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第24話 ルナとツキ

屋上に、ひとりの少女が立っていた。


ツキ。


短い薄藍色の髪を風に揺らしながら、じっと遠くを見つめている。

やがて、その視線がふと自分の拳へ落ちた。


指先に残る感触が、記憶を引き寄せる。


***


――あれは、一年前の秋。


空気が澄みはじめ、夏の熱がようやく街から引いていった頃だった。

日が落ちるのも少しずつ早くなり、夕方の路地裏にはひんやりした風が吹き抜けていた。


「ぐあああっ!」


男の悲鳴が、コンクリートの壁にぶつかって鈍く響く。


男は地面に倒れ伏したまま、もう動けなかった。

腕はありえない方向に曲がり、呼吸もまともに整っていない。暴走した能力の余熱なのか、周囲の空気はまだ微かに揺れていた。


その傍らに、少女がひとり立っている。


冷たい目だった。

何かを成し遂げた顔でも、勝ち誇った顔でもない。

ただ、終わったと判断しただけの目。


ツキは男を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。


「これで終わり」


拳を握る。

じん、と鈍い痛みが返ってくる。


見れば、手の甲が裂けていた。

皮膚の薄いところが切れ、血が筋になって流れている。


けれど、それを気にする理由はなかった。

この程度の傷なら、そのうち塞がる。痛みにも慣れていた。

もっと深く、もっとひどい痛みなら、いくらでも知っている。


今日の任務は終わった。

暴走した能力者を制圧し、回収班へ引き渡す。それだけだ。


しばらくすれば仲間が来る。

あとは引き渡して、報告して、それで終わる。


いつも通り。

そのはずだった。


ツキは倒れた男から視線を外し、路地裏を抜けて雑居ビルの非常階段へ向かった。


誰にも見られない場所へ行きたかった。

誰とも話したくなかった。

ただ少しのあいだ、一人になりたかった。


階段を上りきると、冷たい風が頬を撫でた。


ビルの屋上は人の気配が途切れ、静かだった。

遠くの街のざわめきだけが、薄く揺れて聞こえてくる。


ツキは屋上の端まで歩き、何気なく自分の手を見た。


手の甲に走る裂傷。

血は止まりかけていたが、まだ生々しい。


そのときだった。


「……大丈夫? 怪我してるの?」


ふいにかかった声に、ツキは反射的に振り返った。


そこにいたのは、見知らぬ少女だった。


白に近い淡い髪。

夕方の風に揺れる、やわらかな輪郭。

そして背には――一枚の、白く輝く羽。


まるで、天使みたいだった。


ツキは思わず目を細める。


ありえない、と思う。

血と暴力の匂いが残るこの場所に、その姿だけがひどく不似合いだった。


それでも、その少女はためらいなくツキの方へ歩いてくる。


「手、貸して」

「……誰」

「ん?」

「なんで、ここにいるの」


少女はきょとんとしたあと、くすっと笑った。


「それはお互いさまじゃない?」

「……」


軽い。

あまりにも自然に距離を詰めてくる。


ツキはわずかに眉をひそめた。


「私を迎えに来るのは、悪魔だと思ってた」


思わず、そんな言葉が口をつく。


少女は目を丸くしたあと、ふふっと笑った。


「なにそれ」


それから、何でもないことのように続ける。


「ほら、手。出して」

「……」

「怪我してるでしょ」

「これくらい平気」

「平気でも、痛いのは変わらないじゃん」


そう言われても、ツキはすぐには動けなかった。


知らない相手だ。

何者かも分からない。

不用意に近づくべきではない。


それなのに。


その少女の声には、妙な強さがあった。

押しつけがましくないのに、断らせないまっすぐさがあった。


ツキはほんの少し迷ってから、ゆっくりと手を差し出した。


少女は嬉しそうに目を細める。


「うん。えらい」

「子ども扱いしないで」

「ごめんごめん」


そう言いながら、少女は白い羽をそっと翳した。


やわらかな光が、手の甲を包む。


熱くはない。

けれど冷たくもなかった。

血の匂いが残る傷口に、淡い光が静かに染みこんでいく。


ツキは目を見張る。


「……きれい」


気づけば、そんな言葉が漏れていた。


少女は少し照れたように笑う。


「ほんと?」

「……」

「はい、できた」


光がすっと引いていく。


手の甲を見ると、さっきまであった傷は跡形もなく消えていた。

裂けていた皮膚も、血の跡も、何もない。最初から傷などなかったみたいに。


ツキはしばらく、自分の手を見つめていた。


痛みが消えている。

それ以上に、その治し方が信じられなかった。


暴力のための力も、制圧のための力も、いくらでも見てきた。

でも、こうして誰かに触れて、傷を消す力は知らなかった。


少女が首を傾げる。


「そんなに珍しい?」

「……珍しい」

「そっか」


それから少し間を置いて、屈託なく笑った。


「私、恋羽ルナ。あなたは?」

「……」

「名前、教えてくれないの?」

「……神埜ツキ」

「そっか。ツキちゃん」


その呼び方に、ツキは少しだけ眉を寄せる。


「ちゃん、いらない」

「えー、かわいいのに」

「いらない」

「そっかあ」


ルナは残念そうな顔をしたあと、すぐにまた笑った。


「じゃあ、ツキ。よろしくね」

「……よろしくされる覚えないけど」

「いま作ったじゃん」

「何を」

「縁」

「……軽い」

「うん。でも大事だよ」


そう言って、ルナは当たり前みたいにツキの隣へ立った。

それが、不思議と嫌じゃなかった。


屋上の風が、二人のあいだを通り抜けていく。


ツキは、自分の手をもう一度見た。

傷はない。痛みもない。


こんなふうに、誰かに傷を見つけられて、手当てされて、名前を呼ばれることなんて、ずっとなかった。


慣れていたはずだった。

傷も、痛みも、見ないふりをされることも。


それなのに。


この少女の光は、ひどく温かかった。


――それが、ルナとの出会いだった。


それから何度か会うようになって、

運命みたいに、高校でも同じになった。


初めて、友達と呼べるかもしれない相手。

初めて、痛みを隠したままではいられなくなった相手。


だからこそ、つい口をこぼしてしまった。


「……お父さんを、助けたい」


