第23話 楽園宣言
朝日奈のことは、結局あの場ですべてが明らかになったわけではなかった。
灰黒重工の研究員と、今も定期的に会っていること。
昔、自分の能力を研究されていたこと。
分かったのは、それだけだ。
それ以上のことは朝日奈の口から語られなかったし、藤野も無理に聞き出そうとはしなかった。
あの日以降、露骨に傷を増やしてくるようなこともなくなった。
少なくとも、目に見える範囲では。
だからこそ、かえって嫌でも分かる。
何ひとつ、終わっていないのだと。
***
放課後の部室。
窓の外では、少し早い夕方の光が校舎の影を長く引いていた。
夏の終わりに比べれば風はだいぶ涼しい。けれど部室の中には、どこか落ち着かない空気が残っていた。
朝日奈は机に肘をついたまま、珍しく静かだった。
いつものように大声で何かを語るでもなく、ただぼんやりと窓の外を見ている。
その様子を見て、凪沙が少しだけ声を和らげた。
「ヒナくん」
朝日奈が顔を上げる。
「うむ?」
「この前のことなんだけど」
凪沙は一度だけ視線を落とした。
言葉を選んでいるようだった。
「無理に聞きたいわけじゃないの」
「……」
「話したくないなら、今はそれでもいいよ」
朝日奈の表情が、わずかに止まる。
藤野は黙ったまま、その横顔を見ていた。
「でも、ヒナくんが昔いた研究所の人と、今も定期的に会ってるってことは、フジくんからわたしも聞いた」
「……ああ」
「そこには、あんまり触れられたくないってことなんだよね」
朝日奈は少しだけ迷うように目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……ああ」
凪沙はそれを見て、やわらかく笑った。
「わかった。ヒナくんがそうしたいなら、無理には聞かない」
「凪沙くん……」
「でも」
そこで少しだけ眉を下げる。
「ちゃんと気にかけてるからね」
朝日奈は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。
その横で、藤野も口を開く。
「俺も、別に全部話せって言う気はない」
「……」
「でも、また一人で勝手にどうにかしようとしたら、それは止める」
朝日奈がわずかに目を見開く。
「勝手だなあ」
「知ってる」
「……うむ」
ようやく、朝日奈が少しだけ笑った。
いつもの太陽みたいな笑い方ではなかったが、それでも朝日奈らしい顔ではあった。
けれど、その空気は長くは続かなかった。
部室の扉が開き、生徒会書記が顔を出したのは、その少しあとだった。
「朝日奈さん、少しいいですか」
薄氷華澄だった。
相変わらず温度の低い整った顔で、まっすぐこちらを見ている。
「む? なんだ?」
「副会長の件です」
その一言で、朝日奈の表情が変わった。
「今日も授業に出ていませんでした」
「……」
「生徒会室にも来ていません。連絡もつきませんでした」
朝日奈は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「何かご存知ですか?」
少しだけ間が空いた。
それから朝日奈が、低く口を開く。
「……実は」
「うん?」
凪沙が首を傾げる。
「……家にも帰ってないんだ」
部室の空気が、一瞬止まった。
「え」
凪沙の声が小さく漏れる。
「ああ」
朝日奈は視線を落としたまま続けた。
「二日前から連絡がつかなくて……父さんも、捜索願を出すと言っていた」
藤野は黙ったまま、その言葉を聞いていた。
そっちまで抱えていたのか、と思う。
朝日奈が最近いつにも増してどこか落ち着かなかった理由が、ようやく少しだけ輪郭を持った。
「……心配だな」
凪沙がぽつりと言う。
華澄は小さく頷いた。
「会長にも伝えてあります。何か分かったら連絡します」
それだけ言って、華澄は部室をあとにした。
扉が閉まる。
朝日奈は、しばらく動かなかった。
「ヒナくん」
凪沙がそっと声をかける。
朝日奈ははっとしたように顔を上げた。
「だ、大丈夫だ!」
明るく言おうとしたのは分かった。
けれど、少しだけ遅かった。
「たぶん兄さんは、何か用事があるだけだ! 心配しすぎるのもよくない!」
そう言われるほど、かえって嫌な予感が強くなる。
けれど、この時はまだ、誰も知らない。
朝日奈玲緒がどこへ向かったのか。
