第22話 白の観測者
夜、自室。
薄暗い部屋の床に桶を置き、藤野はその上へ静かに手をかざした。
何もないはずの空間から、透明な液体が音もなく落ちてくる。
さらさらと、見えない裂け目でも開いたように、水が桶の中へ流れ込んでいく。
傍から見れば、空間から水を生み出しているように見えるだろう。
だが実際には違う。藤野は触れたものを水に変える力で、空気を水へと変えているだけだった。
それだけのことだ。
それだけのはずなのに、水面の揺れを見ていると、胸の奥まで落ち着かなくなる。
朝日奈の過去のことが、頭から離れなかった。
灰黒重工。
研究施設。
八歳から七年間。
幼馴染が抱いていた違和感。
玲緒の拒絶。
灰薔薇の、軽々しく話せることではない、という言葉。
断片だけなら見えてきている。
だが、見えてきたのはあくまで断片でしかなかった。
むしろ知れば知るほど、まだ埋まっていない空白の輪郭だけが、はっきりしていく。
そして、その空白の中心にはいつもあの男がいる。
白瀬。
あの男は、ただ朝日奈を知っているだけではない。
もっと深いところで、朝日奈の核心に触れている。
そんな感覚が、藤野の中でじわじわと確信に変わりつつあった。
「……超能力の研究施設、か」
口にしてみると、その言葉は思った以上に重かった。
藤野は桶の水へ目を落とす。
自分の能力のことは、凪沙と朝日奈、灰薔薇、恋羽には知られている。
だが、それ以外にはほとんど認知されていない。
少なくとも朝日奈と出会うまでは、この力を誰かのために使うこともなかった。
それが今まで大ごとにならずに済んでいたのは、運だけではない。
藤野自身、かなり慎重に生きてきた。目立たないように、知られないように、できるだけ普通でいるように。
そのうえ、この力は派手ではない。
電気のように目を引かない。炎のように分かりやすくもない。
一見しただけでは異常に見えにくい。だから、ここまで逃げ切れていた。
だが、もし少し違っていたら。
誰かに見つかっていたら。
価値を見出されていたら。
研究対象として目をつけられていたら。
――俺だって。
朝日奈零と同じ道を辿っていたかもしれない。
そう思った瞬間、想像はずしりと胸の底へ沈んだ。
朝日奈の過去は、まだ全部分かったわけではない。
それでも十分すぎるほど重い。
ただ昔いなくなっていた、記憶を失っていた、そんな綺麗な言葉で済ませられる話ではないことくらいは分かる。
しかもあいつは、それをずっと笑って隠していた。
人助けに奔走して、くだらないことで騒いで、ヒーローだなんだと胸を張って。
その全部の下に、あんなものを抱えたまま。
「……なんなんだよ、お前」
揺れているのは桶の中の水だけではない。
自分の心のほうも同じだった。
朝日奈の過去を知りたい。
白瀬の正体も知りたい。
何より、朝日奈が何に怯えているのかを知りたかった。
好奇心ではない。
知らなければ、守れない気がするからだ。
「……守る、ね」
自分で口にして、苦く笑う。
何を偉そうに、と思う。そんな大した力があるわけでもないのに。
けれど、長いあいだ誰にも自分の能力を話せなかったからこそ分かることもあった。
隠しているものには、大抵、人に言えない理由がある。
言いたくないのではない。
言えば壊れるかもしれないから、言えないのだ。
桶の中の水は、いつの間にか半分以上まで溜まっていた。
藤野は手を下ろす。流れが止み、部屋は急に静かになった。
その静けさの中で、朝日奈の存在だけが妙に近く感じられる。
もう、他人の話ではなかった。
想像するだけで息が詰まる。
だがそれ以上に、そんなものを抱えたまま、あいつがいつも通りに笑っていることのほうがきつかった。
藤野はゆっくりと桶の中へ手を入れた。冷たい水が指先にまとわりつく。
「……あの男」
白瀬。
あいつが朝日奈の過去に繋がる鍵だ。
それだけは、たぶん間違いない。