ルナは最初、驚いた顔をした。

けれど何も茶化さず、真剣に聞いてくれた。


嬉しかった。


けれど、そのぶんだけ後ろめたさも募った。


***


あの日とよく似た風が、屋上を吹き抜けていく。


そのとき、携帯が震えた。


届いたメッセージの表示名を見て、ツキの目がわずかに細くなる。


――ルナ。


『会って話がしたい。』


「……」


***


放課後。


校舎の窓に、傾いた光が細長く差し込んでいた。

昼間より少し冷えた風が廊下を抜けていく。けれど、その涼しさとは裏腹に、空気はどこか張り詰めていた。


ルナは鞄を肩にかけると、誰にも声をかけずに教室を出た。


足取りは早い。

迷いがないというより、迷わないようにしている歩き方だった。


階段を下り、昇降口まで来たところで――


「恋羽」


後ろから声が飛ぶ。


足が止まる。


振り返ると、藤野たちが立っていた。


藤野を先頭に、少し息を切らした凪沙。

その横に朝日奈。

少し離れたところには、灰薔薇もいる。


ルナは一瞬だけ目を瞬いたあと、困ったように笑った。


「……なんでいるの?」


「こっちの台詞だろ」

藤野が言う。

「どこ行く気だ」

「別に」

「その顔でごまかせると思うなよ」

「フジくんこわいなあ」


そう言ったものの、ルナの声にいつもの軽さはなかった。


朝日奈が一歩前に出る。


「恋羽くん」

「……」

「君は、一人で行くつもりなのだな」


ルナはすぐには答えなかった。

その沈黙が、ほとんど答えだった。


凪沙が眉を下げる。


「ルナちゃん」

「うん?」

「言ってくれないと、こわいよ」

「……」

「何するつもりなの」


ルナはしばらく黙っていた。

それから、ふっと小さく息を吐く。


「……ツキと、話がしたいの」


藤野が目を細める。


「話?」

「うん」

「それだけで、そんな顔して出ていくか?」

「それは……」


ルナは言葉を探すように視線を落とした。


「普通の話じゃ、たぶん済まないから」


その一言で、全員の表情が変わる。


朝日奈が低く言った。


「神埜くんに会うのだな」

「うん」

「一人で?」

「そのつもりだった」


藤野はため息をつく。


「無茶だろ」

「無茶でも行くよ」


ルナは顔を上げる。

その目はまっすぐだった。


「ここで行かなかったら、たぶんもう会えない」

「……」

「ちゃんと話したいの」


その声は静かだった。


「逃げたまま終わりたくない」


凪沙はルナの顔を見つめたまま、少しだけ唇を引き結ぶ。


「ルナちゃん」

「うん」

「それ、話だけで終わる?」

「……わかんない」

「だよね」


短い沈黙が落ちた。


廊下の向こうでは、部活へ向かう生徒たちの声がまだ残っている。

なのに、この場だけ妙に静かだった。


先に口を開いたのは藤野だった。


「俺も行く」


ルナがぱっと顔を上げる。


「え」

「止める気か?」

「止める」

「……」


「って言いたいけど、言っても行くだろ」

「うん」

「だろうな」


藤野は少し眉をひそめたまま続ける。


「だからせめて、見える場所にはいる」

「でも」

「手は出さない」


その言い方は、自分にも言い聞かせるみたいだった。


「お前がツキと話したいって言うなら、そこには手を出さない」

「藤野先輩……」

「でも、一人では行かせない」


その横で、朝日奈も口を開く。


「オレも行こう」

「朝日奈先輩まで」

「神埜くんが教団側に立つのなら、放ってはおけん」


朝日奈の声は静かだった。珍しく、勢いではなく重さがあった。


「だが」

そこでルナを見る。

「君が話したいのなら、オレたちは手を出さない」

「……」

「少なくとも、君が望むうちは」


凪沙も小さく頷く。

「わたしも行く」

「白崎先輩まで」

「行くよ」


凪沙は少しだけ笑った。

「だって、ルナちゃんのそういう顔、放っておけないもん」

「……」

「それに、ツキちゃんだって」

そこで少し言葉を切る。

「ほんとは、放っておいちゃだめな気がする」


ルナは目を伏せた。


最後に、壁にもたれていた灰薔薇が口を開く。


「俺も行く」

藤野がちらりとそちらを見る。

「お前まで来るのか」

「見届けるだけだ」

「信用ならねえな」

「貴様に言われたくない」


そのやり取りに、ルナはほんの少しだけ息を漏らした。

笑ったのか、困ったのか、自分でも分からないような顔だった。


「……みんな、勝手だね」

「知ってる」

藤野が即答する。

「うん」

凪沙も頷く。


「だが、そういうものだろう」

朝日奈まで真面目な顔で言う。

「何が」

「仲間とは!」


そこだけ妙にいつも通りで、空気がほんの少しだけ緩んだ。


けれど次の瞬間には、また緊張が戻る。


ルナはしばらく黙っていた。

本当は一人で行くつもりだった。

誰も連れて行きたくなかった。

でも、ここまで言われてなお突き放すほど、彼女は冷たくなれなかった。


やがて、小さく頷く。

「……わかった」

藤野が目を上げる。

「ただし、本当に手は出さないで」

「約束する」


「朝日奈先輩も」

「うむ」

「白崎先輩も」

「うん」

「灰薔薇先輩も」

「必要以上にはな」

「その言い方ちょっと怖いなあ……」


ルナは小さく息を吐く。


「場所は、街外れの礼拝堂跡」


その言葉に、藤野が少しだけ眉をひそめる。


「廃墟か」

「うん。どっちの組織にも見つかりにくい場所」

「最初から、そのつもりだったんだな」

「……そうだよ」


もう、ただの話し合いでは済まない。

ルナ自身、それを分かっている声だった。


昇降口の外では、夕暮れがゆっくり色を濃くしていた。


「行こう」


ルナが言う。


誰も、それに逆らわなかった。


こうして五人は、街外れの古い礼拝堂跡へ向かうことになった。


そこが、ただの再会の場ではなく、

何かが決定的に壊れる場所になるであろうことを、まだ誰も言葉にはしなかった。


***


礼拝堂跡は、街外れの暗がりの中にひっそりと沈んでいた。


かつて祈りの場だったのか、それとも集会のための建物だったのか、今となっては分からない。石造りの外壁だけが辛うじて形を残し、正面の大扉はとうに失われている。窓ガラスもほとんど割れ、天井は半ば崩れ落ちて、夜空が覗いていた。


