルナは反応が少し遅れた。


足音は聞こえなかった気がする。

でも声だけが、ひどく自然にそこへ落ちてきた。


視線を向ける。


知らない男が立っていた。


白い服。

穏やかな顔。

夜の中でも、不思議と輪郭が曖昧にならないまま、そこにいる。


ルナはすぐに立ち上がれなかった。


ただ、その男を見た。


「……誰」


掠れた声で問う。


男は少しだけ目を細める。


「初めまして」

穏やかな声だった。

「白瀬という」


その名に覚えはない。

けれど、名乗り方だけが妙に自然だった。


まるで前から知っている相手に話しかけるみたいに。


ルナの指先がわずかに強張る。


「……何の用」

「君に話があって来た」


君。


その呼び方にも引っかかる。


知らない相手のはずなのに、

白瀬は最初から距離の取り方を決めているみたいだった。


ルナは目を伏せる。


「わたしに……?」

「うん」


白瀬の声は変わらない。

やさしくも、冷たくもない。

ただ静かだ。


それが今は妙に楽だった。


励まされるのは嫌だった。

慰められるのも嫌だった。

そんなもの、何にもならないと分かっていたから。


白瀬は少しだけ間を置いて言った。


「守れなかったんだね」


その一言が、刃みたいに落ちた。


ルナの肩がわずかに震える。

でも否定できない。


「……っ」


白瀬は続ける。


「大事なものを」


ルナの目が、そこで初めて大きく揺れた。


「……なんで」

喉が詰まる。

「なんで、あなたがそんなこと……」


白瀬は答えを濁さない。


「それくらいは知っている」

「秩序機関の恋羽ルナ」

「天羅木ツキの、いちばん近くにいた」


淡々とした説明だった。

それがかえって不気味だった。


ルナはぎゅっと指を握る。


「……言わないで」

「どうしてかな」

「……っ」

「事実だから?」


ルナは顔を上げる。


涙は出ていない。

でも目の奥だけが、ひどく痛そうに揺れていた。


「……あなたに、何が分かるの」


白瀬は少しだけ目を細めた。


「全部ではないよ」

「でも、喪失の形くらいは分かる」


その返しに、ルナは怒れなかった。

怒る力も、もうほとんど残っていなかった。


白瀬は続ける。


「君は守る側でいたかった」

「事故のあとも」

「秩序機関に入ってからも」


ルナの喉が小さく鳴る。


飛行機の中。

悲鳴。

傾く機体。

自分だけが残された夜。


それからずっと、ルナは“次は守る側にならなければ”と思って生きてきた。

生き残った意味を、そこにしか置けなかった。


「でも守れなかった」


ルナは目を閉じる。


「……やめて」

「なぜ?」

「やめて……!」


やっと、少しだけ声が強くなる。

でもそれだけだった。


怒鳴っても、泣いても、ツキは戻らない。


白瀬はその揺れを見ていた。


深く抉る必要はない。

この子はもう十分に沈んでいる。

だから、今は落ちる先だけ示せばいい。


「秩序機関に戻るのかな」


ルナの呼吸が止まる。


「戻って、何をする?」

「守れなかった報告をする?」

「任務失敗として処理される?」

「それとも、また次は守ると誓うのかな」


ルナは何も言えない。


秩序機関へ戻ったところで、待っているのは任務だ。

報告だ。整理だ。

前を向くことを求められる。


けれど、今の自分には何もできない。


もう飛べない。


ツキを失った世界で、何を守ればいいのかも分からない。


白瀬は静かに言った。


「君はまだ、彼女を手放していない」


ルナの目が揺れる。


「……当たり前だよ」

「そうだろうね」

白瀬は頷く。

「なら、その喪失を終わらせない場所へ来るといい」


ルナは白瀬を見る。


夜気が冷たい。


「……どういう意味」

「灰黒重工へ来るんだ」


その名に、ルナの指先が強張る。


警戒はまだ残っている。

当然だった。


初対面の男に、いきなりそんな場所へ来いと言われる。

まともな誘いではない。


それでも白瀬は、ルナの反応を見ながら静かに続けた。