その先に何が待っているのか。
分かっているのは、ただひとつだけだった。
帰ってくるはずの人間が、まだ帰っていない。
それだけで十分だった。
嫌な予感を抱くには。
***
その日の帰り道。
藤野は一人で校舎裏へ向かった。
ツキに呼び出されていたからだ。
夕方の校舎裏は静かだった。
少しずつ空気が冷えていく。壁際に落ちる影も、昼間より濃い。
そして、そこにツキはいた。
いつものように壁にもたれている。
けれど、今日は最初から空気が違った。
藤野が口を開くより先に、ツキが言った。
「……もう止められない」
その声は平坦だった。
だが、その平坦さがかえって不穏だった。
「何が」
藤野が問う。
ツキはすぐには答えない。
代わりに、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「次は、こっちに立つ」
「……教団か」
「……」
「何が起きる」
「言えない」
「ツキ」
「無理です」
そこで初めて、ツキは藤野を見た。
冷たい目だった。
けれど、完全に冷え切っているわけではない。
何かを切り捨てようとして、うまく切り捨てきれていない目だった。
「今さら止めようとしないで」
「……」
「もう、そういう段階じゃないから」
藤野は何か言おうとした。
けれど、その前にツキは身を翻した。
「おい」
呼び止めても、止まらない。
「ツキ!」
それでも振り向かず、最後にひとつだけ言い落とす。
「次に会う時は」
声だけが、少しだけ掠れていた。
「たぶん、もう前みたいには話せない」
その瞬間、夕方の光を弾くように、何かがひとつだけ飛んだ。
ほんの小さな粒だった。
けれど、それが頬から零れたものだと気づくには十分だった。
ツキは振り返らない。
そのまま校舎の影へ消えていく。
藤野はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
嫌な予感だけが、妙にはっきりした輪郭を持って残る。
***
数日後。休日。
藤野と朝日奈と凪沙の三人は、駅前の繁華街にいた。
もともとは凪沙の買い物に朝日奈がついていくと言い出し、なぜか藤野まで巻き込まれた形だった。
「なんで俺まで」
「三人の方が楽しいだろう!」
朝日奈が当然のように言う。
「理屈になってねえ」
「フジくん、付き合ってくれてありがと」
凪沙が笑う。
そう言われると、藤野もそれ以上は強く言えなかった。
休日の街は、人であふれていた。
大型商業施設のガラス壁には秋の日差しが反射し、中央交差点の大型ビジョンでは、明るく派手な広告が絶え間なく流れている。
買い物袋を提げた人々。笑い合う学生。子どもの手を引く親。
どこにでもある、ありふれた休日の光景だった。
「平和だな」
藤野がぼそっとこぼす。
「うむ!」
朝日奈が胸を張る。
「こういう光景を守るのがヒーローの役目だからな!」
「平和なうちから気合い入れすぎだろ」
「言われずとも守る! それがヒーローだ!」
「ヒナくん、それ便利な言葉だね」
凪沙がくすっと笑う。
その時だった。
交差点の向こうから、ひとつ悲鳴が上がった。
最初は小さかった。
誰かが転んだとか、せいぜいその程度だと思えるほどの、ありふれた悲鳴だった。
だが次の瞬間、それはひとつではなくなった。
「……っ?」
朝日奈が顔を上げる。
人の流れが乱れる。
遠くでガラスの割れる鋭い音が響いた。
誰かが叫ぶ。その声に押されるように、別の誰かが駆け出す。ざわめきが波みたいに広がっていく。
「何……」
凪沙が言いかけた、その時だった。
中央交差点のすぐ脇にいた中年の男が、突然、苦しげに喉を押さえた。
膝をつく。
肩が激しく震える。
目の焦点が定まらず、口元から掠れた呻きが漏れる。
その隣では、若い女が買い物袋を取り落とし、その場にうずくまっていた。
反対側では学生らしい少年が顔を歪め、自分の腕を押さえたまま呻いている。
異常は、一人ではなかった。
「あれ……っ」
藤野の声が低くなる。
視界のあちこちで、同じことが起き始めていた。
人々が突然苦しみ出す。
その場に倒れ込む。
痙攣し、息を詰まらせ、悲鳴を上げる。
そして次の瞬間、その中の何人かが、制御不能な力をその身から噴き出させて暴れ始めた。
アスファルトが砕けた。