足を踏み入れると、空気はひどく冷たかった。


床には砕けた石片や朽ちた木材が散っている。だが中央だけは不思議と開けていて、一段高くなった場所がそのまま残されていた。


まるで祭壇だった。


誰も口を開かないまま、五人はその場に足を止める。


崩れた天井の隙間から、細く月光が差し込んでいた。

白い筋になって、静まり返った礼拝堂の中央を照らしている。


そして、その光の下に。


ひとりの少女が立っていた。


深紅の布が、夜の空気の中でかすかに揺れる。

金の帯と装飾が月光を拾い、暗がりの中で冷たく光っていた。


神埜ツキ。


その名を知っているはずなのに、いつものツキとは別人みたいだった。


薄藍色の短い髪だけが見慣れたまま、あとは何もかも遠い。

礼拝堂の中央に立つその姿は、美しいというより神秘的で、同時にひどく近寄りがたかった。


こちらが中へ入った瞬間には、もう気配を捉えていたのだろう。

柱の影、壊れた壁際、立ち位置の癖まで一度で見切るようにツキの視線が走る。

そのうえで、中央から動かない。

逃げる気はない。けれど、無防備でもなかった。


凪沙が小さく息を呑む。


「……ツキちゃん」


その声は、広い廃墟の中でやけに小さく響いた。


ツキはすぐには答えなかった。

ただ、月光の中でまっすぐこちらを見ている。


その視線が最初に捉えたのは、ルナだった。


ルナもまた、一歩前へ出る。

白い羽はまだ出していない。けれど、いつでも出せるように肩のあたりに緊張が見えた。


「……来たんだね」

ルナが言う。


ツキは少しだけ目を細める。

「来るって言ったでしょ」


声は静かだった。

いつもと同じようでいて、どこか決定的に違って聞こえた。


藤野はその一歩後ろで立ち止まる。


ここで手は出さない。

そう約束した。


けれど、目の前のツキを見ていると、その約束がやけに重い。

あんな格好で、あんな場所に立っているだけで、もう普通の話し合いでは終わらないと分かってしまう。


朝日奈も黙っていた。

珍しく何も言わないまま、ツキを見ている。

その目には警戒と、それとは別の鋭さがあった。


灰薔薇は壊れた柱の影にもたれ、無言のまま礼拝堂全体を見渡している。


ツキはゆっくりと視線を巡らせた。


「……本当に大勢で来たんだ」


その言い方には、少しだけ皮肉が混じっていた。


「手は出さない約束じゃなかったの?」

ルナが答える。

「見届けるだけだよ」

「見届ける、ね」


ツキは小さく鼻を鳴らした。


「それで済めばいいけど」


その一言で、礼拝堂の空気がさらに冷えた気がした。


ルナはもう一歩だけ前へ出る。


「ツキ」

「……」

「今日は、ちゃんと話しに来たの」


「話?」

ツキの目が、わずかに揺れる。

「今さら、何を」

「ほんとのこと」


沈黙が落ちた。


月光の筋の中で、深紅の少女はわずかにも動かない。

けれど、その静けさの下に、何かが張りつめているのが分かった。


ルナはまっすぐツキを見る。


「もう、知らないふりできない」

「……」

「わたしも、ツキも」


ツキは目を伏せることもなく、低く言った。


「だったら、先に言っておく」


その声は不思議なくらいよく響いた。


「今日は、昔みたいには終わらないよ」


礼拝堂のどこかで、風が抜ける。

壊れた窓枠が、かたん、と小さく鳴った。


ツキはゆっくりと片手を持ち上げる。

深紅の袖口がさらりと揺れた。


「……ルナ」


呼ぶ声だけは、ほんの少しだけ柔らかかった。


「それでも来るなら」


その目が細くなる。


「もう、止まらない」


次の瞬間、礼拝堂の床が鈍く震えた。


***


ぱき、と乾いた音が響く。

ツキの足元から走った細い亀裂が、石床の表面を蜘蛛の巣みたいに広がっていく。


誰も動かなかった。


動けなかった、という方が近い。


崩れた天井から差し込む月光の中で、ツキは静かに立っている。

深紅の布が揺れ、冷たい光を帯びた装飾がかすかにきらめいた。


ルナがその場から目を逸らさずに言う。


「……ツキ」


ツキは答えない。

しばらく、風の音だけが礼拝堂を抜けていた。


やがて、先に口を開いたのはツキだった。


「私の本名は、天羅木ツキ」


その声は静かだった。

けれど、ひどくはっきりと響いた。


「アガスティア教団のボス、天羅木幻一の娘」


空気が凍る。


藤野の眉がぴくりと動いた。

朝日奈も目を見開く。

凪沙が小さく息を呑む気配がした。


けれど、ルナだけは動かなかった。


ツキはまっすぐルナを見ている。


「……前に言ったこと、ほとんど嘘」

「……」

「父が教団に攫われたって話も」


その唇が、わずかに歪む。


「驚いたでしょ」