ならば、朝日奈の真実に近づくには、結局あいつを避けては通れないのかもしれない。
最悪だ、と藤野は思う。
あの男に近づけばろくなことにならない。それくらい本能で分かる。
それでも、知るためには避けて通れない気がした。
知りたい。
だが知れば、きっと戻れない。
その予感だけは妙にはっきりしていた。
藤野は手を水から抜く。滴が床に落ち、小さな音を立てる。
朝日奈零。お前はいったい、どこまで一人で抱えてるんだ。
返事はない。
ただ夜の静けさだけが、変わらず部屋に満ちていた。
そして藤野は、まだ自分でも気づかないまま、朝日奈の過去を知ることより先に、その過去ごと朝日奈を背負う覚悟へ、少しずつ足を踏み入れ始めていた。
***
休日の午後、街は穏やかに賑わっていた。
駅前の通りは人で埋まり、店内放送と笑い声が絶えず耳に入る。
藤野はその雑踏の中を、凪沙と並んで歩いていた。
「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
「別に。暇だったし」
「ほんとに? なんかちょっと面倒くさそうな顔してたけど」
「してねぇよ」
「そう?」
凪沙は笑いながらショーウィンドウの前で立ち止まる。
「やっぱり秋服ほしいなあ」
「前もそんなこと言ってなかったか」
「前は『ほしい』で終わったの。今日は『買う』日」
「なるほど」
適当に相槌を打ちながら、藤野は少し後ろを歩く。
店に入ってからも、凪沙は何着か手に取り、鏡の前で迷い続けた。
「これ変かな?」
「いや、似合ってるんじゃない」
「ほんと?」
「たぶん」
「『たぶん』ってなに……」
くだらないやり取りが続く。
藤野自身は服にそこまで興味がない。
けれど、凪沙が楽しそうにしているのを見ているのは嫌いではなかった。
だからこそ、途中で何度か感じた視線が妙に引っかかった。
気のせいかとも思った。
だが、人混みの向こう、ガラスに映り込む白い影のようなものが、どこかで視界の端に残り続けていた。
夕方になり、買い物を終えて駅前で凪沙と別れた。
「今日はありがとね」
「別に」
「また付き合ってよ」
「気が向いたらな」
「絶対また付き合ってもらうから」
そう言って笑う凪沙を見送り、藤野は一人で帰路につく。
空は少しずつ暗くなり始め、人通りもまばらになっていた。
住宅街へ抜ける細い道に入ったとき、背後の空気がかすかに揺れた気がした。
振り向く。
街灯の下に、白い男が立っていた。
白瀬だった。
最初からそこにいたようでもあり、今しがた闇の中から滲み出してきたようでもある。
姿のあり方そのものが現実味を欠いていた。
「やあ。また会ったね」
穏やかな声だった。
藤野は一瞬だけ息を詰めたが、すぐに視線を逸らさず返した。
「……俺も会いたいと思ってたところだよ」
白瀬の目がわずかに細まる。
藤野の中にあるのは嫌悪と警戒だけではない。
確かめたいという意志が、自分でも抑えきれないほど前に出ていた。
「あんた、灰黒重工の人間なのか」
白瀬は薄く笑った。
「そこまで調べたんだ。朝日奈くんに聞いたのかな」
「……いや」
朝日奈に直接聞いたわけではない。
自分で探って、周囲の言葉を繋ぎ合わせただけだ。
「そこで超能力の研究をしてる。そうなんだろ」
白瀬は否定しなかった。
その沈黙だけで十分だった。
やはりそうだ。あの男は朝日奈の過去に直結している。
「……朝日奈に何をした」
「随分、まっすぐ聞くね」
「はぐらかすな」
「怖くないのかい?」
「怖いよ。でも、だからって引く理由にはならない」
白瀬が一歩近づく。
藤野は動かなかった。
ただ、いつでも動けるように重心だけを整える。
「朝日奈くんのことが、そんなに気になる?」
「当たり前だろ」
「友達だから?」
藤野は少しだけ黙った。
「……放っておけないだけだ」
「へえ」
次の瞬間、白瀬は何でもない調子で言った。
「白崎さんも?」