信号柱が鈍い音を立ててひしゃげる。
風もないのに看板が吹き飛び、店先のガラスが内側から叩き割られたみたいに弾け散る。
さっきまで“普通”だったはずの街角が、ほんの数秒で別の場所に変わっていく。
「覚醒薬……!」
朝日奈が息を呑んだ。
「まさか」
「こんなところで?」
藤野が反射的に周囲を見回す。
だが、すぐに分かった。
一箇所ではない。
通りの向こうでも。
駅前広場でも。
商業施設の入口でも。
離れた場所から、同じような悲鳴と破壊音がいくつも響いてくる。
同時多発だった。
「ヒナくん!」
凪沙が朝日奈の腕を掴む。
「これ、普通じゃない」
「分かっている!」
その瞬間だった。
街じゅうのスマホが、一斉に鳴り始めた。
ビッ、と耳障りな通知音。
一台や二台ではない。無数の電子音が重なり合って、空気そのものがざらつく。
中央交差点の大型ビジョンがノイズで乱れ、流れていた広告が唐突に途切れる。
周囲の店舗モニターも、示し合わせたように同時に黒く染まった。
空の上では、複数のドローンの駆動音が重なっていた。
雑踏がさらにざわめく。
人々の足が止まり、怯えた視線が一斉に上を向く。
そして。
黒く染まっていた画面の中央に、ひとりの男の姿が映し出された。
深紅を基調とした衣装。
そこに金の帯と装飾が走っている。
王の儀礼服にも、血に濡れた祭服にも見えた。華美なのに、少しも祝祭めいていない。
むしろ、これから何かが始まることを告げるためだけに誂えられたみたいな、異様な衣装だった。
男は静かに笑っていた。
その顔を見た瞬間、藤野の背筋にぞくりと冷たいものが走る。
理屈ではなかった。
ただ本能で分かった。
――この場にいてはいけない種類の人間だ。
画面越しのはずなのに、視線を合わせたくないと思った。
こちらを見ているだけで、足元から何かが這い上がってくるような、そんな嫌な感覚があった。
「私はアガスティア教団の教祖、天羅木幻一」
男――天羅木幻一は、よく通る、妙に落ち着いた声で告げた。
怒鳴っているわけではない。
感情を露骨に煽っているわけでもない。
それなのに、その声は不思議なくらい街全体に染み渡っていく。
「この世界を、より高みへ導く者だ」
その直後、別の場所でまた悲鳴が上がった。
何かが爆ぜる音。
車の急ブレーキ。
逃げ遅れた誰かの泣き声。
けれど幻一は、それらすべてを背景音とでも思っているみたいに、静かに続けた。
「諸君は、長らく欺瞞の中で生かされてきた」
「平等。救済。共存。……実に耳触りのよい言葉だ」
「だが、その実態は何だ?」
「弱き者を守り、劣った者を延命させ、選ばれるべき強者の足を引く――停滞と腐敗の温床にすぎない」
その声音には熱がない。
だからこそ、かえって底が知れなかった。
「力なき者に、人権はない」
「生きる価値は、力によって決まる」
「進化とは、常に少数の特異点から始まるものだ」
誰かが画面に向かって悲鳴混じりに叫んだ。
別の場所で、暴走した能力が外壁を吹き飛ばす。
粉塵が上がり、空気が白く濁る。
それでも幻一の声だけは、不気味なくらい明瞭だった。
「覚醒した者。選別を生き残る者。新たな力をその身に宿す者」
「彼らこそ、新時代の貴族だ」
幻一はゆっくりと両腕を広げる。
「我々は、選別の先駆者だ」
「古い世界を終わらせる者だ」
「弱さを抱えたまま生き延びる時代は、ここで終わる」
わずかに口元をつり上げ、天羅木幻一は告げた。
「――ここに、楽園国家“アガスティア”の設立を宣言する」
「今日はほんの挨拶だ」
その言葉が落ちた瞬間。
現場の空気が、もう一段深く冷えた。
大型ビジョンの映像だけではない。
交差点の中央。
逃げ惑う人波の、その向こう。
ほんの少し前まで誰もいなかったはずの場所に、実物の天羅木幻一が立っていた。
「……っ」
藤野の息が詰まる。
深紅と金の衣装が、昼の光の下で異様に映えていた。
現実の風景の中にいるはずなのに、そこだけ別の舞台みたいに浮いて見える。
その周囲には、同じく深紅の衣装をまとった人影がいくつも立っていた。
誰も騒がず、誰も慌てず、ただ当然のようにそこにいる。
街が崩れ、人々が叫び、能力が暴走しているというのに、その中心に立つ彼らだけが、異様なほど静かだった。
そして、幻一の足元から。