「……」

「だって、父は“教祖様”その人なんだから」


沈黙が落ちる。


ツキの声音に、笑いはなかった。

開き直りでも、挑発でもない。

ただ、自分の手で何かを切り落とすような響きだけがあった。


「私はずっと、アガスティアの人間だった」


ツキは続ける。


「強力な能力者を捕獲して、組織に引き渡すのも仕事のひとつ」

「……」

「本当は、ルナのことも──」


そこで、ほんのわずかに間が空いた。


「最初は“引き渡す対象”としてしか見てなかった」


凪沙がはっと息を呑む。


藤野の奥歯がきしむように噛み合う音がした。

朝日奈の目つきが鋭く変わる。


けれど、約束がある。

ここで手は出さない。


ルナはしばらく黙っていた。


まるで、その言葉の重さを一つずつ受け止めているみたいに。

傷ついていないわけがない。

それでも逃げずに、正面からツキを見ていた。


「……そっか」


やっと出た声は、驚くほど静かだった。


ツキの眉が、ごくわずかに動く。


「それだけ?」

「うん」

「怒らないの」

「怒ってるよ」

ルナは言った。


「かなしいし、苦しいし、ひどいとも思ってる」

「……」

「でも」


そこで一歩、前へ出る。


石片が小さく鳴った。


「……わたしは、秩序機関の隊員、恋羽ルナ。」

白い羽がかすかに揺れる。

「そして……あなたの友達」


その一言に、ツキの睫毛がわずかに震えた。


「友達だった、じゃないよ」

ルナはもう一歩だけ前へ出る。

「今も、そう思ってる」


「……勝手だね」


ツキの声は低かった。

呆れているようにも、怒っているようにも聞こえる。けれど、そのどちらにも振り切れていない。


「うん。……でも」

「お父さんを助けたいって言ってたツキの目、あれは嘘じゃなかった」


その言葉に、ツキの視線が揺れた。


ほんの一瞬。

けれど確かに。


「……何を知ってるの」

低く落ちた声は、さっきより少しだけ掠れていた。


ルナは答える。


「全部は知らないよ」

「だったら」

「でも、分かることはある」


ルナの肩の後ろで、白い光がふっと滲んだ。

まだ羽は展開しない。

けれど、その気配だけが静かに現れる。


「秩序機関としてじゃない」


ルナは言う。


「わたし……あなたのことが大好きだから」


「……!」

「背負いたいの。あなたの想いも、願いも、苦しさも、全部」


ツキの指先がぴくりと震える。


その表情は崩れない。

崩れないはずなのに、目だけがほんのわずかに揺れていた。


どうしてそんなふうに言えるのか。

どうして、知った上でなお近づこうとするのか。

どうして、そんなまっすぐな目で見るのか。


ツキは奥歯を噛みしめた。


「……やめて」

「やめない」

「やめてよ」

声がわずかに強くなる。


「そんなこと言われたら、私は」


続きは言葉にならなかった。


ルナはまっすぐツキを見つめたまま、静かに言う。


「ツキ、ほんとは一人で抱えたままでいたくないんでしょ」

「知ったようなこと言わないで」

「じゃあ違う?」

「違う」

「違わないよ」


ツキの足元で、石床がばきりと鳴った。


亀裂がさらに伸びる。


礼拝堂の空気が、ぴんと張る。


「ルナ」

ツキの声は低かった。

「それ以上、踏み込まないで」


「踏み込むよ」

「どうして」

「友達だから」

「……っ」


その一言が、何より深く刺さったみたいだった。


ツキの目が見開かれる。


友達。

その呼び名を、自分がまだ受け取っていいのか分からなかった。

最初は任務だった。

騙していた。

利用するつもりだった。

それでも、その時間の全部が偽物だったわけじゃないことを、いちばん自分が知っている。


だからこそ、耐えられなかった。


「……私は」

ツキの声が震える。

「そんな綺麗なものじゃない」


「知ってる」

「人を傷つけてきた」

「知ってる」

「裏切った」

「それでも」

「救われるべき人間じゃない!」


叫んだ瞬間、床が爆ぜた。


轟音とともに、祭壇の下の石床がめくれ上がる。

放射状に走った亀裂が、一気にルナの足元へ迫る。


「っ!」


ルナがとっさに飛び退く。

その背から、一枚の白い翼が大きく開いた。


砕けた石片が宙を舞う。


その間を縫うように、ツキの姿が消えた。


「速――」


藤野が息を呑む。


次の瞬間には、ツキはもうルナの懐に踏み込んでいた。


拳が振り抜かれる。


ルナは咄嗟に翼を前へ滑り込ませる。

白い羽が盾のように割り込んだ、その直後。


衝撃。


見えない圧が正面から叩きつけられ、ルナの体が大きく弾かれる。


「……っ、ぁ!」


礼拝堂の床を滑り、石片を散らしながら後退する。