その名前を聞いた途端、藤野の表情がわずかに固くなった。
ほんの一瞬のことだった。
だが、拾われたと分かるには十分だった。
「……あんた」
声が低くなる。
「なるほど。そちらの方が大事なのか」
「違う」
即答したせいで、かえって反応が早すぎたと分かる。
「違わない顔をしているよ」
藤野は唇を噛んだ。
「やめろ。その名前を軽々しく出すな」
「軽々しくじゃないよ。大事な情報だから、丁寧に扱っているだけだ」
その言い方に、背筋が冷えた。嫌悪が一気に込み上げる。
「……最低だな」
「よく言われる」
白瀬は穏やかなまま言った。
「でも、君も分かってきただろう? ゼロワンが何に怯えていたか」
“ゼロワン”。
この男の口ぶりから、朝日奈のことだとわかった。
だがその呼び方は不快でしかない。
藤野は黙る。
分かりたくないほど分かってきていた。
朝日奈は、自分のためだけに怯えていたのではない。
周囲を巻き込むことを恐れていた。
「君は賢いね」
「褒められても嬉しくない」
「だろうね。でも君、やっぱり面白い」
「……は?」
「普通の学生にしては、踏み込み方が深すぎる」
その言葉に、藤野の中で警戒がひとつ深くなる。
「ゼロワンに近いだけじゃない。君自身にも、少し興味が湧いてきた」
その瞬間、本能的に理解した。
この男に興味を持たれること自体が危険なのだと。
「あんた、次は俺を調べる気か」
「もう少し丁寧に見てみようとは思ってる」
隠す気のない返答だった。
それが余計に不気味だった。
藤野が小さく舌打ちすると、白瀬はその顔をじっと見たまま、ふいに言った。
「……君の“力”」
胸がどくりと鳴る。
表情が強張ったのが、自分でも分かった。
しまった、と思う。
白瀬はその小さな変化すら、見逃さない目をしていた。
「いつから持っているのかな……?」
まだ確証があるわけではない。
ただ反応を試されているだけだ。
ここで動揺を見せれば終わる。
藤野はできるだけ平坦な声を作った。
「……なんの話だ」
白瀬は答えない。ただ見ている。
その視線は皮膚の上ではなく、隠しているものの輪郭そのものをなぞるようだった。
その感覚に、藤野はふと朝日奈の顔を思い出した。
あいつはずっと、この目に晒されていたのかもしれない。
胸の奥へ重いものが落ちる。
やがて白瀬は、何でもないように微笑んだ。
「……いや、なんでもないよ」
軽い口調だった。
だが、疑いが消えたわけではないと分かる。
むしろ今の反応を覚えられた。それだけだ。
「でも、もし何か隠しているなら、ゼロワンに似たものを感じるのも納得がいく」
「やめろ」
藤野は低く言った。
「朝日奈を、その呼び方で呼ぶな」
白瀬はわずかに眉を上げ、それから薄く笑った。
その一言だけで、また別のものまで拾われた気がした。
会話しているようでいて、この男はずっと検査している。
質問も、沈黙も、視線も、すべて観察のためにある。
朝日奈が白瀬を前にしたとき、あれほど警戒していた理由が少し分かった気がした。
怖いだけではない。
この男の前では、一瞬の反応すら奪われる。
隠し事を隠し事のまま持っていられない。
「今日はこれくらいにしておこうか」
白瀬は少し距離を取った。
「ゼロワンのことを知りたいなら、もう少し慎重に動いた方がいい」
忠告の形をした、明らかな牽制だった。
「また会おう、藤野くん」
「極力会いたくないな」
「それは難しい相談だね」
街灯の光が揺れた次の瞬間、白瀬の姿は消えていた。
あとに残ったのは夜の冷えた空気だけだった。
藤野はその場に立ち尽くす。
全身がじわじわと冷えていく。
あの男は、目の前で何かを壊すわけではない。
もっと静かに、もっと丁寧に、人の弱いところを見つけて触れてくる。
そして今、自分は見つかった。
朝日奈零の友人としてではなく、藤野耕介という個人として。
「……くそ」
吐き捨てるように呟いた。