黒く鈍い粒子のようなものが、さらさらと零れ落ちていた。
最初は砂か灰のように見えた。
だが、地面に触れた瞬間、それがただの物質ではないと分かる。
アスファルトがぼろぼろと崩れた。
腐った木材みたいに脆く砕け、表面から急速に朽ちていく。
街灯の柱が内側から食われたように裂け、ガードレールが嫌な音を立てて歪む。
金属も、石も、コンクリートも、等しく形を保てない。
まるで、触れたものから順番に、存在そのものを否定されていくみたいだった。
「なんだ、あれは……!」
朝日奈の声が強張る。
インフラそのものが、ゆっくりと死んでいく。
そんな光景だった。
そのすぐ後ろに、深紅の衣装をまとった少女が立っていた。
ツキだった。
表情はほとんどない。
けれど、その立ち位置がすべてを物語っていた。
天羅木幻一のすぐ後ろ。
守られるでもなく、並び立つでもなく、従う者の位置に。
「ツキちゃん……」
凪沙が息を呑む。
さらに、その隣にいた人物を見た瞬間。
「……兄さん」
朝日奈の声が、はっきり揺れた。
朝日奈玲緒。
見間違えるはずがなかった。
あの完璧で、いつだって自分とは違う場所にいた兄が、教団の側に立っている。
その目は少し虚ろだった。
まるで何かに深く沈められたあとみたいに、焦点がわずかに曖昧で、それでも確かにこちらを見ていた。
朝日奈が一歩踏み出す。
だが、その腕を藤野は反射的に掴んでいた。
「待て!」
「離せ、藤野くん!」
「今行ってどうにかなる相手かよ!」
「兄さんがいるんだぞ!!」
叫ぶ朝日奈の声には、焦りと怒りと、それ以上にどうしようもない動揺が滲んでいた。
街のあちこちでは、なおも暴走した一般人たちが暴れている。
悲鳴。破壊音。車のクラクション。急ブレーキ。ガラスの砕ける音。
何もかもが多すぎる。
視界のどこを見ても、助けを求める人間と、壊れていく街と、理解の追いつかない異常がある。
その中で、天羅木幻一だけが微動だにしない。
その視線が、まっすぐこちらへ向いた気がした。
ただそれだけで、藤野の背中を冷たい汗が伝う。
――だめだ。
本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは、今ここでどうにかできる相手じゃない。
その時、ツキが一歩前に出た。
天羅木幻一の少し後ろ。
まるで従者のように。けれど感情の薄れた顔のまま、低く告げる。
「教祖様――」
その呼び方に、藤野はぞくりとした。
絶対的な上下だけがそこにあった。
そこへ、別方向から駆け込んでくる足音がした。
「無事か」
低い声。
振り向けば、灰薔薇がこちらへ駆けつけていた。
「イバラくん!」
「俺もたまたま通り掛かったんだが――」
そのさらに後方では、黒い制服に身を包んだ者たちが次々に現れ、暴走した人々の鎮圧に動き始めている。
統率された動き。無駄のない制圧。
秩序機関だと、考えるまでもなかった。
その中に、白い羽が翻るのが見えた。
「先輩方、こっちです! 早く!」
ルナだった。
彼女は切羽詰まった顔で人々を誘導しながら、こちらへ向かって叫ぶ。
「今は退いてください! ここは危険です!」
「でも……!」
朝日奈がなおも前を見ようとする。
「ヒナくん!」
凪沙がその腕を掴む。
「今は……!」
藤野も歯を食いしばった。
止めなければならない。
見過ごしていい相手ではない。
けれど、規模が違いすぎる。
数が多すぎる。
目の前の混乱だけで手一杯なのに、その中心にいる男は、さらにその外側にいる。
今はまだ、手が届かない。
その事実だけが、嫌になるほどはっきりしていた。
ルナの誘導に押されるようにして、四人はその場を離れる。
背後ではなお、悲鳴と破壊音が鳴り止まない。
振り返った先、崩れていく街の中心で。
天羅木幻一だけが、まるで最初からこの光景こそ正しいのだと言わんばかりに、静かに立っていた。
***
とりあえず、藤野たちは学校の部室まで避難していた。
扉が閉まった瞬間も、安心した空気にはならなかった。
誰もがまだ、さっきまで街で見た光景を引きずっている。
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえる。
窓の外はもう見えないのに、悲鳴や破壊音がまだ耳の奥に残っていた。
「……兄さん」
朝日奈が、絞り出すように呟く。