翼がなければ、まともに受けていた。


ツキは低く構えたまま、微動だにしない。


「これが私」

その声は冷たかった。

「ルナが好きになった“神埜ツキ”なんて、最初からどこにもいない」

「いるよ」


弾かれた先で体勢を立て直しながら、ルナが言う。


ツキの眉がわずかに寄る。


「いる」

ルナはもう一度、はっきりと言った。

「いま目の前にいる」


「……まだ言うんだ」

「言うよ」

「なら」


ツキが地を蹴る。


今度は正面からではない。

崩れた柱を蹴り、壁を踏み、軌道を変えながら一気に上を取る。


高い。


人間の跳躍じゃない。

着地の衝撃すら推進力に変えているみたいな動きだった。


「――沈んで」


振り下ろされた踵が、礼拝堂の空気ごと叩き割る。


ルナは翼を上へ掲げる。

白い光が弧を描き、直撃を受け止める。


鈍い衝突音。


衝撃波が四方へ爆ぜ、砕けた木材と石片が一斉に吹き飛んだ。


藤野たちは反射的に腕で顔を庇う。


「これ……」

凪沙が目を見張る。

「ただの打撃じゃない……」


「衝撃そのものを増幅しているのか」

朝日奈が低く呟く。


灰薔薇だけが目を細めたまま、二人の動きを追っていた。


礼拝堂の中央。


押し合うようにぶつかったまま、ツキとルナが至近距離で睨み合う。


ツキの瞳は冷たい。

けれどその奥に、揺れがある。


「どうして、分からないの」


ツキが絞るように言う。


「優しさじゃ、何も救えない」


「そんなことない」

「ある」

「ないよ」

「ある!」


力が跳ねる。


ルナの翼が押し返され、ツキの衝撃が床を砕きながら広がる。


「優しさで救えるなら」


ツキの声が震える。


「あの日、誰も死ななかった」

「……」

「手を伸ばすだけで救えるなら、泣いてるだけの子どもが瓦礫の下で死んだりしない」


その目が、月光の中で鋭く光る。


「善意なんて、強さの前では無力だよ」

「弱いだけの人間なんて、いなくなればいい」


ルナの表情が変わる。


ただ受け止めるだけではない、深い痛みを見た顔だった。


「……ツキ」


呼びかける声に、今度は迷いがなかった。


「ツキは、弱い人が嫌いなんじゃない」

「……」

「弱いまま何もできなかった自分が、許せないんでしょ」


その瞬間。


ツキの動きが、ほんのわずかに止まった。


「……っ」


ルナはその隙に翼を大きく開く。

白い光が溢れ、ツキの体を押し返す。


距離が開く。


ツキは石床を滑って着地し、低く身を沈めたままルナを睨んだ。


「分かったような顔しないで」

「分かるよ」

「分かるわけない」

「分かる!」


ルナの声が、礼拝堂に強く響く。


「わたしも同じだから……!」


その一言で、空気が変わった。


月光の下で、ルナの白い翼が静かに震える。


「わたしも、誰も守れなかった」

「……」

「助けたかったのに、助けられなかった」


ルナは自分の胸元を押さえるようにして言った。


「……三年前、飛行機事故があったの」

「片翼を失って、そのまま墜ちた」

「大勢いた乗客の中で、生き残ったのは……わたしだけだった」

「どうして自分なんだろうって、ずっと思ってた」


ツキの目が揺れる。


「だから秩序機関に入ったの」


ルナは息を吸う。


「正義感だけじゃない。生き残った自分に、意味がほしかった」

「……」

「ツキが誰も救えなかった、弱いままの自分を許せなかったみたいに」


その目に涙はない。

けれど声だけが、少しだけ震えていた。


「わたしも同じだから……!」


長い沈黙が落ちた。


礼拝堂の中を、冷たい風が吹き抜ける。


ツキは何も言わなかった。

言えなかった。


知ってしまったからだ。

この子もまた、ただ綺麗なだけの側にいるんじゃない。

喪失を抱えて、それでも誰かを救おうとしている。


それが、余計に苦しかった。


ツキの指が強く握られる。

爪が掌に食い込む。


「……だから嫌なの」

かすれた声が落ちる。

「そんなふうに言われたら、私は……」


もう、壊すしかなくなる。


ツキが地を蹴った。


今度の一歩は、さっきまでよりも深い。

踏み込んだ瞬間、礼拝堂の石床が陥没し、衝撃波が円形に走る。


ルナもまた翼を広げ、真正面から踏み込んだ。


深紅と白が、月光の下で正面からぶつかる。


礼拝堂全体が揺れた。


正面からぶつかった衝撃で、崩れかけた天井から細かな砂塵がぱらぱらと落ちてくる。

白い翼と深紅の袖が絡み合うように交差し、次の瞬間には二人の姿が弾けるように離れた。


ルナが床を滑り、翼で体勢を立て直す。

ツキは着地と同時に片足を強く踏み込み、その反動だけで再び距離を詰めてきた。