けれど、その一方で分かってしまったこともある。
白瀬はやはり、朝日奈の過去に繋がる核心だ。
しかもあいつは、自分にまで目を向け始めている。
なら、ここから先はもう完全に無関係ではいられない。
藤野はしばらく、その場から動けなかった。
***
数日後の放課後だった。
その日は朝から、朝日奈の様子がどこか落ち着かなかった。
普段みたいに騒いではいるのに、どこか上滑りしているような、不自然な明るさがあった。
ホームルームが終わると、朝日奈はいつもより早く荷物をまとめ始めた。
藤野はそれを見て、席を立つ。
「朝日奈」
「わっ」
肩がわずかに跳ねる。
振り向いた朝日奈は、いつもの笑顔を作ろうとしていた。
だが、間に合っていない。
驚いた表情のまま、無理やり口元だけ持ち上げたような顔だった。
「今日、部活どうする?」
藤野はできるだけ普段通りの口調で言う。
「部室で白崎とチラシ作りしようって話してたんだけど」
「わ、わるい! 藤野くん!」
返事が少し大きすぎた。
教室にまだ何人か残っていたクラスメイトが、何事かとこちらを見る。
朝日奈はそれに気づいたのか、小さく咳払いしてから、気まずそうに目を逸らした。
「き、今日は……むりなんだ」
「……そうか」
それだけ返したものの、藤野はそのまま朝日奈を見た。
朝日奈は視線を合わせようとしない。
鞄の持ち手を握り直し、落ち着かない様子で肩を揺らしている。
「……なあ、朝日奈」
「な、なんだ!」
「変なことに巻き込まれてないよな」
一瞬、朝日奈の表情が止まった。
「一人で怪しいとこ行くなよ」
「……っ」
その言葉に、朝日奈の喉が小さく動く。
ほんの数秒の沈黙だった。
だが、藤野にはその短さが妙に長く感じられた。
やがて朝日奈は、いつもの調子を取り戻そうとするみたいに、少しだけ胸を張った。
「わ、わかっているとも! 心配ご無用だ! ヒーローは怪しい人間にも屈しないからな!」
声は明るい。
けれど、その明るさが逆に空々しかった。
藤野は何も言わず、黙って朝日奈を見つめる。
朝日奈は最初こそ笑っていたが、その視線を受け止めきれなくなったのか、少しずつ表情を曇らせた。
そして、ふっと目を伏せる。
「……君も、気をつけてくれ。藤野くん」
その声はさっきまでより低かった。
「……本当に」
「……ああ」
藤野が短く答えると、朝日奈は小さくうなずいた。
それ以上は何も言わず、踵を返す。
教室の扉が閉まる音が、やけに乾いて聞こえた。
藤野はしばらくその場に立ったまま、閉じた扉を見ていた。
あいつは、何かを隠している。
それも、かなりまずいことだ。
そんな確信だけが、胸の奥に鈍く残った。
***
放課後の部室には、西日の名残が薄く差し込んでいた。
机の上には、××部依頼募集のチラシの下書きや色ペン、はさみやのりが散らばっている。
凪沙はプリントを広げながら、何やら真剣な顔でレイアウトを考えていた。
「うーん、やっぱりこっちの方が見やすいかな」
独り言のように呟いてから、ふと顔を上げる。
「フジくん、大丈夫? 顔色わるいよ」
「……」
藤野は返事をしなかった。
机の上の紙を見ているようで、何も見ていない。
「フジくん」
「! ……あ、ああ。悪い」
凪沙は少しだけ首を傾げた。
「なにか考えてる?」
「……」
考えることは山ほどある。
ルナのこと。
ツキのこと。
アガスティアのこと。
最近、周りで起きていることはどれも厄介で、一つとして軽くはない。
けれど今、いちばん頭から離れないのは別だった。
「……朝日奈のことが、少し気になる」
「ヒナくん?」
凪沙の目がわずかに丸くなる。
「最近、おかしい」
藤野は机の上に視線を落としたまま言う。
「一人でどこか行ってる。今日も様子が変だった」
凪沙は少し黙った。
軽く受け流すこともできたはずなのに、そうしなかった。
「……二人で探してみる?」
その言い方はやわらかかった。