額には汗が滲んでいた。
呼吸も、まだわずかに浅い。
あれほど真っ直ぐ前を向く朝日奈が、今は自分の内側に沈み込むみたいに俯いている。
「兄さんは……能力者じゃないはずだ」
「なのに、あそこにいたってことは……」
言い切る前に、言葉が止まる。
藤野は短く息を吐いた。
「覚醒薬……だろうな」
その一言が、部室の空気をさらに重くした。
「……なんで、兄さんが……」
朝日奈はそれきり、しばらく黙り込んだ。
拳が膝の上で強く握られている。
指先が白くなるほど力が入っていた。
やがて、低い声が落ちる。
「……覚醒薬は、命を消費して力を一時的に得るもの」
「……そうだな、恋羽くん」
名を呼ばれたルナが、わずかに肩を震わせる。
「……はい」
肯定は短かった。
けれど、その一言だけで十分だった。
朝日奈の拳が、さらに震える。
「……兄さんはいまも、あれに蝕まれている」
その声音には、いつものヒーローじみた明るさは少しもなかった。
怒りとも違う。焦りとも違う。もっと切実で、どうしようもなく個人的な響きだった。
「……なら」
朝日奈が顔を上げる。
目の奥が、はっきりと燃えていた。
「絶対に止める」
その声には、理想だけではないものが混じっていた。
ヒーローとしての言葉ではない。
兄を取り戻したいと願う、弟の声だった。
一瞬、部室が静まり返る。
その沈黙を破ったのは、藤野だった。
「……俺たちも同じ気持ちだ、朝日奈」
「朝日奈が助けたい相手なら、俺たちも助けたい」
朝日奈がわずかに目を見開く。
「藤野くん……」
凪沙も静かに頷いた。
「うん。私も」
「もう、他人事じゃないよ」
灰薔薇は壁にもたれたまま、低く言う。
「今さら見なかったことにはできん」
その言葉に、朝日奈は何も返さなかった。
ただ、少しだけ俯いて、強く唇を噛みしめる。
その時だった。
藤野はふと、ルナの方を見る。
その視線の先で、ルナはどこか遠くを見ていた。
目の前にいるはずなのに、心だけがまだ別の場所に置き去りにされているみたいだった。
――ツキのことだ。
そう思ったのは、藤野だけではなかったらしい。
灰薔薇もまた、無言でルナを見ていた。
朝日奈。
藤野。
凪沙。
灰薔薇。
ルナ。
誰も口にはしない。
けれど、それぞれが同じことを理解していた。
アガスティア教団は、もう放っておけない。
街で見たものは、ただの事件じゃない。
あれはもう、自分たちのすぐそばまで来ている。
その張り詰めた沈黙の中で、ルナがゆっくりと口を開いた。
「……近いうちに、秩序機関によるアガスティア教団殲滅作戦が実行されます」
「……っ」
空気が変わる。
朝日奈が顔を上げ、藤野たちも息を呑む。
ルナは一度だけ目を伏せたあと、まっすぐこちらを見た。
その表情は、もう迷っていなかった。
「先輩方も――この戦いに、加わりますか」
***
その夜。
アガスティア教団本拠地。
教会のように厳格な空気を湛えた建物の最奥に、ひどく静かな部屋があった。
外とは切り離されたように、音がない。
壁も床も、冷えきった石の気配をそのまま閉じ込めたみたいで、息をするだけで胸の奥が少しずつ重くなるような空間だった。
天羅木幻一は、机の上に置かれた一枚の写真を見つめていた。
そこに写っているのは、幼い少女だった。
かわいらしい、無邪気な笑顔。
栗色の髪をふたつに結び、うさぎの人形を抱えている。
ふりふりのワンピースを着た、ごく普通の、どこにでもいそうな幼い少女。
その写真を見つめる幻一の横顔には、奇妙なほど深い静けさがあった。
写真に触れようとした指先が、触れる直前でわずかに止まる。
その一瞬だけ、幻一の横顔に、見慣れない翳りが差した。
いつものような底知れなさとも、教祖として人を見下ろす冷たさとも違う。
それは、ひどく遠い何かを見つめる者の顔だった。
扉が静かに開く。
ツキが入ってきた。
足音を殺すようにして数歩だけ進み、柱の奥で止まる。
昼間と同じ深紅の衣装のまま、しばらく何も言わずに立っていた。
幻一は振り向かない。
視線も、写真から外さない。
沈黙だけが落ちる。
部屋の静けさはやけに重く、わずかな衣擦れの音すら、響いてしまいそうだった。
やがてツキが、ごく小さく口を開いた。
「……父さん」
その声だけが、ひどく静かに部屋へ落ちた。