速い。


一歩ごとに床が鳴る。

着地のたびに衝撃が増幅され、礼拝堂そのものが彼女の踏み込みに悲鳴を上げているみたいだった。


拳が振り抜かれる。


ルナは翼を翻して受け流す。

正面からは受けない。逸らし、浮き、軌道をずらす。

けれど、ただ防ぐだけでは押し切られる。


「っ……!」


横薙ぎの一撃を避けた瞬間、足元の石床が爆ぜる。

遅れて走った衝撃波がルナの脚を払った。


バランスが崩れる。


そこへ、深紅の影が踏み込んだ。


ツキの膝が、ルナの腹部へまっすぐ突き上がる。


「……ぁ!」


息が詰まり、ルナの体がわずかに浮く。

間髪入れず、振り下ろされた肘打ちが翼ごと肩を叩き落とした。


轟音。


ルナの体が床へ叩きつけられ、砕けた石片が跳ねる。


「ルナ!」

凪沙が思わず声を上げる。


藤野の足も一瞬前へ出かける。

だが、止める。

約束した。ここで手は出さない。


床に伏したまま、ルナは苦しげに息を吐く。

翼の光が少し揺らいでいた。


ツキは数歩先で立ち止まり、低く言う。


「……もう、やめて」

「やめない」

「どうして」

「止めたいから」


ルナはゆっくりと起き上がる。

片翼を支えにしながら、再びツキを見る。


その目を見た瞬間、ツキの胸の奥がざわついた。


どうして、まだ立つのか。

どうして、そんな顔ができるのか。


その視線が、遠い記憶を掠める。


崩れた校舎。

白い粉塵。

耳を埋めるような轟音。


小さな手が、瓦礫の隙間から伸びていた。


助けを求める手。


ツキも手を伸ばした。

泣きながら、必死に。

爪が割れて、指先が血だらけになっても、掘った。

名前を呼んだ。

もう少しで届きそうだった。


でも、届かなかった。


次の揺れで、すべてが崩れた。


「……っ」


ツキの呼吸がわずかに乱れる。


ルナがその変化を見逃さなかった。


「ツキ」

「……来ないで」

「行くよ」

「来るな!」


叫ぶと同時に、ツキが両足で床を蹴った。


石床に大きな亀裂が走る。

裂け目は波のように広がり、祭壇の段差すら砕きながらルナへ迫った。


ルナは翼を広げて飛び上がる。


その一瞬の浮遊を狙って、ツキも跳ぶ。


着地の衝撃を推進力に変え、空中でさらに加速する。


「逃がさない」


振り抜かれた拳の周囲で、空気が歪む。


ルナは咄嗟に翼を横へ滑らせた。

だが、直撃を避けても衝撃そのものは消えない。


見えない圧が頬を掠め、肩を打ち、背後の壁を粉砕する。


石壁が砕け散った。


「……っ、すご」

朝日奈が息を呑む。

「打撃の余波だけで、あれほどか……!」


灰薔薇は目を細めたまま、低く言う。


「まともに受ければ終わるな」


礼拝堂の中央では、ルナが一度距離を取る。

呼吸が乱れていた。

けれど、その目はまだ折れていない。


ツキは一歩、また一歩と近づく。


「優しさじゃ救えない」


低い声が、静かに落ちる。


「救いたいと思うだけじゃ、何も守れない」

「……」

「弱い者は死ぬ」


その言葉は、まるで自分自身に刻みつける呪いみたいだった。


「泣くだけの子も。動けない子も。手を伸ばされる側でいるだけの人間も」


ルナの表情が痛みに歪む。


それは今ぶつけられている攻撃のせいだけじゃない。

その言葉の奥にあるものが見えてしまったからだった。


「ツキ」

「黙って」

「その言葉、ずっと自分に言ってるでしょ」

「黙れ!」


ツキが踏み込む。


正面からの連打。

拳、肘、膝、踵。

ひとつひとつが鋭く、重く、そのたびに衝撃が空間ごと打ちつけてくる。


ルナは翼で受け、逸らし、かわし、耐える。


だが、押し切られる。


一撃が翼の端をかすめ、白い羽が数枚宙に散った。


ルナの足が大きくよろめく。


ツキはその隙を逃さない。

振りかぶった拳を、今度こそ真正面から叩き込もうとする。


その瞬間。


ルナは避けなかった。


代わりに、一枚の翼を前へ差し出すように広げた。


白い光が、ふっとやわらかく膨らむ。


衝撃の直前だった。


ツキの拳が、その光に触れる。


熱くも冷たくもない。

けれど、戦いの最中には場違いなくらい穏やかな感触だった。


「……っ」


一瞬だけ、ツキの動きが止まる。


その光は、攻撃を防ぐためだけのものじゃなかった。

傷を塞いだ、あの日の光と同じだった。


屋上の風。

差し出された手。

「縁」と笑った声。


忘れたつもりの記憶が、嫌でも蘇る。


その揺らぎを、ルナは逃さなかった。


「ツキ!」


翼が大きく開く。

白い光が弾け、ツキの体を真正面から押し返す。


「……っ!」


ツキは後方へ跳び退くが、着地が半歩遅れる。