無理に踏み込むでもなく、でも放っておきもしない、凪沙らしい声音だった。
藤野は答えなかった。
探したい。
だが同時に、巻き込みたくないという気持ちが強くあった。
朝日奈のことを考えるたびに、白瀬の顔が浮かぶ。
研究施設。過去。隠している何か。
そこに凪沙を近づけるのは、どうしても嫌だった。
しばらくしてから、藤野は低く言う。
「……俺一人で探す」
「え?」
凪沙が目を瞬かせる。
藤野は顔を上げた。
はっきり断られるつもりで見たのに、凪沙の表情は思ったより静かだった。
「……頼む」
それだけ言うと、凪沙はしばらく藤野を見つめていた。
止めたい気持ちもあるのだろう。
でも、今の藤野が引かないことも分かっている顔だった。
やがて凪沙は小さく息をついて、うなずく。
「……わかった」
その返事に、藤野は短く「悪い」とだけ返した。
部室にはまた静けさが落ちる。
紙をめくる音も、窓の外の運動部の声も、どこか遠く感じられた。
朝日奈は、何かに巻き込まれている。
しかも、それは自分から話せる類のものではない。
そう思うほど、嫌な予感だけがはっきりしていった。
***
藤野は街を探し回った。
朝日奈が行きそうな場所を、思いつく限り一つずつ潰していく。
駅前のヒーローグッズ店。
休日にはよく子どもに混じって目を輝かせている場所だが、今日は姿がない。
駅前広場。
待ち合わせの人波に紛れていないかと見渡したが、それらしい影は見つからなかった。
公園。
ベンチの並ぶ遊歩道。
大通り沿いの店先。
朝日奈がふらっと立ち寄りそうな場所を、藤野は無言で歩き続けた。
探しながら、何度も思う。
ただの考えすぎかもしれない。
あいつにも、一人になりたい日くらいあるのかもしれない。
用事があると言ったのだって、本当だったのかもしれない。
けれど、そのたびに教室での朝日奈の顔が浮かぶ。
無理に作った笑顔。
不自然な声。
そして最後に落ちた、あの影。
――本当に。
あの言い方だけが、どうしても頭から離れなかった。
気づけば空はすっかり暗くなっていた。
人通りの多い通りを抜け、駅前の喧騒も少しずつ遠ざかっていく。
明るい店の灯りと雑踏の熱気から外れたあたりで、藤野は足を止めた。
駅前の喧騒から少し外れた路地裏だった。
駅前のすぐ近くのはずなのに、人の気配も足音も遠い。
騒がしさだけが、壁を何枚も隔てた向こうからかすかに届いてくる。
路地の奥、薄暗い壁際に寄りかかるようにして、朝日奈がうずくまっていた。
「……っ、……は……」
呼吸が乱れている。
近づく前から、明らかに様子がおかしいと分かった。
肩は小刻みに震え、口元を押さえた指の隙間からは赤が滲んでいる。
――吐血。
藤野の足が止まる。
それだけではない。
袖口から覗く手首には、きつく締めつけられたような赤い痕が残っていた。
擦れたように皮膚が荒れていて、一目で普通ではないと分かる。
胸の奥が、音もなく冷えていく。
「……朝日奈?」
呼びかけると、朝日奈の肩がびくりと震える。
顔を上げたその表情は、見たことがないほど消耗していた。
「……っ、なんで……」
「悪い。追ってきた」
駆け寄ろうとした瞬間、朝日奈が反射的に手を伸ばした。
「……来るな……!」
掠れた、弱い声だった。
それでも必死さだけは痛いほど伝わる。
藤野は足を止めた。
「今は、来るな……」
言いながら、朝日奈の目は藤野を見ていない。
その視線は、藤野の向こう、路地のさらに奥へと向いていた。
嫌な予感が背筋を撫でる。
藤野はゆっくり顔を上げた。
路地の奥には、古びたコンテナと積み上げられた資材が影を落としていた。
さっきまでそこには何もいなかったはずだった。
それなのに。
白いものが、闇の中に立っている。
最初は輪郭が曖昧だった。
街灯の届かない薄闇の中で、そこだけ白く浮いている。
人の形をしているのに、妙に質感が薄い。