「ただの被検体としてではない」

「君は秩序機関の一員だ。多くを知っている」

「能力も有用だ」

「そして今、帰る場所を失っている」


帰る場所。


その言葉がいちばん痛かった。


「君を迎え入れよう」

白瀬は言う。

「必要な者として」


必要。


その響きが、今は異様に甘く聞こえる。


ツキを守れなかった。

秩序機関へ戻っても、もう同じ顔ではいられない。

飛ぶ理由もない。


そんな自分に、まだ役割があると言われる。


それはひどく危険な言葉だった。


「……わたし、は」

声が掠れる。

「何も守れなかった」


「うん」


「ツキも」

「わたしの、片翼も」

「ぜんぶ……」


「そうだろうね」


否定しない。

大丈夫だとも、君は悪くないとも言わない。

ただ事実だけを置かれる。


それが今のルナには、かえって優しかった。


白瀬は少しだけ間を置いて言う。


「喪失は使える」


ルナの目が止まる。


「……なに、それ」

「君の悲しみは無意味じゃない」

「守れなかったことも、失ったことも」

「まだ、行き先に変えられる」


その言葉は救いではない。

でも、墜ちていく者には十分だった。


ルナは知っている。

この人はやさしい人ではない。

まっすぐな正義でもない。


それでも今、自分に差し出されたものだけが、唯一の進行方向に見えてしまう。


「ツキを、忘れたくない」


小さく言う。


白瀬は静かに頷いた。


「なら、忘れなくていい」

「忘れないまま進めばいい」


ルナの喉が震える。


それは秩序機関では言われない言葉だと思った。

そこではきっと、整理しろと言われる。

立てと言われる。

前を向けと言われる。


でも今のルナには、それができない。


できないからこそ、白瀬の言葉が染みてしまう。


「君は、飛び立つ気力がないんだろう?」


ルナは目を閉じる。


片翼の感覚が、背中で死んでいる。


白瀬は続けた。


「なら、今は飛ばなくていい」

「私のもとへ来るといい」

「翼がなくても、進める道はある」


その言葉に、ルナはようやく涙を落とした。


声もなく、ただ静かに。


「……わたし」

ルナの声は細い。

「秩序機関なのに」


「そうだね」

「あなたの敵、なのに」

「それでも構わないよ」

「……」

「敵であることと、使えることは別だ」


ひどく冷静な返答だった。

でも今は、その感情を挟まない言い方のほうが、かえって息がしやすかった。


ルナはゆっくり顔を上げる。


「……行ったら」

「わたし、何になるの」


白瀬は静かに答えた。


「私の側に立つ者だ」


必要とされる。

役割を与えられる。

もう一度、誰かのために立てる。


それがどれだけ危うい誘いか、ルナにも分かっていた。


それでも、もう秩序機関へ戻る自分を想像できなかった。


ツキのいない場所で、これまで通りの正義の顔をすることなんて、できるはずがなかった。


「……ツキは」

ルナが小さく言う。

「怒るかな」


白瀬は少しだけ目を細めた。


「どうだろうね」

「……」

「でも君は今、彼女を失ったまま立てないでいる」


その言葉に、ルナはうつむく。


立てない。

それだけは、痛いくらい事実だった。


白瀬は最後に静かに言う。


「おいで、恋羽さん」


恋羽さん。


まだ会ったばかりの男にそう呼ばれることが、

妙に丁寧で、妙に残酷だった。


ルナはしばらく動かなかった。


唇が、わずかに震える。


夜空の星は変わらず遠い。

手を伸ばしても届かないまま、ただ静かに瞬いている。


ツキは、あそこにいるんだろうか。

そんなことを考える自分が、少しだけ嫌だった。


でも、考えてしまった。


やがて、とても小さく頷く。


「……わかった」


それが裏切りであることくらい、ルナにも分かっていた。

秩序機関への。

ツキと過ごした時間への。

これまでの自分への。


それでも今のルナには、それ以外の道が見えなかった。

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