そこへルナが踏み込んだ。


守るためのものだったはずの翼が、

今はまっすぐ意志を乗せて振るわれる。


白い羽が弧を描き、ツキの腕を払う。

さらにもう一撃。

深紅の袖が裂け、体勢が崩れる。


ツキは反射的に踵を振り下ろし、床を砕いて衝撃を起こす。

ルナは跳ぶ。

粉塵の上を滑るように浮き、そのまま真上から急降下した。


「っ……!」


ツキが両腕を交差して受ける。

だが、ルナはそこで止まらない。


翼の先端が、ただ鋭いだけではなく、やわらかな光をまとっている。

押し潰すためではなく、包み込むための光。


「ひとりで背負わなくていい!」


白い衝撃が、真正面からツキを打った。


轟音。


祭壇の前の石床が砕け、深紅の少女の体がその場に膝をつく。


静寂が落ちる。


息を呑む音だけが、礼拝堂の隅に残った。


ツキは片膝をついたまま、動かなかった。


肩が上下している。

乱れた呼吸だけが、彼女がまだ立ち上がろうとしている証みたいだった。


ルナも少し離れた場所で立ち止まる。

翼はまだ出ている。

けれど、追撃はしない。


「……終わりにしよう、ツキ」


その声に、ツキは顔を上げた。


薄藍色の髪が額に張りついている。

口元には血が滲んでいた。


それ以上、どちらも踏み込まなかった。

張りつめた静けさが、礼拝堂を満たしていく。


***


「……終わらない」


かすれた声が落ちる。


「私が止まったって、あの人は止まらない」

「……」

「父は、もう戻れないところまで行ってる」


ルナが小さく息を呑む。

「……やっぱり」

「うん」


ツキは笑わなかった。

泣きもしなかった。

ただ、何かを諦めきれない目で前を見ていた。


「お父さんを助けたいって言ったのは、本当」


その声はひどく静かだった。


「でも、あれは本当の父じゃない」

「……?」

「血は繋がってない」


ルナの目が揺れる。

藤野たちも息を止める。


ツキはゆっくりと言う。


「私は、あの人に拾われたの」

「地震のあと、何もなくなった街で」


その指が、砕けた石床の上でかすかに震えた。


「みんなが何もできなかった場所で、あの人だけが人を救った」

「能力者を従えて、瓦礫をどかして、混乱を力で押さえつけて」

「何も持たない人たちが立ち尽くすしかなかった場所で、あの人だけが世界を変えた」


朝日奈が黙ったまま目を細める。

藤野も口を開かなかった。


それが、ツキの原点なのだと分かったからだ。


「だから思ったの」


ツキは言う。


「強い者だけが世界を変えられるんだって」

「やさしさだけじゃ足りない。正しさだけでも足りない。力がないなら、目の前のひとりさえ救えない」


その言葉は、もう誰かを傷つけるためのものじゃなかった。

自分の中の傷を、ようやく見せた声だった。


「でも」


そこで、ツキの唇がわずかに震える。


「……あの人は、壊れていった」


ルナが目を上げる。


「強さでしか救えないって、そう信じたまま」

「止めたいの」

声がかすれる。

「止めなきゃいけない」


その指が強く握られる。


「でも、私じゃ無理」

「近くで見てきたから分かる。あの人の力は、もう私の手には負えない」


礼拝堂の中を、冷たい風が吹き抜けた。


ルナは一歩、ツキへ近づく。


今度は、ツキは止めなかった。

ツキは片膝をついたまま、かすかに顔を上げた。

口元には血が滲み、呼吸はまだ浅い。

それでも、その目はルナから逸れなかった。


「それで、ツキはどうしたいの」


ツキは少しだけ黙った。

それから、まっすぐルナを見返す。


「アガスティア教団の殲滅作戦……近いんでしょ」

「それに私も協力する」


その声に、迷いはなかった。


「父を止めるために」

「その代わり」


そこでわずかに目を伏せる。


「終わったあと、私をどうするかはそっちで決めればいい」


「だめだよ」


すぐに返したのはルナだった。


「そんな言い方しないで」

ツキが目を見開く。

「でも」

「でもじゃない」


ルナは一歩近づく。


「ツキは使い捨てじゃない」

「協力して終わり、処分して終わり、そんなふうにさせない」


その言葉に、ツキの喉が小さく動く。

言い返せない。


ルナは振り返らずに言った。


「それでいいですよね、藤野先輩」

「……ああ」

「朝日奈先輩」

「うむ」

「白崎先輩、灰薔薇先輩」


誰も反対しなかった。


沈黙はあった。

でも、その沈黙は拒絶ではなかった。


そのことが、ツキには分かってしまった。


「……どうして」

絞り出すような声が漏れた。

「どうして、そこまで」


ルナは少しだけ困ったように笑った。


「言ったでしょ」