まるで最初からそこにいたものが、ようやく目に馴染んできたみたいだった。
一歩、二歩と視線を定めるうちに、それは男の姿を結んだ。
白瀬。
白いコートが、夜の色から切り離されたみたいに浮かび上がっている。
「やあ」
穏やかな声だった。
朝日奈の顔からさらに血の気が引く。
「安心していい。君に用があって出てきたわけじゃない。彼を迎えに来ただけだよ」
「やめろ……」
朝日奈の喉がひくりと鳴る。
白瀬は何でもないことのように言った。
「今日は少し刺激が強すぎたみたいでね」
「だから、もう少し落ち着く場所へ戻そうと思っていた」
朝日奈は壁に爪を立てるようにして体を起こそうとする。
だが、足に力が入っていない。
「また同じ痛みを与えれば、少しは素直になるだろうし」
「……やめろ……!」
絞り出した声は弱かった。
藤野の中で怒りが静かに冷えていく。
ただ、目の前の男の言葉のひとつひとつが、あまりにも許せなかった。
「……お前がやったのか」
低い声で問う。
すると、白瀬はためらいなく答えた。
「そうだよ。私がそうした」
朝日奈は否定できない。
呼吸も視線も乱れ、口元の血もまだ乾いていない。
このまま放っておけば、また連れていかれる。
その確信だけがあった。
「逃げるぞ、朝日奈」
静かな声で藤野は言った。
朝日奈が目を見開く。
「立てるか」
朝日奈は息を乱しながら首を振る。
「……だめ、だ……来るな……」
「来るよ」
即答だった。
「お前を置いていく気はない」
「優しいね」
白瀬の声に、藤野は視線だけを向ける。
「黙れ。これ以上近づくな」
「断るよ」
その瞬間、朝日奈が無理に立ち上がろうとして、足をもつれさせた。
「っ……!」
倒れかけた体を、藤野は咄嗟に支える。
肩へ腕を回した瞬間、その体温が異様に熱いことに気づいた。
だが芯は冷えきっているようでもあった。
白瀬は、もう数歩の距離にいた。
「その状態で、どうやって逃がすつもりかな」
「……」
藤野は答えない。
ただ、朝日奈を支えたまま、白瀬との間合いを測っていた。
逃げ道は狭い。
左右は壁、前には白瀬。
朝日奈を抱えたままでは、とても抜けられない。
なら。
藤野は一瞬だけ目を伏せた。
分かっていた。
ここで力を使えば終わる。
見られる。知られる。
それでも、使わなければ助けられない。
逡巡は、ほんの一瞬だった。
「……悪い」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
藤野は朝日奈を壁際に預け、一歩前へ出る。
そして白瀬から目を逸らさないまま、手袋を外し、静かに地面へ手をついた。
次の瞬間、コンクリートの床が、触れた一点から透明に崩れた。
地面を伝い、壁をつたい、周囲の世界が一気に液体へ変わっていく。
灰色の床が、静かに形を失って流れ出す。
壁面の一部がどろりと崩れ、積まれたコンテナの下部が水となって沈み、路地裏そのものの輪郭が揺らぐ。
白瀬の足元が液状化し、体勢が一瞬だけ崩れた。
「な……」
その表情が、初めてわずかに動く。
その隙に藤野は朝日奈の腕を引いた。
「今だ!」
朝日奈が息を呑む。
見慣れていたはずの力が、今はまるで別物に見えた。
今まで見たどの使い方よりも、
ずっと危険で、恐ろしくて、───美しかった。
何より、それが自分を助けるために使われたことが痛いほど伝わってきた。
白瀬は完全に動きを止めていた。
視線はもう朝日奈ではなく、藤野だけを見ている。
「……物質変換」
ぽつりと呟く声が聞こえた。
「接触を起点に――世界の一部を置換するのか」
その声音に滲んだものを、藤野は聞きたくもないのに理解してしまった。
まずい、と思った。
いや、もう遅い。
見られた。完全に。
「藤野には近づくな……!」
朝日奈が絞り出すように言う。
白瀬はその声に一瞬だけ朝日奈を見て、またすぐ藤野へ視線を戻した。
「もう無理だよ」
静かな一言だった。