「ツキのことが、大好きだから」


その言葉に、とうとうツキは何も返せなかった。


顔を伏せる。

薄藍色の髪が影を落とす。


礼拝堂に、戦いのあとの静けさだけが澄んで残る。


***


やがて、その沈黙を破ったのは藤野だった。


「……で」


低い声が、冷えた空気の中に落ちる。


「協力するって言うなら、聞かせろ」


ツキがゆっくり顔を上げる。

藤野は続けた。


「アガスティアのこと」

「本拠地のこと」

「お前の父親のこともだ」


礼拝堂の空気が、少しだけ張る。


ツキはしばらく何も言わなかった。

けれど、もう隠すつもりはないのだろう。

やがて小さく息を吐くと、砕けた石床へ視線を落としたまま口を開いた。


「本拠地はある。ただし、普通には見つけられない」


朝日奈が眉をひそめる。

「どういう意味だ」


「結界の能力者が隠してる」

ツキは答える。

「外から見ても、そこに“ある”と認識しにくい。道順も、視界も、場合によっては記憶までずらされる」


凪沙が息を呑む。

「そんなこと……」

「できる」

灰薔薇が低く言う。

「珍しくはない。面倒だがな」


ツキは続ける。


「内部の人間でも、自由に出入りできるわけじゃない。だから私も正確な位置までは言えない」

「でも」

ルナが静かに言う。

「手がかりはあるんだよね」

「……うん」


ツキはそこで初めて、はっきりと顔を上げた。


「結界が薄くなる時間がある」

「出入りに使うルートも、ひとつだけ心当たりがある。そこなら、侵入できる可能性はある」


藤野は黙ったまま聞いていた。

朝日奈が問う。


「天羅木幻一本人は、そこにいるのだな」

「いる」

ツキの返答に迷いはなかった。

「少なくとも、今はまだ本拠地を離れないはず」

「なぜそう言い切れる」

「準備してるから」


「準備?」

凪沙が聞き返す。


ツキは静かに言った。


「“楽園”を作る準備」


壊れた窓枠が、小さく軋む。


「父は本気で信じてる。強い能力者だけが、新しい世界を作るべきだって」


灰薔薇が冷ややかに言う。


「弱い者が切り捨てられる世界か」


「……そこまで単純なら、まだよかった」


ツキが、かすかに目を伏せる。


「父は弱い者を憎んでるんじゃない」

「救えなかったものに囚われたまま、弱さを否定し続けてる」

「そうしないと、自分を保てないだけ」


誰も口を挟まない。


「あの人の能力は、“崩蝕物質”」


その単語が落ちた瞬間、礼拝堂の空気がひやりと冷えた気がした。


「崩蝕……?」

朝日奈が目を細める。


ツキは言葉を選ぶように続ける。


「灰みたいな、砂みたいな……でも泥にも近い、異様な物質を生み出す」

「黒くて、軽いのに、意志を持ってるみたいに浮く」

「それが、触れたものを崩す」


凪沙の喉が小さく鳴る。


「崩すって……」

「文字通り」


ツキの声は静かだった。


「金属も、石も、コンクリートも」

そこで一度、言葉が切れる。


「人間の体も」


崩れた礼拝堂の中に、冷たい沈黙が落ちる。


やがてルナが、低く問う。


「……どうして、そんな力を持つ人が」


ツキはしばらく答えなかった。

それから、ぽつりと言う。


「昔、父は……自分で抱きしめた娘を、その力で殺してしまったの」


全員が息を呑む。


「その喪失を埋めるために、弱さを否定して、自分を正当化しようとしてるだけ」


ルナが目を伏せる。

凪沙も、何も言えないままツキを見ていた。


ツキはもう、誰の顔も見ていなかった。


「……でも」

唇を引き結ぶ。

「もう、止めなきゃいけない」


沈黙の中で、先に動いたのは藤野だった。


砕けた石床を踏みしめて、一歩、ツキの前へ出る。


ツキは片膝をついたまま、ゆっくり顔を上げた。


藤野は何も言わないまま、その手を差し出した。


取引のためじゃない。

情報を引き出すためでもない。

ただ、止めるために。

終わらせるために。

そして、連れ戻すために。


ツキの視線が、その手に落ちる。


細い指先が、かすかに震えていた。


しばらく、動かなかった。

差し出された手を見つめたまま、迷うように息を止めていた。


けれど、やがて。

ツキは壊れものに触れるみたいに、そっとその手を伸ばした。


指先が触れる。


張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。


ツキは強くは握らない。

ただ、確かめるみたいに、逃がさないみたいに、藤野の手を取る。


藤野はツキをまっすぐ見たまま、低く言った。


「行こう、ツキ」

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