だがそれだけで十分だった。
白瀬は崩れた足場と流れる水を一瞥し、薄く笑う。
「今日はこれで十分だ。収穫が多すぎる」
その言葉を残して、白い輪郭が揺らぐ。
次の瞬間には、夜の空気に溶けるように姿を消していた。
あとに残ったのは、崩れた路地裏と流れる水の音だけだった。
「……っ、……は……」
朝日奈の膝が崩れる。藤野はすぐに支えた。
「大丈夫か」
声は静かだったが、その奥では感情が煮えていた。
朝日奈は俯いたまま、震える声で言う。
「……なんで、使った……」
責めたいわけではない。
それでもそう言うしかないような声だった。
藤野は少しだけ黙った。
「分かってた」
朝日奈の肩が揺れる。
「使えば、あいつに知られるって。それでも――お前をあのまま連れて行かせるよりはましだと思った」
朝日奈は何も言えないまま、ただ息を呑んでいた。
助けられた。
だが同時に、自分のせいで藤野まで白瀬の視界に入ってしまった。
その重さが、そのまま表情に滲んでいるようだった。
「……最悪だ……」
朝日奈が掠れた声で呟く。
「……ああ」
藤野も静かに答えた。
「最悪だな」
だがその声に、自分の力を使ったことへの後悔はなかった。
目の前の状況そのものに対する、冷えた怒りだけがあった。
路地裏にはまだ、藤野が変えた水が残っている。
透明で静かで、取り返しのつかなさだけがはっきりとそこにあった。
今この瞬間から、もう全部が変わってしまう。
二人とも、それを分かっていた。
***
白瀬の脅威が去ったあと、二人は人気のない公園まで来ていた。
朝日奈はベンチに浅く腰掛けたまま、俯いていた。
呼吸はさっきより落ち着いていたが、顔色はまだ悪い。
拭ったはずの口元の血も、白い肌の上ではかえって目立って見えた。
藤野は近くの自販機で買った水と、コンビニで揃えた消毒液やガーゼをベンチの端に置いた。
「口、切れてる」
声をかけても、朝日奈は反応しない。
「拭けよ」
「……別にいい」
「よくねえだろ」
そう返すと、朝日奈はわずかに眉を寄せた。
怒っているというより、どう扱えばいいのか分からないような顔だった。
「……放っておいてくれ」
言われるだろうとは思っていた。
でも実際に口にされると、やはり少し重かった。
「放っとけるわけないだろ」
「なぜ──」
掠れた声だった。
弱っているせいだけじゃない。
もっと別のもので、奥のほうから擦れているような声だった。
「なぜ追ってきた」
「なぜ助けた」
「なぜ、あれを見せた」
一つずつ、責めるというより、確かめるように言う。
藤野は少し黙ってから答えた。
「助けるだろ。あの状況なら」
「……だから最悪なんだよ」
朝日奈は唇を噛む。
傷が開いたのか、また血がにじんだ。
藤野は眉をひそめてティッシュを差し出す。
朝日奈は受け取らない。
「白瀬に見られた」
「分かってる」
「分かってない」
即答だった。
朝日奈はようやく顔を上げる。
目の奥が、ひどく不安定に揺れていた。
「君は、自分が何を見られたのか分かってない」
「……」
「ただの能力じゃない。あいつがああいう目をする時は……」
そこまで言って、言葉が止まる。
喉の奥に引っかかったものを、そのまま押し戻したみたいだった。
藤野はしばらく待った。
だが朝日奈は続きを言わない。言えないのだと分かった。
公園の静けさがやけに耳につく。
少し離れた茂みのあたりで、虫が鳴いていた。
藤野はベンチの前に立ったまま、朝日奈を見る。
手首の痕が目に入る。
赤黒く残った跡は、見間違いようもなく異様だった。
「……何されてたんだ」
朝日奈の肩が小さく揺れた。
「その手首の痕、ただごとじゃないだろ」
返事はない。
けれど黙ったまま目を逸らすのが、かえって答えみたいだった。
「もう、何も聞かないままじゃ済まねえよ」
強く言ったつもりはなかった。
でも、自分でも思っていたより声が硬かった。
吐血して、震えて、あの男の前で明らかに様子がおかしかった。
見てしまった以上、何も知らないふりはできない。
朝日奈はしばらく黙っていた。
やがて、切れ切れに口を開く。
「……あの男は、灰黒重工で研究をしてる人間だ」
そこで一度、息が詰まる。
「……オレの能力も、あいつが研究してた」
藤野は無意識に手を握り込んでいた。
「……それで、いままた接触してきたのか」
「……ああ」
「何が目的なんだ」
その問いに、朝日奈の表情が強張る。
「……それは言えない」
短い言葉だった。
知らないんじゃない。誤魔化しているのでもない。
言えない、という響きだった。
藤野は奥歯を噛みしめる。
「……今日は何されたんだ」
少し間が空いてから、朝日奈は答えた。
「……実験みたいなものだ」
それだけだった。
それだけなのに、嫌な冷たさが腹の底に落ちる。
実験。
その一言で済ませられるようなことじゃないのだろうと、分かってしまった。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは朝日奈のほうだった。
「……君は、普通でいられたんだよ」
ぽつりと落ちた声に、藤野は目を向ける。
「少なくとも今日までは」
朝日奈は膝の上で手を握っていた。
震えを抑えるみたいに。
「隠していればよかった」
「知らないままでよかった」
「君は、君のままでいられたのに」
責めているわけではないのが分かった。
本気でそう思っている声だった。
藤野は小さく息を吐く。
「……俺が勝手に使ったんだろ」
「そういう話じゃない」
朝日奈は苦しそうに首を振る。
「そういう話じゃないんだよ……」
その言い方で、藤野はようやく分かる。
こいつは、自分のせいで巻き込んだと思っている。
藤野はそれ以上そこに触れなかった。
代わりに朝日奈の前にしゃがみ込む。
「口、見せろ」
「は?」
「切れてる」
「今その話はしてないだろ」
「してる途中でも傷はそのままだろ」
あまりにも普段通りの言い方だったせいか、朝日奈は一瞬だけ言葉を失った。
藤野はティッシュを押しつける。
朝日奈は露骨に嫌そうな顔をしながら、ようやく受け取った。
「……君」
「ん」
「そういうところ、ほんとに意味がわからないな」
「俺もお前のこと意味わかんねえよ」
すぐに返すと、朝日奈は少しだけ目を細めた。
でも言い返す元気はないのか、また視線を落とす。
藤野はしばらく黙って、それから静かに言った。
「これ以上、無理やり聞き出す気はない」
朝日奈の指先が止まる。
「でも、もう見た」
「見たからには、何もなかったことにはしない」
夜の空気は冷たいのに、妙に熱がこもる言葉だった。
「お前が嫌でも、遠ざけられても、俺は勝手に気にする」
朝日奈は俯いたまま、小さく笑った。
笑った、というより、息が漏れただけに近い。
「……勝手だな」
「知ってる」
「本当に、勝手だ」
今度は少しだけはっきり言って、朝日奈はベンチの背もたれに体重を預けた。
藤野はそのまま立ち上がった。
これ以上聞いたところで、こいつは全部は言わない。
ただ、離れる気にもなれなかった。
白瀬の顔が頭に残っている。
あの男は明らかに朝日奈を脅かしていた。
それだけじゃない。藤野のことまで、何か測るみたいに見ていた。
きっと朝日奈は逆らえない。
何かを握られている。そうとしか思えなかった。
そうでもなければ、あんな顔はしない。
あんなふうに、言葉を飲み込んだりしない。
今の自分には、何もできない。
その事実が、どうしようもなく腹立たしかった。
朝日奈はベンチに座ったまま、手の中のティッシュを見ていた。
弱っているくせに、まだ一人で平気なふりをしている。
そういうところまで含めて、放っておけなかった。
藤野は何も言わず、少し離れた場所に立った。
問い詰めることも、慰めることもできないまま。
それでも今は、ここにいることくらいしかできなかった。




